名刺・銅像・階段
持ち帰った名刺の違和感がどうしても拭い去れず、俺は友人や先輩、果ては後輩にまで、名刺を見せては聞き回っていた。
サークルのボックスで、何度目か分からない問いかけに七里がうんざりした様子で欠伸をしたのと同時に、名刺を睨んでいた先輩があ、と声をあげる。
「何かありました、五代先輩」
「うん、あったあった。や、違うわ、なかったの」
正反対のことを続けて言いながら、先輩は俺に名刺の表を向けて見せる。京間さんの名前が書かれている右横、大学名の部分を指差した。
「これ、普通は研究室の名前まで書くんよ。研究科までやったら何しとうか分からんから……」
「――ほんとだ」
指摘の通り、そこに書いていて然るべき、あの研究室の名称が抜け落ちている。表札に書いていた……民俗文化研究室、だったか。全く先輩の言うとおりで、研究室の名前がちゃんとあるなら、書いておくに越したことはないのだ。
疑問が解けてすっきりした気持ちで、俺は名刺を先輩から受け取る。それを学生証のケースに押し込んで、財布にしまった。
「なんで書いてないんだろうな?」
ぽつりと、七里が呟く。机に上半身を突っ伏し、すっかりだらけた様子だ。
俺と先輩は顔を見合わせ、それから互いに肩をすくめた。そんな理由なんて知るはずがない、知っていたらそもそもそのことを不思議に思わないだろう。
だが、違和感の正体を知れば、七里の言うことが気になるのも確かだ。今日の放課後の予定を頭の中で決定し、俺は七里と同じように机に突っ伏した。五代先輩が俺たちの頭上で溜め息をつくのが聞こえた。
階段をのぼり、左手を見ると、ドアがひとりでに開くところだった。木製の引き戸が、音もなくするすると開く様子は、実は自動ドアです、と言われても信用に足りそうなものだ。目撃するのは二度目になるが、未だに慣れない。
前回、京間さんに「右手さん」とやらの命名由来を聞いたところ、「ドアを引くのが右手だけの人だから」という答えが返ってきて、何というか脱力した。そのまますぎる名付けと、明らかに人じゃないものへの京間さんの反応の薄さにだ。
あの人にはこの奇妙な光景が、どういう普通に、どういう当たり前に見えているのだろう。そう考えながら、全開のドアをくぐって、部屋の中に入る。衝立で区切られた狭い通路を通って、木のテーブルの前に出た。
テーブルの一角に、スラックスとシャツ姿の京間さんが陣取り、上体を机に突っ伏している。その横にはスーツの上着が投げ出されていた。
「なんかお疲れですね」
俺が声をかけると、京間さんは首を回してこちらを見た。今までにはかけていたところを見たこともない眼鏡をかけている。寝起きのように、ぼーっと焦点の合わない目をしていた。
「あー……仕事だよ仕事。久しぶりだから疲れた、で、寝てた」
「仕事してるんですか?!」
「なんだ、その驚きようは」
憮然とした様子で言い、京間さんは体を起こす。一度大きく伸びをして立ち上がると、眼鏡を外して机に置いた。そしてそのまま俺に背を向け、ミニキッチンへと向かう。ケトルに水を入れてコンロに乗せ、火をつけた。
「ドクターで兼業してるやつなんざ、珍しくないよ。TAやらで学内で稼げるならともかく、そうじゃないなら資金源は重要だから」
「そーいうもんですか」
「そういうもんだよ。ねえ、先生」
最後、言いながら京間さんはこちらを振り向く。しかし、その目は俺に向かってはおらず、俺のさらに後ろへ向いていた。俺は京間さんの視線をたどり、自分の後ろを見た。
壁や窓に向かって並べられた机のうち、一番広いスペースをとっているものの前に、行儀悪く座っている人がいた。脚を机の上に投げ出し、椅子を後ろに引いてほとんど寝そべるような格好だ。入ってきたとき全く気づかなかったその人影に、俺は思わず肩を跳ねさせる。
京間さんが「先生」と呼んだということは、この研究室の教授か、或いは准教授クラスの人なのだろう。とてもそうとは思えない態度だが。
「コーヒー飲みますか?」
「……頼む」
