開かずの間・内
日付が変わろうかとする頃だった。
「餃子が食べたい」
そんな京間さんの一言によって、部屋に残っていた俺を含めて三人の今日の夜食が決定した。
京間さんは戻ってくる心積もりのようで、軽く机の上に散らばっている資料を整理して、自転車の鍵を探し始めている。俺はそのまま帰るつもりなの で、借りた本やらレポートやらをカバンに突っ込んだ。俺は、自転車も原付も持っていない。残る一人、藤岡さんのバイクの後ろに乗せてもらうのだ。
その藤岡さんはというと、彼も部屋に戻ってくるつもりはないらしく、あまり大きくないリュックサックにタブレットと分厚い本を閉まって、代わり にかなりしっかりしたヘッドホンを取り出した。それを首にかけると、もうすでに準備が出来て待っている俺と京間さんを見て、「行きましょう」と関 西弁のイントネーションで口にした。
「何でいきなり餃子なんですか?」
「んー? 茅乃さんが昨日食べたって言ってたから?」
「惚気か!」
「違うよ」
ははは、と笑いながら先頭を行く京間さんが、ドアを開けようとする。しかし、ガタッと、明らかに外側から無理矢理にドアを押さえられているため に開かない音が聞こえた。しばし間があった後、京間さんは再びドアを開けようと試みたが、結果は同じだ。ガタッと音がして、開かない。
振り向いた京間さんと、藤岡さんと俺は、三人で顔を見合わせた。
「開かないね」
「開きませんね」
「どないします?」
藤岡さんの問いに、京間さんはうーんと首を捻る。その間も後ろ手で、扉を開こうと試行しながら。しかしそのたびに、がたん、と外側から扉が押さ えつけられているらしい音がして、扉は全く動かない。
……紙で塞がれたガラスに人影は映っていない。ということは、人が扉を押さえつけているのではない、ということだ。とすると真っ先に考え付く原 因は、誰かがイタズラでつっかえ棒でもしていった、という辺りだろう。俺たち三人以外が帰ってからもうだいぶ時間が経っているし、三人ともそれぞ れがやっていることに熱中していたから、今の間までに誰かがつっかえ棒をしていったとしても誰も気付けなかっただろう。不思議なところは何もな い。
「右手さんが押さえてるんだから、出ない方が良いだろうなあ」
しかし京間さんが言ったのは、俺が考えていたのとは全く異なる理由だった。……右手さんというのは、この部屋のドアにくっついて居る(らしい、 俺は見えない)「右手しかない人」だそうで、普段は客人が来るとこのドアを開ける、という一見分かりづらい怪異現象を起こしている。その「右手さ ん」がドアを押さえているために開かないなんて、果たしてそうそう思いつくものだろうか。いや、その影でも見えたから、そう言ったのだろうが。
「鶫、何か聞こえる?」
京間さんがそう言うと、藤岡さんはあまり気が進まなさそうな様子で、 前に出る。そして、紙の貼られたガラスにぺたりと右耳をくっつけた。その向こうのひそひそ話に耳を澄ませようかとするように。
難しい顔でその姿勢を保っていた藤岡さんは、一分ほど経ったところで、体をドアから離した。そして、首を横に振る。
「特別には、なんも」
「だとすると、ますます出ない方が良いな」
「まあ、生きてるもんの方が厄介なんは確かですけど……」
まだ難しい表情のままで、藤岡さんは京間さんに答える。俺には理屈はよく分からないが、というかこの人たちのこういうところを理解できた試しが ないが、藤岡さんには「死んだモノの声が聞こえる」そうだ。まあ一般的に言えば、死者の声が聞こえる、という表現になるだろうか。本人が言うには 「死ぬのは人だけじゃない」ということだが。
その藤岡さんが何も聞こえないというのだから、死んだモノはこの外には居ない、ということだ。更に俺には何の影も見えないことから、其処に何か 居るのだとすれば、それは人間でもない。
「……ま、夜が明けたら出られるだろうさ」
「そーっすね」
「餃子は明日だな……ああ、残念だ……」
そう言いながら、京間さんはドアの前から離れて、部屋の方へと戻っていく。外に出ることは諦めたらしい。その姿が見えなくなって、俺は改めてド アに手をかける。引いても引いても何かに止められるばかりで、一向にドアは開かない。見えはしないが、本当に「右手さん」が押さえているとでも考 えないと、納得出来ない。じっと、ガラスの上端を見つめる。
「……京間さんの言うとおり、どうせ朝になれば出られんねんから、そないに深刻な顔しなや」
藤岡さんがそう言う。……そんなにひどい表情をしていただろうか。右手を眉間に当て、とりあえず揉みほぐす。
「俺は聞こえも見えもしないし、初めてのことだから、疑うぐらいさせてくださいよ」
「気持ちは分かるわ。俺も見えんから、右手のことはよう知らんし」
一人でこくこくと頷く藤岡さんに、俺ははあ、と生返事をする。そうか、右手さんについては藤岡さんと俺は同条件なのか。見えもしなけりゃ聞こえ もしない。
「ただまあ、経験上、右手がドアを開けんときがヤバいんは、知ってる」
「やばいっていうのは……」
「まあ、それぞれやけども……とりあえず、朝になれば分かるやろ」
そう言って、藤岡さんはくああと大きく欠伸をする。目元を手で擦りながら、眠たげな目を俺に向ける。
「帰れんのやったら俺は寝るけど、九折はどないする?」
「あ、俺も寝たいです」
「やったら、寝袋二つ要るな。テーブルでちょい待っときや」
