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見える人

 汗ばむ陽気の五月の最中なのに、石造りの建物の中の空気は肌寒いほどに冷え冷えしていた。眩しい日の下を歩かされたところからようやく休憩が出来てほっとするより早く、上着をサークルのボックスに置いてきたことを後悔した。

「なんかここ、寒いな」

 すぐ横の七里が、俺の肩を叩く。ささやくような小さい声にただ頷いて答えると、少々不満げな様子で再び前を向いた。俺も、それにならって前を向く。

 建物の奥から出て来た院生らしき男が、自己紹介を兼ねて喋っているらしい。よれよれの服やぼさぼさの髪はともかく、雰囲気と表情は人好きのする感じだ。そして、ただの学部生とはいえこれだけの人数に囲まれているにしては、慣れたしゃべり口だった。

 遠くて少し聞こえにくいが、喋っているところによれば、この建物の二階にある研究室のドクターの学生らしい。文化財にもなっている建物の二階をほぼ占領して使っているなんて、まったくもって羨ましい。

 本来案内をするはずだった人が急に欠勤したための代打で、予め刷られていたプリント以外には、全くなんの準備もしていないそうだ。その適当さ具合に、この授業が楽勝と言われている片鱗を見た気がした。

 じゃあ出欠をかねて人数確認を、と講義室から案内をしてきた教員が言う。一度、講義室で出欠をとっているから、そのときと人数が合っていれば良いのだろう。もうしばらくぼーっとしていても良さそうか、と俺は天井を見上げた。

 玄関ホールは吹き抜けになっていて、見上げた先にあるのは無骨な天井の骨組みと天窓だ。天窓には色とりどりの色ガラスが様々に組み合わせてはめられていて、ステンドグラスのようだった。硝子を通って色づいた光は、集まった学生の頭の上に色とりどりの影を落としている。何故か、水槽の中の熱帯魚を思い出した。

「あれ、一人多いですよ」

 突然、よく通る声で聞こえてきた男の言葉に、俺はとっさに視線を前に向けた。すると、男もこちらを見ていて、目があった、恐らく。

 男は俺をじっと見つめた後、左右に視線を揺らして、もう一度俺に視線を戻した。遠くからなのに、その視線だけでもう、探られていることが分かる。

 男は俺と目を合わせたまま、少し首を傾げて、「やっぱり、一人多い」と呟いた。呟いたように聞こえた。実際には何も聞こえなかったが、そう言っているように見えたのだ。

 嫌な汗が背中を伝うのを感じた。手の先が冷たくなって、関節が強ばる。視界の端が暗くなり、焦点がぼやける。でも、自分を見透かしている男の視線だけははっきり分かった。彼には見えている、何かが見えているのだ。

 狭くなる視界の真ん中の男を、俺もじっと見返した。それで彼の目に映るものが見えるわけではないが、そうでもしないと、目眩とともに一切の視界が奪われてしまいそうな気がした。

 どれくらいそうしていたか、男の唇がいきなりにっと笑みを象った。それを目にした瞬間、全身が震えるほどの寒気が足元から這い上がってきて、俺は思わず目を閉じた。

「すみません、俺の気のせいでした」

 目を閉じたのとほとんど同時に、男の声がした。今度はちゃんと、現実に。

 その声と同時に、緊張の糸が切れたみたいに、さっきまでの感じがふっと消え失せた。ゆっくり呼吸をしながら、恐る恐る目を開いていく。人垣の向こうの男は、こちらなど見ておらず、前の学生にプリントを手渡しているところだった。横目で見ると、隣の七里は退屈そうに欠伸をしていて、俺の変化に気づいた様子はなかった。ほっと、息を吐く。いつのまにか握りしめていた手をゆっくりほどいた。

 一人多い、と言いながら彼はこちらを確かに見ていた。いや、俺を見ていた。見られている、という感覚だけで人はこんなに反応するものなのか、と先ほどの自分の動揺への疑問も浮かぶ。しかし、何より重要なのは、彼は何を見たか、だ。

「レジュメが行き渡るまでの余談、ということで……まあ聞き流してください。本学の歴史と建造物、なんて面白くもない授業をとられた皆さんなら、きっと楽しんでくれるでしょう」

