2 「嫌よ嫌よは、嫌なんだってば!」
いつものように目をこすりながら日付が変わる前に布団に向かったアリスを見送りながら、リビングでお酒を飲んでいた。だが、どうにも酒の進みが悪い。せっかくおつまみに輸入物の高いチーズを用意したのに、おいしいとも思わない。一人酒が嫌いなわけじゃないし、酒に弱いわけでもない。
改めて考えなくても、あの高校生のことが気になっていることは分かる。放っておいても良かったと思う。捕まえる方も捕まえられる方も、あれこれとメンドウなんだから。
でも見た以上はどうしてもほって置けない。経営者だからとか、父親の店だからとかじゃなくて、単にあーいうことが許せない。正義感が働くのとはまた違うと思うんだけど、とにかくムカツク。
「むぅ……」
時計を見ると、アリスが寝てから三十分ほど経っていた。このまま一人で仏頂面でお酒を飲むのも不毛だ。
「れっつごー」
チーズを切って、新しいワインとグラスを二つ持ってふすまを開ける。
「だぁぁ!?」
慌ててチャックを閉める琢也。めったなことがない限り、私がこの部屋にやって来ることはないから、だいぶ油断していたようだ。
「あれね。思春期の息子を持った親の気分だわ。って別にその息子のことじゃないわよ? 男の子って意味よ?」
「分かってる! オヤジクサイ発言をかますな!」
「そんなことをしてるあんたが悪いのよ」
足でふすまを閉めて……ちなみに開けるときも足で開けたわよ。
今日はマンガの原稿をやってなかったのか、作業机として使っている折り畳みのテーブルが空いていたので、そこに皿やワインを置いて胡坐をかく。スカートだとさすがにやばいけど、ズボンの時はこっちの方が楽。それに、女の子座りっていうの? あれは骨盤とかに悪いそうよ。
「お飲み」
「お前はどこの女王様だ」
文句を言いながらも琢也はワインをグラスに注いで、一つを私に寄越した。
「乾杯は?」
「何に乾杯しますか、おぜうさま?」
「私の瞳に」
「見た瞬間、石にされそうだな」
私はメデューサか。
キィンとグラスとグラスがぶつかり、ワインが喉を通る。飲み方が雑なのか、赤い筋がついた口元を手でぬぐうと、琢也はチーズを口に放り込む。
「で、どうした?」
「なーにが?」
「何かあったから来たんだろう?」
琢也は作業机を引きずって私の近くに運ぶと、そのまま隣に腰を落とした。
薄くタバコの臭いがする。原稿を書く時に一本吸ってから書き始める癖があるそうで、部屋と琢也の服には、いつもうっすらとタバコの匂いが染み付いている。
嫌いな匂いじゃない。やたらに長くて覚えにくい名前をしたタバコは、なんとなく夜っぽい匂いをしている。
「さっき散歩行ったじゃない?」
タバコの匂いを感じながら、ぽつぽつとさっきあったことを話す。
小学生の作文みたいにぶつ切りな言葉を聴きながら、琢也が空いたグラスにワインを注いでくれる。
全部話し終える直前にグラスを飲み干し、また注がれたワインをグラスの中で弄びながら締めくくる。
話し終えると、自然にふぅーっと長い息が漏れた。
「で、何がそんなに気になるんだ?」
「いやぁさ、御節介だったかなーって」
「そういう性格なんだから、しょうがないんじゃないか?」
「そこはフォローするところでしょう」
ガスっとわき腹を小突くと、琢也は苦笑しながら私にチーズを咥えさせた。
「じゃぁ見てみぬふりする性格に変われそうか?」
手を使わずにチーズを食べながら考える。
「無理」
「ほらな」
全部食べ終えた私の口に再びチーズが装填される。
「悩みを履き違えんなよ。お前が気にしてるのは、アリスを不安にさせたーってことで、別にその高校生が警察にとかってのは気にしてないだろ?」
「……はもひれない」
チーズ咥えてるから上手く喋れない。ちなみに今のは「かもしれない」と答えた。
「高校生のことが気になるなら、お前の性格云々を悩む必要もあるかもしれないけど、アリスのことなら答えは簡単。はい、どうしますか香織さん?」
「……なかったことにする」
チョップを食らった。
「謝る」
「正解」
チョップされたところを撫でられた。
「ま、アリスは気にしてないって言うだろうけどな」
「私もそう思う」
「でもお前が謝りたいなら謝ってすっきりすれば? それでもまだ足りないなら、ケーキでも買ってやれば忘れると思うぞ、アリスだし」