「了解です。インスタントですけど、文句はなしで」
答えて、京間さんはマグカップを三つ棚から取り出す。その中に、だいぶたっぷりとインスタントコーヒーの粉を入れた。
「九折、砂糖とミルクどーする?」
「……砂糖なしのミルク多めでお願いします」
京間さんはこちらを向かないまま、粉のミルクの茶色い瓶を手にとって、三つのうち二つに瓶から直接中身を振り入れた。その次は、グラニュー糖の袋を持ち上げ、また袋から直接、胸焼けしそうになるような量を、カップのうち一つに入れた。
「なんつーエグい飲み物を……」
「そういうものだろう、コーヒーは」
すぐ後ろから聞こえた声に、俺は慌てて後ろを振り向いた。さっきまで机の前に居たはずの人が、そこに立っていた。身長は俺と同じぐらい、よれよれの白衣を羽織った、無精ひげを生やしっぱなしの男性。さっき見えた足は裸足のままだったが、今はそこにサンダルを履いていた。
ざっと全身を一瞥した後、俺は一歩後ろに下がる。送られてくる視線が強く、威圧的だったからだ。色付き眼鏡の奥の目はよく見えないのに、見られているという圧力は確かにあった。
「俺は認めたくないですけどね、先生の意見」
「苦いのが嫌いなんだよ」
「ならコーヒー飲まなきゃ良いでしょ」
「……おい、お前」
京間さんの正論を無視し、男性は一度京間さんにやった視線を俺のもとに戻し、口を開く。その視線の強さに動きそうになる体を、俺は必死に制御した。これ以上後ろに下がったら、机に当たってこける。そんな間抜けは嫌だ。
男性は目を眇め、すっと右手をあげると、俺の頭の横の空間を人差し指で差した。
「そいつはどうにかならんのか。さっきから鬱陶しい」
ケトルの笛の音が背後で鳴る。
それを合図にしたように、ぞわりと、悪寒が背中を走った。一度だけだが、体の芯から震え上がるような感覚だった。
この人もだ。この人も、俺の後ろに佇む「もう一人」が見えている。あまつさえそのもう一人の態度に難癖を付け、俺に対応を求めている。見えないものに対して何をどうしろというのだ。
俺は助けを求めて、京間さんの方を見た。丁度、二つのカップを持ってこちらを向いたところだった。
「無茶ですよ、先生。九折には彼が見えてないんです」
そのままこちらに歩いてきて
、俺と男性の間に入る。そして双方にカップを差し出した。俺は自分に向けて出されたカップを受け取る。男性も、俺の背後を差していた右手で、カップを受け取った。
「見えてない? 冗談だろう」
「全くほんとですよ。後ろの彼が先生を見てたのは、単に自分に気づく人が物珍しくてかと」
男性は、京間さんの言葉を聞きながら、再び、先ほど指さしていた辺りを見た。片目だけをきょろきょろ動かし、俺とその空間とを交互に見る。左手を口元に当てて、小さくうなり、息を吐いた。
京間さんが俺と男性の間を離れる。すると、男性は一歩前に出て、俺の頭の横の空間に左手を伸ばした。何かに触れるような手つきでその辺りを探った後、口元に手を戻し、唇を開く。
「ドッペルゲンガー、か」
聞いたことはあれど、自分とは縁遠かった言葉に、俺は目を瞬かせる。恐らく、俺ともう一人とを指して言ったのだろうが。
「なら、見えるはずもないな」
そう言って、興味なさげに目を伏せると、男性は俺の横をすり抜け、木のテーブルの前の丸イスに腰かけた。
俺は、今の言葉の意味を問いただしたくなったが、振り向いていざ男性を見ると、躊躇する気持ちが大きくなって、開きかけた口を閉じた。脚を組み、椅子に腰掛けるその様子はふてぶてしいとさえ言えるのに、その男性の存在が奇妙に薄っぺらいものに感じられたからだ。
京間さんが、自分のカップを持って、男性の向かいに腰掛ける。こまったような笑みを浮かべていた。
「先生、九折が困ってます」
「だからどうしろと」
「もう少し言葉を拡充させても良いんじゃないかと思いますがね。……九折」
京間さんが、俺の方を見て、男性を右手で示しながら、口を開く。
