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4 「優しくなければ男じゃない。可愛げがなければ女じゃない」

 日曜日。

 私はゆっくりと目を開けて、同じくらいゆっくりと体を起こしてから、時計を見た。

 とうに昼は過ぎていた。むしろ夕方に近かった。

 時間を把握したら、お腹が鳴った。

 夕べは何も食べてないから、夜、朝、昼、と3食立て続けに取ってないんだから、無理もない。

 だけど動くのがかったるくて、私は再びベッドに横たわった。

 当たり前だけど、すでにアリスは活動しているらしくて、ここにはいなかった。

 むしろ、家にいる気配がない。加えて、珍しく琢也も出掛けているのか、隣の部屋からも、リビングからも物音は聞こえない。

 一人、か。

 ……久しぶりだ。

 そういえば最近、一人で家にいることなんてなかったわね。

 オヤジに話をしたあと、コンビニで働いて仕事を覚えて、それから店長になって……。

 店長になるくらいにアリスと出会って、うちに住み着いて、んで琢也もだんだんと居つくようになって……。

 大抵誰かがいた。

 仕事から帰ったら、誰かいた。

 起きたら、誰かいた。

 だから、誰もいない、というのがこんなにも落ち着かないことだというのを忘れていた。

 シーン、という音のない音が耳に入ってくるのが嫌で、布団を被った。

 布団をかぶっても、シーンという音が染み込んで来る。

 この音が嫌いだ。

 シーンとか、キーンとかいうこの音は、一人であることを異様に強調する。

 一人だ、一人ぼっちだ、お前は一人だ。

 うるさい、だまれ、余計なお世話だ。

 塞ごうと心の声を張り上げる一方で、小声ながらも、その理由を考える自分もいる。

 なんで一人なんだろ。私が変だから? 嫌な奴だから? 我侭で、乱暴で、黒くて、暗くて、だけどそんな自分が嫌で、なんとか変えようとしている割には変わらないから? 普段はあんなんなのに、一人になった途端に、こんな風になるから? それが隠せなくて、滲み出てるから?

「……く、る」

 立ち上がって、洗面所に向かう。

 そして流しにへばりつくように佇む。

 クルナ、バカ。サイキン、ナカッタノニ。

 吐くまではいかない。でも吐けないせいで、強烈な吐き気はいつまでも消えない。

 体の中から消えない感覚を消すために、バスルームに入って、シャワーの蛇口をひねる。

 服を着たまま水を浴びる。寝起きの冷えた体から、更に体温が奪われていく。

 だけど、吐き気は消えない。

 体が震え始める。

 だけど、シャワーは止めない。

 いや、止めたい。だけど、体が動かない。

 動こうと思ってるのに動きたくなくて、考えようとしてるのに考えられない。

 言葉がてんでばらばらに組み合わさって、体にちゃんと命令が伝わらない。

 手を上に止めて、シャワーの水を捻って、服を立ちあがって、髪を脱いで、ご飯を乾かして……


 ン?


 オカシイ?


 ヘンカモ


 ダケド、ナニガヘン?


 エット


 ナンダッケ?


 ナニシテタ?


 ナニ、シテンノ、ワタシ?


 わかんない


 ワカンナイ


 わかんないのかどうかワカンナイ


 わかんないんだとしたら、ナニガわからなくて、なにがワカラナイカラ分からないと思ってるのか、というか私はなにを考えてて、あれ?


 えっと


 あー


 もー


 なんか……


 どうでも……


「おい、こら、バカおぜうさま!」


 意識が現実に呼び戻された。

 言葉がきちんと組み合わさって、意味のある文章になる。

「あぁ……琢也だ」

 それでもまだ全体としては、ぼんやりとしてる。もやのかかった意識と視界の中、琢也はシャワーを止めて、私の服を脱がせて、タオルで水分を拭き取ってから、ベッドに運んだ。

「どんだけ水遊びしてたんだお前は」

 夏なのにエアコンを暖房にして、布団をかけて、部屋と私を暖めながら、クローゼットから着替えを引きずり出す。しかも、余所行きの高いやつばっか選んでる。クリーニング代にいくらかかると思ってるんだ。あんたの安いワイシャツと一緒に考えてるんじゃないでしょうね?

「最近ずっと調子悪そうだったから、危ないとは思ってたんだけど、案の定だもんなー」

 何の話?