「そうね、アリスだものね」
「うん、アリスだから」
ごめんアリス、でもそこに関しては琢也と同意見だ。
「で、琢也君のお悩み相談室はおしまいでいいのかな?」
「うむ、許す」
「なんで相談した方が偉そうなんだ?」
「私が家主だから。チーズもワインも私が買ったの。どぅーゆーあんだーすたーんど?」
「それを言われるとなんとも反論できないな」
苦笑する琢也。
「で、やっぱりこれも家主様には逆らえないわけだな?」
男物のシャツのボタンを外す私の手を指差す琢也。
私は耳元に口を寄せてその質問に返答する。
「これに関しては、自分の右手の方が好きなら辞退してもいいわわよ?」
琢也は私の耳元に口を寄せて返事を寄越した。
「朝までお供しましょう、お嬢様」
それに対して私はマジメに答えた。
「それは無理。一回やったら寝る。あんたと違って私は明日も仕事なの」
「ムードを考えろ!」
「昔からよく言われるわー。女のくせにムードを考えなさすぎって」
「そこは性格改善しようぜ」
「いいから、やるのかやらないのかはっきりする!」
「やる!!」
「よし!!」
いつのまにか体育会系になっていた。
まぁ、私は気にしない。
とにかく気分も楽になったし、身体も動かしたしお酒も飲んだしで、その日はぐっすりと眠ることができた。
「……今何時?」
「見るな。見ると後悔するぞ」
「時間分かってたなら、起こしなさいよ!!」
「努力はした」
ぐっすり寝すぎて遅刻寸前になるというオチがついたけどね……。
でも、その日一番話題になるべきことは、そんなことでなく、もっと別にあった。
夕方、昼間担当のバイトと入れ替わるようにやってきたバイト君たちの一人に小林君がいた。
その小林君の細い顔に、あざが出来ていた。それもちょっとやそっとじゃない、かなり大きくて色の悪いあざだ。
「どうしたの、それ?」
「ついさっき、自転車に乗ってたら、スリップして電柱にぶつかちゃって」
恥ずかしそうに語る小林君。でも口を動かしただけで痛むのか、顔をしかめる。
さすがにこの状況でバイトをやらせるのは可哀想な気がする。
「今日は休みでいいわよ」
なるべく小林君が気を使わないように勤める。が、元々気遣い屋の小林君にはどんな言い方も通用せず、あたふたとさせてしまった。
「いえ、大丈夫です」
「お客さんも心配しちゃうでしょ?」
「あの、なら、裏の仕事とか中心で」
マジメなのもいいけど、大人がこう言ってるんだから、甘えればいいのに……
「百合ちゃん、大庭君、二人ともいいわよね?」
残り二人のバイトメンバーは快くそれを承諾してくれた。二人ともそんなに目立つ人間ではないけど、基本的にいい子で助かる。
「でも、二人じゃ……」
「私が入るから大丈夫よ」
「そんなわけには」
尚も食い下がろうとする小林君を、知らず知らずのうちに睨みつける私。慌てて表情を改めたけど、どうやら逆にそれがよかったらしい。これ以上言っても、私の機嫌を損ねるだけだと察したのか、小林君は深く頭を下げると、何度も謝りながら、店を出て行った。
「さ、がんばりましょうか」
正直面倒ではあるけど、小林君のためなら仕方ない。それに、こういう機会でもないと、夕方メンバーの仕事の良し悪しも見れないしね。
物事は何事も、なるべくプラスに取るべきよ。
……そう思ってできないことなんて、ざらなわけだけど。
そしてやっぱり、私はポジティブに生き切ることができない人間のようだ。
「いらっしゃいま……」
思わず言葉が途切れる。
「うーっす、店長さん」
現れたのは、矢口。相変わらずヘラヘラしてる。しかも周りに気を使うということを知らないのか、異様に声がでかい。
「小林いないっすか?」
「小林君なら帰ったわよ」
「え、どうしてっすか?」
「いらっしゃいませー、お会計710円です。はい、ありがとうございました」
「ねぇ、どうしてっすか?」
「怪我したからよ」
手短に用件にだけ答えて、次の接客を始める。
「んだよ、使えねーな、小林……あぁー、マジ困ったぁ」
マジだよ。そして困ってるのはこっちだよ。いいから帰れ。そして二度と来るな。
見て分かるでしょ、今こっちはレジ対応してるのよ。余計なこと喋ってる暇も、喋りかけられてる暇もないの!