「こちら、ヤマナシサトル先生。月の見える里に悟り、で月見里悟。えーっと……もう教授でしたっけ?」
「でないと研究室は持てん」
「だそうだよ」
京間さんはにこりと笑っていて、対する月見里先生は機嫌の悪そうな顔でコーヒーを啜っていた。俺は少し戸惑いながら、よろしくお願いします、と頭を下げる。
顔を上げると、今度は京間さんの左手が俺を示し、視線は月見里先生に向けられていた。
「で、先生。これが前から言ってる九折。手前のが柊と書くシュウでお兄ちゃん、奥のが珍しい字の方の苳で弟だそうです」
「……良いのか、ばらして」
「まあ、大分重なってるみたいだし、大丈夫じゃないですかね」
よく分からないやりとりの後、月見里先生が俺を見る。さっきと同じ、圧力を感じるような視線が全身を舐めるように這った後、また俺の横の空間に視線が固定された。
数秒そうした後、月見里先生は再び俺に視線を戻し、気のない様子で口を開いた。
「あまり面倒ごとには、首を突っ込むなよ」
俺は思わず、首を何度か縦に振る。京間さんが小さく笑う声が聞こえた。そちらを軽く睨めば、ごめんごめんと軽い謝り文句が聞こえた。
ふん、と息を吐き、若干冷めたコーヒーに口を付ける。案外、ちょうど良い濃さだった。
「飲み終わったら、良いところに連れてってやるよ」
京間さんがにやりという形容がぴったりくる感じで笑っている。俺はそれが何のことか検討もつかなくて、首を傾げた。すると、京間さんは、右手をわざとらしく頭の上にかかげ、その指で「下」を、指差した。
「七不思議とやらに、会いに行こうじゃあないか」
楽しそうな京間さんに連れられてやってきたのは、授業の時にも使った一階の広間だった。頼りない程度の明かりしかなくて、何となく心細い。
こんな暗さをものともしない様子で京間さんはすたすたと広間を横切り、入り口の扉の前で立ち止まった。俺は京間さんの側まで行こうとしたが、一メートルほど手前で、手で制止を受けた。不思議に思いつつ、とりあえずその場に立ち止まる。
京間さんがいきなり脚を蹴り上げた。何か平べったいものが宙に舞う。そういえば玄関マットが敷いてあったはずだ。同時に砂埃が舞い上がり、思わず口元を手で押さえた。
ちょいちょいと俺を手招く京間さんに、口元を押さえ、若干背を丸めながら近づく。京間さんの視線は、足元に落とされていた。俺はその視線の先を見る。一メートル四方ぐらいの、取っ手のついた金属の板がそこにあった。
砂埃が若干落ち着くと、京間さんはその場にしゃがみ、その取っ手を掴む。そして、体ごと動きながら、その板を後ろにずらしていった。床と金属のこすれる音が、変に反響して気持ちが悪い。
京間さんが再び立ち上がったとき、俺たちの目の前の床には、四角い真っ暗な穴が、ぽっかりと口を空けていた。
「じゃ、俺の後に付いてきて」
「……何ですかこれ」
「何って、地下倉庫の入口」
事もなげに答える京間さんに、俺は目眩すら覚える。本当に、自分の立っている真下だったとは。いくらただの話とは言え、何というかこう、蛮勇的な行為に思えた。
俺が突っ立っている間に、京間さんはすでにその通路に進んでいる。階段になっているらしく、頭の位置が何センチか低くなっていた。
俺も、何だか重たく感じられる足を動かし、京間さんの後ろに続く。見下ろした穴の向こうは、明かり一つない真っ暗闇だ。思わず生唾を飲み込み、拳を握りしめる。
「そうだ、九折」
踏み出そうとした俺を、京間さんが振り向く。何かを企んでいるような笑みで、口を開いた。
「降りるときに、階段の数を数えとくと良いよ」
「段数をですか?」
「そう、そう。後で面白いことが起こるから」
それだけ言うと、また俺に背を向けて、階段を下りはじめる。その意図する意味は分かりかねたが、とりあえずその通りにしておこうと決めて、俺は今度こそ一歩を踏み出した。
一段目、二段目と踏みしめるごとに、自分の体が暗闇に沈んでいく。壁に手を添えながら、踏み外さぬよう慎重に足を前に出す。空気が湿っぽく、同時に埃っぽい。九段をすぎれば周りはもうほとんど暗闇で、次の段が分かるまでが、恐ろしく長く感じられた。