「休日だからって、息どころか、魂まで抜くなっての」

 面白くないから。

「ほら、とりあえず下着だけでも付けるぞ」

 勝手にやるなバカ。

 と思いつつも、体は動かない。口すらも動いてない。

 琢也はそんな私に動じることもなく、慣れた手つきで私に下着をつけた。どうしてこんなことが出来るのか、元気な時なら、小一時間問い詰めるところだけど……

 って、そうか、私、今、元気ないんだ。

 自覚すると、なんでか笑えて来る。

 元気が無いと分かった瞬間に笑いがこみ上げるとは、われながらひねくれてるっていうかなんていうか……一言で言うなら、頭おかしいんじゃないの? だ。

 このままじゃいけない。

 おかしすぎる人間は、この社会じゃいきられない。

 だから、まともにならないと。

 ホンモノのワタシが、現実の私にならないといけない。

 ワタシが感じるワタシでなく、誰かが定める私にならないといけない。

 ……アリス。

 アリスは?

 そう、アリス。

 アリスがいないと落ち着かない。

 私は知っている。

 私が、心のどこかでアリスを支えにしていることを。

 それも、普通の人間が思うようなキレイな繋がりなんかではなく、だ。

 愛情。

 友情。

 信頼。

 絆。

 そのどれもが当てはまるようで、そのどれもが当てはまらない、もっと特異な気持ち。

 ……親子に近いのかもしれない。

 それも、息子から卒業できない母親みたいなの。

 あの子を守っている気になって、私は落ち着く。

 心の奥から保護欲をかきたてるあの子がいて、その保護欲をアリスに注ぐことで、私は私を支えている。

 何かの役に立っている。

 誰かの役に立っている。

 そこにいるだけで、不思議と誰かを救ってしまうような人間であるアリス。そのアリスを私は支えられる。それは間接気に、私が多くの人間を救っているように思える。

 そんなことをいえば、アリスはきっと全力で否定してくれる。

 私もそれが全てだとは思えない。

 だけど、まったく無いともいいきれない。

 いや……。

 いい。

 どうでもいい。

 とにかくアリスだ。

 アリスはどこ?

 教えなさいよ、そこのエロマンガ家。こんな時に役に立たないで、いつ私の役に立つって言うのよ。

「……アリ、スは?」

「んー? ちょっとやることあって出掛けてるよ」

「……無職のくせに?」

「無職でもやることはいろいろあるんだよ」

 おでこを軽く叩く琢也に対して、何も反応できない自分がひどく惨めに思えてくる。

「売れ、ない、エロマ、ンガ家は?」

「お前、よくその状態でそういう発言できるな」

 どうだ、凄いだろう。

 あんたがこの呼ばれ方をするのが嫌いなのは、とっくに知ってるのよ、ざまーみろ。

「オレが何してたかは、起きれば分かる。だからさっさと冬眠から目覚めろ」

 琢也はそういうと、動けない私を置いて、キッチンに向かった。

 扉は開けっ放し。だから、音が聞こえてくる。

 シーンでも、キーンでもない。コポコポとか、カチャカチャとか、人がいる音がする。

 その音に温められるように、ゆっくりと体と意識が感覚を取り戻していく。

 そして、それから10分くらいしてから、私はようやく起き上がり、薄手の毛布を巻いて部屋を出て、

「えい」

 琢也の背中を思い切りつねった。

「いったぁ!?」

「やーい、ひっかっかたー」

「何にだよ!!」

「さぁ?」

 首をかしげながらイスに座ると、温かいコーヒーが出された。すでにミルクも砂糖も入っている。ブラックがいいのに、という顔をすると、胃に悪いから、と反論をされた。仕方ないから我慢して飲む。

「そろそろ落ち着いたか?」

「……ん、いちおう。ごめんね」

 ここは素直に謝っておく。

 あーなってる時はそんな意識はないけど、普通の状態に戻ると、大迷惑をかけていたという自覚はある。しかも黒い部分が全快で出たりするから、普段ならセーブするようなことも平気で口にする。まぁ琢也の耐久力があればさっき程度ならどうってことないと思うが、何にしろ後味は悪い。

「いや、オレこそちょっとのつもりで外に出たのがよくなかったな」

「その通りよ、反省しなさい」

「冗談いえるようになったら、まずまず、か」

 まだ黒さが残っているのか、微妙な返答をする私だったが、琢也に怒った風はない。

 心が広いというより、私の酷い時を知ってるからだろう。中学から高校あたりが一番酷かったけど、一緒に暮らすようになってからも、何度かこの発作というか、発狂というか、鬱病っていうか……なんといっていいのか分からないけど、妙な状態に陥ることがあった。

 よく、ストレスとかが原因でものを壊したりとかする話しがあるでしょ?