私は目だけで大庭君を呼ぶと、レジの対応を代わってもらって、バックルームに引っ込んだ。グッジョブ大庭君。もしあそこで大庭君が気づいてくれなかったら、私はカウンターにいながら、かなり凄い形相をしたかもしれない。
「香織さん、あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、百合ちゃん。ありがとう」
百合ちゃんも品出しの手を休めて、私のことを心配してくれた。そして、彼は帰りましたから、と一言添えて、仕事に戻って行った。
……最悪だ。何をやってるんだ私は?
自分よりも年下の人間に気を使わせて、自分の気持ちもコントロールできないで、バカみたいじゃない。
店の売り上げが伸びない4番目の理由に、店長がふがいないから、も追加だ。
「……ムカツク」
その言葉は、何よりも自分に向かう。そしてその言葉に負けないように表情を改める。深夜のバイトが来るまで……仕事終わりまで、残り3時間。夕方の仕事……お菓子の搬入と、ディスプレイなんかでいえば、私よりも大庭君たちの方がはるかに出来る。だから、私の仕事は接客。つまり、レジ。一番お客さんと接する係りだ。そのレジ係がふてくされた顔のまま仕事をするわけにはいかない。
不貞腐れた顔は、ずさんな対応は、クレームに繋がる。店に不満を抱えた客は他の店に行く。ここが渋谷や新宿、駅前といった、客がばか見たいに多い店ならまだいい。だけど、うちみたいに住宅地にあって、近隣住民のリピーターが主な客層の店では、そのたった1人が100人に匹敵する重みを持つ。
人の噂は火の如く早い。そして人は、事実よりも顔見知りの言葉の方を真実と見る。
それが何に繋がるか……1人の不満は噂として広がり、10人を店から遠ざける。その10人は更に10人を遠ざける。
そして売り上げが落ちる。
売り上げが落ちることは、私の夢が遠ざかることを意味する。
そんなことは許されない。私が私を許せない。
……あんなガキのせいで、夢が遠のいてたまるか。
無理矢理笑顔を作ってレジに立つ。たかがコンビニの、つまらないレジの仕事だと思われてても、絶対に手を抜いてなんてやるもんか。
ヘラヘラも、バカも、アホも、男も女も、じじーもばばーも、おばさんもおっさんも、ガキも、それ以外も!
レジなんて、楽でいいわね。主婦なんて大変なのよ。
そんな仕事やめて、オレの彼女になりなよ。
コンビニでいいよねー、私なんて毎日嫌な上司にお茶頼まれるし。
たかがコンビニの店員がなめてんじゃねーぞ?
なんとでもいいなさい。
お客として私の目の前に立つ以上は、笑顔で迎えてあげる。
あんたたちが気持ちよく買い物できるようにしてあげる。
それが私の夢に近づくことだから。
それ以外に、私ができることなんてないんだから。
そう思いながら、ほとんど毎日コンビニに向かう。
新しいバイトもそのうち決まる。
矢口も来なくなる。
小林君の怪我も治る。
そうすれば今までどおりだ。私は今までどおりあれこれ悩みながら、自分にできることを1つづつこなして、結果を残していけばいい。
なのに……
なのに、なのに、なのに!