それでも、十、十一と数えながら、前に進む。そして、十四段目で、地面に段差が無くなった。両手を下ろし、その場に立ち止まる。目の前に京間さんが居て、ごそごそと手を動かしているらしかった。すぐに、小さい明かりが目の前に浮かび上がる。京間さんが手に持っているらしい、懐中電灯の明かりのようだった。
「何段だった?」
「十四です」
「うん。オーケーオーケー」
何が良いのか全く分からない。わずかな明かりでは口元ぐらいしか見えないが、京間さんは楽しそうに笑っていて、やはり訳が分からない。
しかしそれを尋ねる前に、京間さんはさっさと歩き出した。見失わないように、慌てて後を追う。小さな光がその目印だ。
少し慣れた目で周りを見ると、木造の棚が壁沿いに並んで、逆側には木箱が積まれていた。それで辛うじて通路のようになっているらしい。
「学生課の倉庫に、考古研が間借りしてたんだとさ。木箱が考古研、棚が学生課。ま、どっちも今は死蔵状態だけど」
光が右に曲がる。俺もそれに倣った。そしてすぐに止まり、光は木箱の中の一つに向けられる。その箱に蓋はない。中の、青銅色の人の上半身が照らし出されていた。
「そしてこれが件の銅像。理由はよく分からんが、とにかく像を渡したくなかった当局は、考古研の荷の中にこれを紛れ込ませた、ってわけ」
説明を聞きながら、俺は像をのぞき込んだ。威厳のあるしかめ面に、たっぷり蓄えられた口髭は、確かに総長の貫禄がある。像の周りに敷き詰められた布に落ちた影が、今見ている像が虚像ではないことを証明していた。
「さて、この間の話の続きだ」
「続きって……あれ以上何かあるんですか?」
怪談の不自然な名前、そして、誰も見たことがないはずの像の説明の付随。これ以上にまだ不思議なことがあるだろうか。
俺がそう言って首を傾げると、京間さんが大げさにため息をついた。
「あのなあ、九折……俺達は今、実際に、怪談の中の像を見てるんだ。そして、俺たちじゃなくても像の存在を知っていて、見たいと思えば見られる。この間に話した点を思い出してみろ」
「だから、消えた銅像っていう名前と……」
そこで、言葉を止める。あったはずのものが消えているという話になら、つけられていてもおかしくない名前。そして、銅像は今まさにここにある。ということはつまり――これなら確かに、おかしいところなど何もないじゃないか。
「あの怪談はもとは『倉庫にあるはずの銅像が消える』という話だった……」
ゆらりと、光が揺らいだ気がした。
「せいかい」
懐中電灯で自分の顔を照らしてにやりと笑いながら、京間さんは言った。つめていた息をゆっくり、ゆっくり吐き出す。いつの間にか握りしめていた手の平に、しっとりと汗が滲んでいた。
「はじめはそうだったはずなんだ。授業の時はわざとそう思わせない言い回しをしたけれど、ちょっと考えればその方が通りが良いのはすぐに分かる。そしてこれなら、像の説明があったのだって何ら不思議じゃない。実際に像を見てるんだから」
すらすらと台本でも読んでいるように、京間さんは言葉を紡ぐ。そしてその言葉の通り、この間の授業で指摘を受けた点は何ら問題なくなるのだ。怪談の名称も、何故つけることが出来たのか分からない像の説明も。
ほう、とため息をつく。解けた問題の明快さに。しかし京間さんは、もう説明など要らないと思われるのに、俺を見据えたまま、続けて口を開いた。
「この話の本当に怖いのは、改変された方の話が定着していることだ。調べれば分かることなのに、何で訂正もされずに、こちらの話が広まっている? どうして誰も、本当の話の方を言い出さなかった? まるで本当の話などなかったみたいに、後から改変された話だけが、きれいに残っている」
明かりが再び像を照らす。影が周囲に落ちている。確かに、銅像はここにある。
「俺は、そのことの方がよっぽど怖い」
そう言って、京間さんは今度こそ口を閉じる。わずかな明かりで見える横顔は、強張った無表情だった。