 あれが、自分の内側に向かったようなもの。自分で自分の神経を攻撃するから、物事がよく分からなくなって、何もしなくなるらしい。途中までやってたことをそのままほったらかしにしたりするから、さっきみたいに水浴びたままになってたり、火が燃えたままだったり、転んで流血したままっだたり、むしろ体が呼吸の仕方を忘れたりとか……そんな感じ。

 で、それを超えても暫くまっくろくろすけがうじゃーって出てる状態に陥る。

 よく考えると、恋人ができても長く続かない原因の一番はこれかも。そりゃ付き合ってる相手にボロクソに言われれば、愛情もなくなるってもんよね。女なら大抵は泣くし、男もプライド傷つけられて憤慨するだけだものね。

 どこかに笑って流したり、それをばねに成長するような男いないかしらね? 女でも可。っていうか、そんなできた人間が私の恋人になったりはしないか。

「で、アリスはどこ?」

「さっきも言ったけど、やることがあって出かけてるよ」

「あんたはどこ行ってたの?」

「ちょっとお使いにな」

 といって、見慣れないキーをポケットから取り出す琢也。家の鍵ではない。というかよく見たらそれは、車の鍵のようだ。だが、琢也がマイカーなんてものを持っているはずが無い。

「車の鍵なんてどうしたの? 路上にあるのは捨ててあるわけじゃないのよ?」

「人を泥棒扱いするな。友人から借りてきたんだよ」

「なんでよ? 地球温暖化に拍車がかかるから歩きなさいよ」

「デートに行くのに歩きじゃサマにならないだろ?」

「相手は誰? 誘拐した中学生? 知ってるだろうけど、合意の上でも16歳以下は犯罪よ?」

「児童ポルノ法ならオレの方が詳しいぞ」

「嫌な自慢ね」

「ごもっとも」

 そして互いにコーヒーを飲む。

「って、ちげーよ。それで話を終らすなよ」

「あんたが勝手に終ったんでしょうが」

「あー、あー、悪かった悪かった。とにかくデートの相手は香織、香織おぜうさまだよ」

 少し、耳を疑う。

 『カオリオゼウサマ』がデートの相手ということは……

「あんたの周りには、香織って言う名前のお嬢様が多いの?」

「幸か不幸か、目の前にいる相手だけだな」

 てことはやっぱり、デートの相手に私を指名しているということね。

「なんで私があんたなんかとデートしないといけないのよ」

「どうせ暇だろう?」

「私より暇なやつに言われたくないわよ」

 という私のもっともなセリフなんて聞かずに、琢也は自分の部屋に入って、着替えを始め出した。

 私は絶対に行くもんか、とカップのコーヒーをすする。

 行かない理由は特にない。ただ、こいつとデートというのは、どうにもむず痒い気になるのが、理由といえば理由だ。

 こいつが転がり込んでからだいぶ経ったけど、2人でデート……いや、デートどころか、買い物だってろくに行ったためしがない。私は日曜日以外は毎日仕事がある。日曜日はオヤジの会社から派遣される副店長みたいなのが来てるから休みなんだけど、その休みだって、大抵はアリスと一緒にどっか行くか、だらだらと過ごすかの二択だ。

 私にとって琢也は、いればいた方が便利だけど、いないならいないで、まぁなんとかなるか、みたいな存在だと認識している。けして、一緒にどっかに行きたいと思ったり、ディナーを楽しみたいと思えるようなタイプじゃない。私の趣味でいえば、男は最低でも30を超えないと話しにならない。頼り甲斐とか、渋さとか、落ちつきとか、そういったものがないのであれば、可愛い女の子の方が、はるかに好みだ。

「だ、か、ら、行かない」

「心の中で行きたくない理由を語るな。俺はエスパーか?」

 心の中で語ってると当てただけでも、充分エスパーよ。

「とにかく、行かないったら、行かない。今日はだらだらするの。明日からまた仕事あるんだから、アリステラピーで癒えるの」

「効果があるんだか、ないんだか微妙なネーミングだな」

 という返答と共に、琢也が部屋から出て来る。

「ほら、コーヒー飲んだらさっさと着替えろ」

 口調もノリもいつもと変わらない。

「とりあえず食事に行くからな。もう予約はとってある。つってもそんな気兼ねするような店じゃないけどな」

 なのに、私は思わず……その、なんていうか、自分の目を疑った。

 こいつは本当に、あの琢也なの?