 くすくすと笑い声があがる。前にひっそりと立っている教員が、気を悪くしたのか、咳払いをした。笑い声は静まって、再び男が口を開く。

「歴史と聞いたときに何を思い浮かべるかですが、まあ大体の人は年表とか歴史書とか、とにかく文字に起こしたものじゃないかと思います。けれど、その文字のもとになったものは何か? そう、口から発せられた物語、口伝です。この大学にも、当然口伝の歴史がある。……口伝というと堅苦しいけれど、こう言い換えたらどうでしょう。例えば、七不思議」

 七不思議、というと学校で代々伝わっているいわゆる怪談話だ。歴史から始まってそんなところに話が飛ぶのも驚きだが、大学にもなって七不思議があるのも驚きだ。そう、この大学の七不思議は、受験生にすら知られるほど、有名なのだ。

「この場所に関するものが一つありますね。確か、消えた銅像、だったかな」

 俺でも知っている話の名前を、男は考えるそぶりを見せつつ言った。確か、昔構内に建っていたが今はこの建物の地下に撤去されたはずの銅像が、何故かもとの場所に設置されていることがある、という話だ。

「これの面白い、あ、僕が面白いと思うところはね、『消えた』 銅像なんて名前がついてるところ。だって、その銅像はないはずなのに其処にあるんだろう? なら普通は『現れた』とか『出てきた』って表現を使うはずだ」

 今までそんなことを考えたこともなかったが、確かに男の言うとおりだ。あるべきはずのものがないなら「消えた」と言えばいいが、その逆ならば「消えた」という言い方はおかしい。周りも頷いたり、小さく感嘆の声をあげていた。

「そしてもう一つ。話に出てくる銅像は確かにこの地下にあるんだけど、調べてみると奇妙なことが分かる」

 誰かが近くで唾を呑む音がした。妙な緊張感で、空気がぴんと張り詰める。男はそんな様子を楽しむかのように、ゆったりと口を開けた。

「その銅像はね、構内に設置されたことなどないんだそうだ」

 しん、と、不自然なほどに場が静まり返る。そんな一瞬の後、ざわめきが静かに、けれど確かに広がっていった。

「先の大戦の最中に出来たものらしくてね、回収されぬように、はじめからここの地下にしまいっぱなしだそうだ。……はてさて、一体どこの誰が、昔はどこそこに銅像があって……なんて話を始めたんだろうね。いつどこで、『元からあったものがなくなった』という話になったんだろうね」

 そう言って、男は至極楽しそうに笑みを浮かべ、すっと視線を下に向けた。周囲の学生も、それにつられるようにして視線を下へやる。俺も、深呼吸をして目線を下へやった。ただの石の床だ。でもこの下には、一度も外へ出されたことのない銅像があるのだ。いつの間にか外に建っている銅像。まるで銅像としての意義を果たそうとするように。

 そこで、脳裏に思い出されていた七不思議の一説が引っかかった。「元は学長だったという初老の男性の銅像」。そういう説明が、付随しているのだ。だが、おかしい。一度も外に出されたことがないなら、誰がそんなことを説明できる? いや、全く間違いならいい。だが、もしもその説明が合っているならば……。

 そんなことをぐるぐると考えていると、男が顔を上げてこちらを見る。何故か、またもまじまじと視線を向けられたが、今度はさっきのような感じはなかった。そのことに俺が拍子抜けしていると、男はすっと目を細め、満足げな笑みを浮かべた。

「ちなみに、その像は『三代目学長』の像だそうだよ。僕は写真で見ただけだけど、たっぷり口髭をたくわえていたから、像にしてもすぐに、歳のいった男性だ、ということは分かるだろうね」