あきっぱなしの扉を、京間さんに続いてくぐる。ただいまもどりましたー、と言う声は、さっき地下で見た緊張感とはほど遠い。こちらの気も知らないで、呑気なものだ。
テーブル前の椅子に、倒れ込むようにして腰掛ける。机の上には、飲みかけで置いていったコーヒーが、そのままになっていた。
きい、というかすかな金属音が聞こえて、俺は後ろを見る。月見里先生が、自席のイスを回転させて、こちらを向いていた。浅く腰掛け脚を組んでいる様子は、やはりただのだらしない大人だ。
「してやられたか」
「はい、多分……」
京間さんにされた仕打ちのことだろうと思って、曖昧ながら肯定の返事をする。月見里先生は、深くため息をついた。
「すっかり恒例行事だな……おい、京間」
「九折が悪いんですよ。段を数えとけ、なんて言われたら何が起こりそうなもんか、すぐに分かるじゃないですか」
京間さんが不満そうにそう言う。声の方を見ると、窓際の自分の席らしき場所で、置いていったスーツのジャケットを羽織っているところだった。
確かに、ちょっと頭を働かせれば分かることだったかもしれない。階段の数を数えておけ、なんて前置きの後に起こる事なんて、全く限られているのだから。
「第一、先生だって俺を連れてって怖がらせようとしてたじゃないですか」
「不発だったろうが。嬉々として名前までつけやがった」
「だって『十三階段』って、不吉で良いと思って」
あの地下倉庫へ続く階段は、のぼりだと十三段しかなかった。下りより一段減る。何回やっても結果は同じで、俺は困惑し、京間さんは俺を見てにやにや笑っていた。「あるはずのものが消える」現象に実際に遭うだなんて、俺は思いもしなかったのだ。
「結構いい線いくと思うんですけどね、場所がここじゃなけりゃ」
「全くだ」
「先生みたいにうまくはいきませんねー」
「まったくだな」
タイミングの揃ったため息が聞こえた。俺は両者の顔を交互に見る。京間さんは残念そうではあるが笑いながら、月見里先生は心底呆れたような表情で、互いを見つめているようだった。
「懲りたなら、人の成果で後輩をおちょくるのも、いい加減にしろよ」
「懲りてないので止めませんけどね」
そう言った京間さんは、清々しいほどの笑顔を見せていた。言葉の通り、自分の行いによるダメージなど全くないと、うかがわせるように。対する月見里先生は呆れた表情のままわずかに目を眇めた。
俺は、二人の会話を頭の中で繰り返す。先生みたいにうまくいかない、とは、月見里先生も京間さんと似たことをしたということだ。似たことというのは、怪談に名前をつけること……いや、名前を付けて広めること、だろうか。月見里先生の広めた怪談が、先ほどの先生の言う「人の成果」なのだろう。そして京間さんは、「人の成果」で俺をおちょくっている。――嫌な汗が背中を流れた。そんなの、導き出される答えは一つじゃないか。
「銅像の話を広めたのって、月見里先生なんですか……?」
俺が、声が喉に引っかかりそうに感じながらもゆっくりそう尋ねると、京間さんはとぼけているつもりなのか俺と月見里先生から目をそらし、月見里先生はそんな京間さんを一睨みしてから、深いため息をつき、口を開いた。
「そうだ」
短い返答だが、それだけに嘘とは思えない。この人は何を考えてそんなことをしたんだろう、という疑問が続いて頭に浮かび、同時に鳥肌が立つ。京間さんの言葉が思い出されたからかもしれない。
「純粋に興味があったんだ。来る人間が限定されるような場所でなくて、大勢が普通に通る場所を舞台にするように話を変えてみたら、どうなっていくのか」
「それで、話の内容を反転させた……」
「表面だけだがな。……結果は予想以上だ。調べれば全部分かることなのに、俺が改変したものがあっという間に広まって、定着した」
月見里先生が、外へ視線をやる。何か発見したのか、じっと目を細めた。
「ミーム、という概念。知っているか?」
「はい、一応は……」