「……あんた琢也よね?」

「水の浴びすぎで頭おかしくなったか?」

 琢也だ。間違いない。

「……あー、そうか。そういえば、お前の前でまともな格好したことなかったな」

 そういうと、琢也は一輪挿しに刺してあった花を適当な長さに折り、私の髪にカンザシを刺すように飾った。普段なら、何をキザなことしてるんだバカ! となるはずなんだけど、今は違う。

 似合う。ピシっとしたスーツと、ハリのあるシャツとネクタイ。普段は伸びっぱなしのヒゲも丁寧に剃ってるし、髪型も整えている。全体的に落ちついてるのに、きちんと若さも感じる。ホストほど嫌味ったらしくなくて、でも会社員のような日常感は漂わない、理想的なセンスと空気。

「お前の趣味に合わせると、こーいうのだろ?」

 言葉が出ない。悔しいけど、確かに私の趣味だ。

「……これで、顔がジャニーズに変わったら合格」

「残念だが、俺はアンチジャニーズだ」

「じゃぁ、せめてハリウッドスター」

「洋画かぶれに、日本の俳優のワビサビはわからねーだろうな」

 あれこれいっているが、こうしてみると、別に悪い顔立ちではない。確かに最近の流行とは違うだろうが、日本人らしいといえばらしい顔つきだし……と思うけど、でもむかついたので、本当のことはいってやらない。

 が、そんなことすら見抜いているのか、琢也は人の悪い笑い声を上げながら、イスに座った。

 そして私の目を真っ直ぐに見ながら口上を述べる。

「宜しければ、私めにあなたのエスコートをさせて頂けませんでしょうか、ミス香織」

 今時、映画でもマンガでも使わなそうなその気持ち悪い誘いに私は……


「特別に受けてあげるわ」


 ……不覚にも頷いてしまった。


 が、本当の不覚はこの後だった。というか、不覚の連続だった。デートの最中、不覚しっぱなしだった。

 自家用車も持ってないくせに運転はスマートだし、連れていかれたレストランは、内装も料理も文句ないし、途中で立ち寄った雑貨屋は、小さい割には良いものばかり置いてあるし、私が散々目移りして選んだ小物を買って車に戻ると、一足先に戻っていた琢也が車の中に花束とプレゼントを用意してるし……

 で、今こうして酒を飲んでるバーだって、置いてある銘柄も、雰囲気も、とにかく私の好きなものばかり。今まで少なからず男にエスコートされたデートをしたことあったけど、ここまで私の好みに合わせたプランを作ってきた男はいなかった。

 正直、嬉しいし楽しい。

 でも相手が……このプランを立てて、しかもほぼ完璧にこなしてるのが琢也だと思うと、じわじわと怒りにも似た悔しさが湧き上がってくる。

「なんであんたみたいに、ずっと家に篭ってる男が、こんないい店知ってるのよ」

「最近のマンガ家は、画力だけじゃー、やってけないんだよ、おぜうさま」

「あんたいっそ、マンガ家なんて辞めてホストになりなさいよ」

「嫌なこった」

 その澄ました顔がむかついたので、テーブルの下で足を踏みつけてやると、いつもの琢也らしい顔に戻った。輝きもりりしさも抜けて、家庭臭がしみついた主婦と、いつまでも家から出て行かない息子みたいなオーラが戻る。

「やっぱあんたは、そっちの方が落ちつくわ」

「人が一生懸命、演じてやってるのに」

「もう十分よ。ありがと」

 いろいろと文句も言ったし、攻撃も加えたが、こいつが私のためにいろいろしてくれたことは間違い無いし、ありがたいと思う。ただ、いつまでもそんな着飾った状態で目の前にいられるのも、それはそれで嫌なのよね。