 男はそこで言葉を切った。俺のところにもプリントがまわってきたからだろう。一部をとって、隣に回す。その間も、視線は男に向けたままで。

 男は俺から視線をはずすと、ぐるりと学生全体を見回して、言った。

「さあ、レジュメも回ったことだし、授業をはじめようか」

 まともに授業を受けられる気なんて、しなかった。


 もとの講義室に戻るなり、俺は自分の荷物をひっつかんで、七里の呼び声を後ろに、講義室を飛び出した。目指すは、さっきまでいたあの建物だ。

 あの初めの話の後の授業は、驚くほど、拍子抜けするほど普通で、だからこそ内容なんて頭にちっとも入っていない。そして、授業の頭の出来事だけが、ぐるぐると頭の中を渦巻いていた。

 彼が何を見ていたのか、俺は確かめなければいけない。そうでないと、落ち着いていられない。自分の立っている地面が崩れ落ちてしまいそうな気さえする。

 人の間をすり抜け、走り、息を切らしながらあの建物の前にたどり着く。立ち止まって深呼吸を繰り返し、息を整えて、扉の前へと進んだ。

 思い切って重い扉を引き、中に入る。さっきと同じで、空気は不自然なほどに冷たい。今はその冷たさが、走ってきて火照った体にちょうど良かった。

 ステンドグラスの色とりどりの影が、今は床の上に落ちている。それを踏みつけ横切って、俺は奥へと進んだ。突き当たりの左右を見ると、左手に階段、右手には木の扉があった。俺は階段の方へ足を向ける。幅が狭く、傾斜も急な階段は、年代を感じさせる木の造りだった。仰ぎ見る階段の上方の空気が、何故か、奇妙に冷たく透き通って見えた。

 ごくりと思わず生唾を飲み込む。ずり落ちてきたバッグのベルトを肩にかけ直し、意を決して一歩踏み出した。段を踏みしめる度にぎしぎしと、木のきしむ音がする。でも、右手で持った手すりにも階段の上にも、埃や塵は積もっておらず、この階段が日常的に使われていることがうかがわれた。

 ぎし、と最後の段から足が離れた音を聞きながら、俺はすぐ左手に見えた扉に目を奪われた。何故か半開きになっている、この建物にそぐわない木とガラスでできた引き戸。ただしガラスには、白い半紙や、幾何学模様の描かれた紙が貼ってあり、中の様子を見ることは出来ない。その戸の横に、木製の表札が掲げられていた。「文学部人文学科民俗文化研究室」。そう、書かれている。

「やっぱり、来たか」

 突然聞こえた声に、はっとして扉の方を見る。いつの間にか音もなく扉が全開になっていて、そこにさっきの男が立っていた。俺よりも若干高いところにある目に、困ったような笑みを浮かべていた。

「やっぱり、って……」

「ああ、うん。結構不躾に見ちゃったから、きっと来るだろうと思ってたってこと。まあ、入りなよ」

 男は自然にそう言って、こちらに背を向け、部屋の中に戻っていく。俺は、それに続いて部屋の中に入った。

 入ってすぐの、衝立で仕切られた狭い通路のようなスペースを過ぎると、それなりの大きさの木のテーブルが置かれていた。その周囲、壁や窓に向かうように、個人用らしい机が置かれている。今は誰もそのスペースに座っておらず、部屋の中には男と俺の二人だけだった。

「あの扉ね」

 簡易のキッチンに向かい、俺には背を向けたまま、男が口を開く。

「お客さんが来ると、開けてくれちゃうんだよね。親切で助かるんだけど、怖がる人もいるから、ちょっと困りものだ」

「開けてくれる、ってだ……」

  誰が、と聞きかけて、口を噤んだ。音もなく、ましてやあのスペースで俺に気付かれずに扉を開けることが出来る。そんなことが出来るなら、多分それは人じゃない。

「右手さん、と俺たちは呼んでいる」

 しかし男はそんな俺の戸惑いに気付いていないように、俺の問いに答えた。事も無げに、それが普通であるかのように。その名前から想像されるものは、明らかに普通じゃないのに。

 相槌を打つことも出来ずに突っ立っていると、男がこちらを振り返った。手にはトレイ。その上には、湯気の立ったコーヒーの入ったカップが……三つ。この場には二人しかいない。