「なんだっていうのよ!?」
喚きながらテーブルを叩いた。じーんと、自分の手の方が痛くなるくらいに強く。
「こらこら、テーブルが可哀想だぞ」
「可哀想なのは、私の方よ!」
アリスが驚きながら、イスに座ってアイスココアを飲んでいる。クリームを浮かべたココアは、かなり甘ったるそうで、胸焼けしそうなほどだった。
「あれから毎日のように来るのよ、あのバカ!」
「えと、湯口くんだっけ?」
アリスの間違いを訂正しながら、ブラックのアイスコーヒーを一気に飲み干す。琢也にお代わりを頼むと、胃に悪いから、とカフェオレにされた。
「しかも、小林君もなんか怪我増えて休みがちだし」
暑さのせいか、集中力と体力が落ちたのかも、と小林君は語る。まぁ、見るからに体は弱そうだし、この暑さはきついだろう。かと思うと、店内の冷房が辛いと長袖を着てくる。そんな小林君だから、休むのは仕方ない。ただ、それが重なると、さすがに私の好感度も減少気味だ。
休んだ代わりに出るのは、主に私。夕方メンバーががんばって埋めようとしてくれてはいるが、高校生、大学生が多いせいで、どうしても穴はできる。それは、店長の私が埋めるしかない。
「で、頑張ってる香織のところに矢口がやってきて、話しかけてくる、と」
「暇なのかなぁ? その男の子」
「好きなんでしょ、年上のキレイなお姉さまが」
冗談じゃないわよ、と琢也を睨んでから、カフェオレを飲む。まずくはないけど、そのマイルドさがなんだか奇妙だ。その奇妙さは苛立ちを増幅させ、ここ最近の嫌な光景を次々に掘り起こしてくれる。
増える労働時間。毎日のようにやってくるバカ。その二つに堪えながら、懸命にレジに向かう時間。しかも悩みの種である品減りは解消されない。しかも、もう完全に店員のミスなんかじゃなくて、明らかに万引きされていると分かるほどの被害額が出ている。なのに、どんだけ監視カメラの画像をチェックしても、犯人らしきものが出てこない。
あー、ほんとヤダ。ほんとムカツク。
そのムカツキに合わせて、どんどんと喋る。喋ればすっきりするかっていうとそうでもなく、逆に生々しく気持ちを呼び起こして、不愉快さが増していく。その不快さは逆に言葉の生産スピードを上げる。それは一から十まで、話したことがあるものからないものまで、とにかく思いつく限り片っ端からだらだらと垂れ流しになって出て行く。
「バカもバカだけど、小林君もさ……足とか背中とか、この前は腹痛だって。とにかく、そんな次々怪我しなくてもいいじゃない。もうちょっと普段から気をつければ、そんなに――」
「香織、ちょっと待った」
「なによ?」
今まで人の話をろくに聞かずにボールで卵を溶いていた琢也が、その手を止めてこっちを見る。しかも、普段の気の抜け切っただらしない顔じゃなくて、少しだけどキリットしまってる。
「小林君の怪我って、最初の顔以外は、ほとんど服で見えない場所に集中してないか?」
だからなんなのよ、と思いつつも、振り返る。
「……確かにそう言われれば、そうかも」
琢也が、ボールを脇において顔をしかめる。
その表情を見た私も、足元から寒気が昇ってくるのを感じた。
もしかしたら私は、自分の苛立ちに気を取られすぎて、大事なことを見逃していたかもしれない。
元から線が細いから寒がりだとはいえ、夏のこの時期に長袖を着て外を歩くのもおかしいといえば、おかしい。そもそも、店にはちゃんと長袖のユニフォームがある。寒いならそれを着ればいいし、店に来てから長袖に着替えたっていいはずだ。なのに、小林君はまるで地肌を隠すように、常に長袖を着ている。
「……もしかして私」
「見落としてたのかもな」
いや……かも、じゃない。確実に、見落としていた。
分かる。見えてきた。流れが見えて来た。
なんでこんな、簡単に分かるような流れを見落としてたんだろう……。
普段の私なら、いくらイライラしやすいとはいえ、見抜けていたはずな――
「もしかして、私がこうなることも考えてた?」
「かも、な」
あのバカが?
それはない……いや……ありえるかもしれない。ずっとバカだバカだと思ってたけど、小林君と同じ学校ということは、勉強の出来はそう悪くないはずだ。なら、頭の回転の速さだけなら、中の上の私より勝ることは十分考えられる。
「……知り合いに、隠しカメラ持ってるやつがいる」
「……借りれる?」
「早いうちに用意する」
アリスに、何に使うの? と聞かれたが、私は何も答える気にならなかった。