確か、遺伝子の考え方を文化の発展に応用した考え方だ。人から人に伝わっていく情報のもっとも基本的な単位をミームと呼ぶ。ゲノムに引っかけた名前だったはずだ。
「俺が内容を少しだけ変えた、まあつまり人工的に突然変異を起こしたことで、ミームの適応度が増して、淘汰されることなくより多くにより早く広まった。品種改良のようなもんだ」
「なるほど……」
「そして、広まりすぎたミームは現実に力を持つわけだ」
「……え?」
彼の言っている意味が分からなくて、俺は間抜けな声で聞き返す。月見里先生は、まだ窓の外をじっと見つめている。そこに何があるっていうんだ。この建物のすぐ外……
そこに至って、はたと気づく。あの怪談で銅像が立っているとされた場所はこの建物のすぐ側だ。まさか、まさか。
「俺は今まで何回も、あそこに立つあの像を見た」
思っていたとおりの、しかし決して起こってはいけないはずの言葉が、月見里先生から返ってくる。怖気が一挙に全身を包み、体が震えた。何より――まずもって、外は暗い。この建物の周りに常時ついている明かりはない。そんな中でこの人、どうやってそこにあるという像を見てるんだ。何事もない、普通の風景を眺めてるような素振りで。
「人は、怖いな」
そう言い、月見里先生はこちらを見た。目は見えない、でもやはり、視線の圧力だけが強く感じられる。何故だろうか、特に、右目からのそれが。
さっきの京間さんと同じことを言ってるのかなんなのか分からず、でも変に頷いてはいけない気がした。とりあえず、今この状況で一番怖いのは人じゃない。
「先生の方がよっぽど怖いよ、ねえ?」
背後から、京間さんが楽しそうに茶々を入れた。まさに俺が思っていたことで、思わず頷きそうになるが、すんでのところで止める。月見里先生の目が俺からそれて、一気に力が抜けた。と同時に、月見里先生が低く迫力のある声で、京間さんにおい、と呼びかけた。うなずかなくて良かったと、心底思った。
再び机に突っ伏したところで、当初の目的をふと思い出す。名刺だ。あの疑問を聞きに来たんだった。
顔を上げると、京間さんは楽しそうに、月見里先生は呆れ顔で、とさっきも見た構図でにらみ合っている。しかし、京間さんがこちらに気づいたのか俺の方を向いて、均衡が崩れる。
「何、九折。まだ気づいたことでもあるのか?」
好都合な問いかけに頷いて、机の上の鞄を引き寄せる。財布の中の学生証入れを取り出して、その裏の名刺を京間さんに見せた。
「この名刺、何かおかしいなって。で、先輩とかにも聞いたら、普通は研究室の名前も書いてるだろうと」
「……ああ、そういえば渡したな、名刺」
「何で、研究室の名前を書いてないんですか?」
俺が聞くと、京間さんは何故か気まずそうな顔をした。頭を掻きながら意味のない声であーうーと唸って、ため息をつきうなだれる。しばらくそのままじっとしていたが、いきなり顔を上げると、俺ではなく月見里先生の方を見た。
「先生、言っちゃっても良いですか?」
「今回は全くお前の責任だな」
「すっげえ嫌、だけど仕方ないな……」
そしてまた、ため息をつく。対する月見里先生がこんどは楽しそうに、というか馬鹿にしたように笑っていた。どうやら俺の質問は、京間さんにとっての弱味だったらしい。
「……本当は答えたくないけど、聞かれたから、言う。ただしこれは、本当の本当に他言無用」
「はあ……」
念押しを重ねる京間さんは、真剣な形相だった。しかし俺にはその必死さの理由が分からないので、気のない返事を返してしまう。京間さんがそのことを意に介した様子はなかったが。
「これ一応、公式の名刺っぽく見えるだろ?」
京間さんが俺の受け取った名刺を指差し、言う。俺は問いに頷いて答えた。だから研究室が書いてないのはおかしいと思ったのだし。
「だから、書いてないんだ」
京間さんが続けた言葉に、俺は首をひねる。俺が思ったことと正反対で、順接の前後がまったく繋がっていない。それで納得できるわけがない。
京間さんは、学生証入れから名刺を取り出して、自分の目の前にかざした。