 琢也の方もそれを察してくれたのか、整えていた髪を乱暴に崩して、きっちり締めていたネクタイを緩めて、首もとのボタンを開放した。

「1度解いたら、もう元には戻れないからな」

「ラスボスの変身後みたいね」

 琢也のグラスに自分のグラスを軽くぶつけて、互いに口に運ぶ。

「もう夜、か」

 店内の時計は、夜どころか、そろそろ日付変更へと近づいてきている。

「今日はいい気分転換になったわ。ありがと」

「ま、そういって貰えたなら、ちょっとは頑張ったかいがあったってもんだ」

「まさか、あんたがこんなことしてくれるなんて思わなかったわ」

「目に見えて弱ってたからな」

「私が?」

「自覚はあるんだろう?」

 その質問にはっきりと答える代わりに、苦笑いを浮かべて返事にする。

「ま、オレとしては、弱ってなよなよしてる方が可愛げがあって好きなんだが」

「じゃぁ早いとこ立ち直るわ。あんたに惚れられても迷惑だから」

「そうしてくれ。オレもお前に惚れるのは避けたい。それに、いつものお前じゃないと、どうにも落ちつかないちびっこがいるからな」

 アリス、ね。

 今、こうして落ちついたから思えることだけど、確かにあの子にはかなり心配をかけてたと思う。心配だけならまだしも、嫌な思いをさせたかもしれない。

 お風呂の誘いをつっけんどんに断ったり、関係無い愚痴や、苛立ちをぶつけたりしたかもしれない。

 アリスは、忘れ易い代わりに傷つき易い。回復は早いけど、防御力は限りなく低い。

 あのバカに関する一連のことで、だいぶ傷付けてしまったのは、間違い無いだろう。

「……この時間でも空いてるケーキ屋って知ってる?」

「そういうと思って、このパティシエめが用意いたしましたよ、おぜうさま」

 琢也が鞄から取り出したのは、こいつお手製のカップケーキ。ちゃんと包装までしてある。しかも、クマの絵柄がついたラブリーなやつ。

「もう少ししたらアリスの用事も終わるだろうから、迎えに行くぞ」

「その用事ってなんなの? その口ぶりだと知ってるみたいだけど」

「な、い、しょ♪」

「キモイ」

 間髪いれずにストレートに攻撃したのに、琢也は心臓に毛が生えているのか、微塵もダメージを受けてくれなかった。やはりこいつには精神攻撃よりも物理攻撃ね。蹴りは今やったし、つねりもやったから、あとはビンタがババチョップあたりだろうか。

「じゃ、行くか」

 私の攻撃の気配を読んだのか、それともたまたまか、とにかく琢也は立ち上がると、支払いを済ませて店を出た。私も少し遅れて店を出る。

 そういえば、今日の支払いは全部こいつがしてるんだけど、どっからその資金が出てるのかしらね?

 今だかつてこいつから生活費とか家賃の類を預かったことは無いんだけど……って、逆に私も食費とか渡したことなかったわね。当然アリスに収入があるわけないから、こいつが自腹で材料費とか払ってるんでしょうけど……。

「ねぇ、エロマンガ家って儲かるの?」

「いいや、ぜんぜん」

「なら、あんたどっから資金調達してるのよ」

 琢也の口がぴたりと閉じた。それでもしつこく尋ねると、琢也は恐ろしく真剣な顔で一言述べた。

「キクナ」

 泣きそうと言うか、叫び出しそうと言うか、とにかくいい話しでないことは確かなようだ。普段なら根掘り葉掘り聞くところなんだけど……今日は大目に見てあげることにする。

 私が追求しないことに安堵した琢也は、良く考えれば飲酒運転にも関わらず、相変わらずなハンドルさばきで夜道を進んで行く。やがて私のマンションが近づいてきて……そしてその前を素通りした。

「あんた、どこいくつもり?」

「ホテルっていったら?」

「ここから先は、オプション料金がかかります」

「お前はどこのホテトルだ!」

 呼んだことがあるのか、あんたは。

「まぁ、冗談として、もう少しだけ付き合えよ」

「明日も仕事あるんだから、ちょっとだけよ」

「分かってるよ」

 そういって、琢哉は2分ほど車を走らせて、ローカル線の駅近くのパーキングに車を止めた。そして、真っ黒な手ぬぐいのような布を取り出して、私に言った。

「これで目を隠せ」

「あんたにそんな趣味があると思わなかったわ」

「あるけど、今はオレの趣味を披露する時間じゃねーよ」

「あるんだ」

「そこを拾うな」

「で、趣味でないなら、なんなのよ?」

「行けば分かる。行けば分かるさ」

 どっかで聞いたことあるようなフレーズをはきながら、手馴れた様子で私に目隠しをする琢也。まぁもう少しくらいなら、このデートごっこに付き合ってあげてもいいだろうと思って抵抗しなかったんだけど……こいつが普段アリスにどんないけない遊びを教えているのか、明日以降、じっくり聞いてやらないといけない気がしてきた。

「ふふ、みんながお前のこと見てるぜ」

「納豆を喉に詰まらせて死になさい」

「嫌な死因だな」

 琢也の手に引かれる形で、どんだけ歩いただろうか?