また一つ欠伸をして、藤岡さんも部屋の中へと戻っていく。藤岡さんも、出ることはもう諦めているらしい。試しても試してもやはりドアは開かない のだから、俺もそろそろ諦めるべきだろう。
部屋の中に戻ろうと数歩前へ進んだところで、一度後ろを振り返る。そこにある開かないドアは、本当にいつもと変わらない、何の変哲もない普通のドアにしか、見えなかった。
翌朝、俺を起こしたのは、部屋にやってきた月見里先生の足音だった。
床に転がっていた俺は、見覚えのあるサンダルとチノパンの裾がやってきて、定位置に落ち着くのを確認して、まだ重たい体を起こした。
隣ではまだ藤岡さんが寝息を立てて眠っている。しっかりとヘッドホンを耳に当てたままだ。京間さんは、と思って彼の机の方を見るが、そこには居 ない。
「京間なら、外だ」
後ろからかかった声に振り向くと、月見里先生がこちらに歩いてくる所だった。手に持っているのはマグカップ、恐らくコーヒーを淹れるのだろう。 流しを見ると、コーヒーメーカーになみなみとコーヒーが入ったまま、保温の状態で置かれている。
月見里先生はそのいつからあるかも分からないコーヒーをマグカップに注ぐと、そばの棚からグラニュー糖の瓶を手に取り、ざーっと中身をカップに 入れる。粉のミルクも同様にしてカップに入れた。そして、スプーンでよくかき混ぜた後、口を付ける。なんでそんなものを美味しそうに飲めるのか、 俺には理解が出来ない。
「お早うございます」
「ああ、おはよう。よく眠れたか?」
「ええ、まあ……夜中に二度ほど、地震で目が覚めましたけど」
「ほお。地震、なあ」
片眉を跳ね上げさせて、月見里先生はそう言う。驚いているような、もしくは興味ありげな表情だった。
「……昨日は右手が大変だったみたいだが」
「ああ、なんかドアが開かなくて」
「あれが開けさせまいとしたんだろう。あいつはなかなか、情が深い」
「はあ……」
俺には見えもしないものに人間に対するのと同じ言葉を使う月見里先生が、俺にはとても奇妙に思えた。先生は当然のことのように、コーヒーを飲み ながら何の変哲もなく、そう言うのだが。
「疲れてるみたいだったから、今日は労ってやらんとな。来客がなけりゃいいんだが……」
「……そうですね」
ずず、と先生がコーヒーを啜る。
俺は、京間さんが何をしているか気になって、一度外を見ようと思った。
「ああ、そうだ、九折」
「……なんですか?」
背を向けた所で名前を呼ばれ、俺は顔だけで先生の方を振り向く。先生は、コーヒーに口を付けつつ、手元の画面を眺めていた。
「夜中に地震なんて、起こっていないぞ」
「え」
「……まあ、せいぜい右手に感謝しておけ」
それだけ言うと、先生は携帯電話をポケットに閉まって、マグカップを手に持ったまま、歩き始めた。そのまま、もう何も言うことはないとばかりに、自分の席へと戻っていった。
俺は、しばらく先生の言葉の意味を考えて動けなかった。地震がなかったと言われても、俺は確かに酷い揺れで目を覚ましたのだ。あの揺れは、それじゃあなんだったんだ。
そうだ、京間さんにも聞いてみよう。そう決めて、ドアの方に向かう。京間さんが揺れたと言えば。観測されずとも確かに地震があったと、証明になる。そう思いつつ、一方で疑念も頭をもたげていた。あれは本当に、地震だったのか?
ドアは開けっ放しになっていて、外に立って腕組みをしている京間さんが見えた。
「お。おはよう、九折」
近付く俺に気付いたのか、京間さんはにやりと笑みを見せて、手招きをした。俺はそれを見て小走りになる。何であんなに楽しそうなんだ、と不思議に思いつつ。
ドアをくぐったその瞬間、嫌な臭いが鼻をついた。ドブの水が腐ったときの臭いをもっと酷くしたような。同時に、びちゃ、と足が水を踏んだ音がした。立ち止まって下を見ると、黒い水溜まりのようなものが、そこに広がっていた。
「ああ、なにやってるんだか」
何がおかしいのか京間さんが笑いながら言う。その反応に何か得体の知れないものを感じて、俺は慌ててその場から前に飛び退いた。黒い水は粘っこく、足を離すときにべりっという音がするほどだった。
「その靴、後で燃やすよ。まったく、九折は不用心だ……まあ分からないもんはしょうがないか」
「本当に、何がさっぱりですよ……何だっていうんです、水溜まりを踏んだからって」
「だって、汚れたものは燃やすのが一番じゃないか」
きょとんと、至極当然の常識を問うようにして、京間さんはそう言った。背中を、悪寒がぞわぞわと撫であげる。
思わず肩を抱きながら京間さんから目をそらし、自分が出てきたドアの方を見た。
――ドアの至るところに、昨日まではなかった大小の傷がつき、窓ガラスにはひびが入っている。二カ所大きく、黒い絵の具を擦り付けたように汚れていた。床には黒い水たまりがあり、ドアの汚れはこれかもしれない。そして水たまりの上には、動物の毛と思しきものがちらほらと浮かんでいる。忘れていた悪臭が、鼻をついた。
「これだけ血を流しても逃げられるなんて、厄介なものを、誰が連れて来たんだか
京間さんが楽しそうに言う。俺は悪臭のために込みあげてきた吐き気をこらえるため、両手で口を押さえた。
目を伏せれば嫌でも自分の靴が目に入る。それが嫌で咄嗟に顔をあげれば、楽しそうに俺を見る京間さんと目があった。
京間さんは、笑みを深めて、言う。
「扉が開かなくて、良かっただろう?」
……俺は、胃をひっくり返そうかとするような猛烈な吐き気に、その場にしゃがんで、みっともなくえずいていた。