「調べてそうと分かる嘘を名刺に堂々と書くのは流石にまずいからなあ」
「――どういう意味ですか?」
「ほら、研究室名書いてなけりゃ、ここに訪ねようにも普通じゃたどり着けないし、教務に聞いても突っ返されるだけだろうし、まあ、バカ正直に学校側に聞くような相手は居ないだろうと思うけど」
「いや、答えになってないですし」
「『悪魔の証明』、分かるな? 居ないことを証明することは困難だ。証拠が少ない場合は特に。俺達としては、研究室名を書かないことが最後の梯子外しになればと思って」
「だからまった、く、ってちょっと……」
俺が止めかけたのも虚しく、京間さんは手元の名刺を破りはじめる。分厚い紙を、指先で二つに裂き重ね、二つに裂き重ねを繰り返し、破るのがしんどそうになって、両手を開いた。紙くずの小さな山が、机の上に出来上がった。
もとは京間さんのものだから文句をいう気はない。いう気はないが、いきなり何やってんだこの人は。
「……分かったか?」
「分からない上にどん引きです」
「正直だな……」
京間さんは苦々しく言って、ため息をつく。そしてスーツの懐に手を入れた。
「大きい嘘をつくには少しの真実を混ぜるのがコツ、ってな」
京間さんは二つ折りの革財布を取り出して、その外ポケットから学生証ケースを取った。そして学生証を俺の眼前に突きつける。
顔写真の横に、所属やら学生証番号があって、京間さんの名前が…………京間さんの、名前が……
「……何で、ないんですか」
「分かっただろ? どーして、研究室名書いてない、か!」
「――偽名書いた名刺配ってんですかあ?!」
思わず大声で問い返した。京間さんはけらけら笑って学生証を引っ込める。
「必要に駆られて、だよ。名前を知られちゃまずい相手ってのは世の中にいるもんさ」
「だからってこんな堂々と嘘つくよーなっ」
「ギリギリで、完全な嘘はついてないだろ?」
「屁理屈じゃないですか……」
「屁理屈でも理屈は理屈! ねえ、先生」
デジャヴを感じる仕草だ。思わず振り返ると、月見里先生は興味なさげに欠伸をしているところだった。……よく考えれば、月見里も偽名なんじゃなかろうか。珍しすぎる苗字なのも、それなら納得がいく。
「俺は聞いたぞ、バラしていいのか、と」
「名前のことだと思いませんって……」
「実際、お前にゃ不要だろうがなあ。そんだけ重なってると、片方知られたところで意味はない」
「あ、先生が言ってるのは現実的じゃない方のことね。現実的に怖いのは別が担当」
京間さんの茶々に不快そうに眉をひそめ、月見里先生は言う。
「お前のはかなり無理があるだろう」
「nだとなんか締まりがなくて」
「表記も揃ってないしな」
「fは使い勝手が悪いんですって。その点、先生はうまくいきましたね」
「まあな」
今の会話を聞けば、偽名の付け方がアナグラムだとはすぐ分かる。京間さんがさっき見せた学生証の名前を思い出せば、すぐに照合だって出来るだろう。でも、今はそこまで頭が回らない。情報が一気に詰め込まれすぎたせいで、整理されていないのだ。
……そういえば、あの階段の謎だって解けていないじゃないか。下りは十四段、上りは十三段。そんなことあってたまるか。
「じゃ、俺はもう帰りますね」
「あー。夜道には気をつけろよ」
「はいはい。九折はどうする?」
いつの間にか帰り支度を済ませた京間さんが、首を傾げる。俺は、一気に疲れを感じて重たくなった体を、机からよいしょと引き剥がして立ち上がり、鞄を肩に掛けた。後ろの月見里先生に、頭を下げる。
「……ありがとうございました」
「ん。またな」
「はい」
軽く手を振られるのに会釈を返して、待っている姿勢の京間さんの元へ進む。スーツにビジネスバッグを持っていればまるっきり見た目は普通なのに、中身は色々とあれなのが、不思議だった。
「俺のおすすめスポット回って帰るか」
「遠慮しときます」
俺の返事に見せた京間さんの笑顔は、こっちの言い分なんぞ通じないような、そんな気がした。