 私は妙にざわざわしている、人が密集してできる音を聞き取った。

 ……まさか、本当にヤバイ集会にでも連れてこられたのかしら?

 もしそうなら、非人道的手段をとってでも逃げ出してやる。

 そう覚悟を決めて、足に力をいれたところで、目隠しが外された。

 薄暗い明りですら強く感じるほどに暗闇に慣れていた目が、ゆっくりと馴染んでいく。

 そして、私は見た。

 視界一面に広がる……花畑を。

「……え?」

 思わず言葉がなくなった。

 桜、梅、イチョウ、すずらん、コスモス、ハイビスカス、ヒマワリ、ユキワリソウ、ダリア、タンポポ……季節も土地も無視した色とりどりの花が、所狭しと生えている。それぞれの花は、互いに主張しながら、でも相手を尊重しあうように、乱雑に、でも整然と咲き乱れている。

 夜明かりと街灯を受けた花畑。そこには、照りつけるような激しさはない。だけど、全てを飲みこんで、全てを許してくれるような温もりを感じる。

 これはなに?

 夢?

 それとも実は、シャワーの水で死んでしまった私が、あの世に辿り着いて見ている景色?

 ……ううん、違う。

 これは現実だ。

 間違いなく、現実の風景だ。

 昔、似たような景色を見たことがある。

 今日のように、わけがわからなくなって、吐き続けて、胃の中が空っぽになって辿り着いた先で、同じような花畑を見た。その花畑は、街の片隅に陣取って、街行く人の足を次々に引きとめ、幻のように不安定なくせに、言いようのない存在感を放っていた。

 目の前の花畑と同じように。

 そして、こんな花畑を作れる人間を、私は1人だけ知っている。

「……アリス」

 壁に向かっていたアリスが、こっちを振り向いて、にっこり笑う。

「もうちょっとで完成だから、待っててね」

 そしてアリスは、再び壁に向かう。手に、安物の絵の具を乗っけたパレットを持ち、足元にはやっぱり安物のカラースプレーや、クレヨン、油絵の具なんかが転がってる。

 そして、踏み台に乗って、小さな手で花畑を作っていく。近所のガキどもが適当に落書きをしては、不愉快な思いを道行く人間に与えていただけの壁が、花畑になっていく。

「アリスのやることって、これだったの?」

「そ、朝から絵の具とか買いにいって、ずっとこれと格闘」

 それでこの人垣……。

 みれば、本当ならこれを止めないといけない警官までもが、アリスの作る花畑を興味深そうに見守っていた。

「……ん、これで完成!」

 アリスが踏み台からぴょんと降りると、拍手が起きた。誰も喋らない。ただ、その花畑に足を踏み入れたように呆けながら、拍手だけが夜の空に飲まれていく。

 その拍手に興味を覚えたのか、酔っ払いがやってきた。カップルがやってきた。弾き語りがやってきた。不良がやってきた。次々に人がやってきては、その拍手に加わった。拍手は花畑を飛ぶ蝶の羽音や、木々のざわめき、風の走る音のように聞こえる。

 ……人の音だ。

 拍手のリズムが、だんだん心臓の音に聞こえてきた。

 別々の心臓を持った、バラバラの人間が、まるで同じ塊になったように、心臓の音を合わせる。

 そのきっかけは、この花畑。

 花畑の絵が書かれた壁。

 その壁に絵を書いたのは、小さな同居人。

 絵を書く以外にたいした興味はなく、しかもその絵をどうこうしようということにも興味の無い人間。

 あんたは知ってるの?

 大勢の人間が、あんたのようになりたくて地べたをはいずりまわってるのよ?

 大勢の人間が、あんたのようなやつに出会いたくて、空を飛び回ってるのよ?

 なのにあんたは、私の部屋なんていう狭いところに住み着いて、たまに外に出ては、行きずりの人間に触れるだけで、また部屋に戻ってしまう。


『世界にいってみたいとか思わないの?』

 アリスは答えた。


『プロになってみたいとか思わないの?』

 アリスは答えた。


『大勢に自分の絵を見てもらいたいって思わないの?』

 アリスは答えた。


 私がその手の質問をするたびに、アリスは同じような答えをいつも口にした。


 アリスは答えた。


『それより、香織ちゃんと一緒にいたいから』


 そう、アリスは答えた。


 昔のことを少しだけ振り返っている間も、拍手は止まってなかった。アリスは四方八方から押し寄せ、賞賛や質問を投げてくる人間をを掻き分けて、こっちへとやってきた。

「お待たせ」

 アリスの顔に、黄色や白がくっついている。

「ね、こっちきて、こっち」

 そして赤や青がくっついた手で私の手を取って、再び人ごみを分けながら、壁に近づく。

 壁は、シンナーや絵の具の匂いしかしないのに、でもやっぱり花畑に見えてしまう。

「ここ。ね、ここ」

 花畑に魅入っていた私の手をぐいぐい引っ張って、花畑の一角に私の視線を持っていく。

 そこには、一軒の建物があった。周りは全て花ばかりなのに、ここだけどうして建物があるんだろう?

「名前、かいて」

 アリスが私に筆を握らせる。

「名前って、なんの?」

「お店の」

 あぁ……そういうことか……

 改めて花畑を見る。

 咲き誇る花畑の一角にある建物は、お店。

 良く見ればそこには、絵が飾ってあり、カフェを楽しんでる人がいて、そしてアクセサリーを眺めている人がいる。

 これは、私のお店なんだ。

 私の、ギャラリーカフェショップなんだ。

 いつか、私が掴もうとしている夢なんだ。

「……香織ちゃん」

 アリスが笑ってる。

「忘れちゃだめだよ?」

 そう、ね。

「負けちゃだめだよ?」

 そう、ね。

「約束。ね?」

 えぇ……約束、ね。

「ほーれ、さっさと書け、おぜう様。明日も仕事なんだろ?」

「うっさいわね、言われなくても書くわよ」

「お店の名前、決まってるの?」

「考えてなかったんだけど……今、決めたわ」

 そして私はペンを握り……自分でもおかしいんじゃないかってくらいに強く握り締めながら、名前を看板に書きこんだ。

 それを見て、アリスがくすぐったそうに笑う。タクヤも、珍しく照れたようにそっぽを向いた。

「お前、よくそういうくさいの書けるな」

「えー、ステキだよ」

「そうよ。なにせこれは夢だもの。少しくらい臭くてちょうどいいのよ」

 琢也がやれやれとばかりに、アリスが散らかした道具の片付けを始めた。

 私はそれを見ながら、書き終わって疲れが一気に出たのか、ふらついたアリスを抱きとめて、人垣をわけて先に車に戻った。暫くして、タクヤも片付けをおえて車に戻って来る。

「相変わらずアリスはお前にべったりだな」

 アリスが私の手を握って寝ている姿を見て琢也は苦笑する。

「羨ましい?」

「お前がいない間に堪能してるからそうでもない」

 私は運転席を蹴り飛ばしてやった。ダメージはないが、これで傷でも付いたら、弁償するのは琢哉だ。精神的、財政的ダメージは十分与えられる。琢哉も私の目的が分かったのか、態度を改めると、頼むからやめてくれと泣きついてきた。

「分かればいいのよ、わかれば。ほら、さっさと車だしなさいよ。明日も仕事だっていったでしょ」

「ったく、なんでお前みたいなやつがいいんだ、このちびっこは」

「そんなん決まってるでしょ」

 私はアリスのほっぺたをつまみながらいった。

「この子の趣味がおかしいからよ」

 琢哉は笑った。

「変人は変人同士気が合うわけだな」

「よかったわね、今回は仲間はずれにならなくて」

「お前、変人同盟にオレも加えやがったな」

「自覚無いの?」

「無いな」

「なら、気が合わない相手と暮らす気なんてないから出て行きなさい」

「うそある。ないなんてこないあるあるよ」

「どこの大陸の人よ! っていうか、あるのないのかよくわかんないじゃないの!」

 そして私たち変人同盟は、3人揃って、いつものあの部屋に帰っていった。

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