 俺はカップと、男の顔とを交互に見た。何度数えてもカップは三つだし、部屋には二人。男にふざけた様子はない。

「……あなたには、何が見えてるんですか」

 明らかな異常にも怖がることが出来ないほど、俺の思考は混乱していた。それが証拠に、ずっと聞きたかった問いを紡いだ声は、驚くほど平坦だった。

 少しの沈黙の後、男が「ああ」と短く呟く。そしてトレイを机の上に置くと、カップを一つだけ持ち上げて、後ろの簡易のキッチンに置いた。

「言ったままだよ、一人多く見えている。さっきも、今もね」

 振り向いた男は、俺を、正確には俺の少し左の空間をじっと見つめる。その途端、ぞくりと、寒気がした。肌が粟立つ。ぐらりと、目眩がする。

 男は、入り口で見せたのと同じ、困ったような笑みを浮かべて口を開いた。

「心配しなくても、君たちをどうにかしようなんて思ってないよ。はじめからそうだったんだろう? なら、どうにかする方が不自然だ。だから、安心して良い」

 最後の言葉を聞いたのと同時に、悪寒と目眩が消え失せた。男の言葉に呼応するように。そして俺は、男の言葉を反芻して、男に見えているであろうものを、確信した。

 君たち、ということは見えているのは人であるということ。はじめからそうだ、ということは少なからず俺に関係があるように見えるということ。俺には十分な心当たりがある。

「あなたには、『俺』がもう一人見えている」

 俺がそう言うと、男は一度、頷いた。

 予測は出来ていたその答えに、それでもやっぱり目眩がして、俺はテーブルに手をついた。そのまま、手近な椅子に腰掛ける。向かいで男も、椅子に腰掛けた。

 飲めとばかりに、コーヒーのカップを差し出される。湯気が立ち上るのを意味もなく目で追い、溜め息をつく。男がコーヒーを飲み、顔をしかめていた。

「見える人には、初めて会いました」

「ふうん、意外だな。それで、後ろの彼はそんなに俺を警戒してるのか。具合とか悪くなってないか?」

 もう収まっているから、首を横に振る。男はよかった、と呟いて微笑み、自分のコーヒーを後ろのシンクに捨てた。

「授業の時は悪いことしちゃったね。俺、見える範囲だとあんまり区別がつかなくって。大学にもなって双子が一緒にいる状況を、疑問に思うべきだったな」

「そんなにはっきり見えてるんですか?」

 男は頷き、何もない空間に向けて、手を振った。小さい子供に向けてするように、ゆるりと笑いながら。その態度は本当に自然であり、日常の中に見られるような動作であり、それ故に、相手が人ではないという今の状況だと彼の非凡さを強調する。

「自己紹介でもしようか。俺は、キョウマシグレ。京都の間に時の雨で、京間時雨」

「……クオリシュウです。九つに折れる、木へんに冬です。そして、あなたに見えているのが、九折フキ。くさかんむりに冬で、苳。……俺の双子の弟です」

「冬生まれなんだ」

「閏年ですよ」

「へえ……それはそれは、正直者だなあ」

 何が可笑しいのか男は――いや、京間さんは、小さく笑いながら、ようやく取り出せたらしい名刺を、俺に差し出してくる。ありがたく頂戴して、その紙面を見た。大学名と学科、在籍課程と連絡先、そして今し方説明を受けた京間さんの名前が書かれている。名詞として完成されているそこに何か物足りない気がして、俺は一人で首を捻った。

 その疑問が解けないまま名刺と睨めっこしていると、京間さんがもう一枚、紙を差しだしてくる。それはトランプより若干大きいぐらいのカードで、静かな水面が描かれているように見えた。

「何のカードですか?」

「んー、なんだと思う?」

「さあ……水面の絵柄のあるカードなんて、聞いたことないですけど」

「……ふうん、そうかそうか」

 またも何が可笑しいのか、京間さんは鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気でカードを引っ込めた。その代わりに、さっと右手が差し出される。俺は少し躊躇した後、その手を握った。

「これからよろしく、九折」

「こちらこそ」

 俺の手を握り返してくるその右手は、ただの人のように、温かかった。

投稿サイトに投稿するのは殆ど初めてです。

定期更新はなかなか出来ないと思うのですが、頑張って完結するところまで持っていこうと思います。

よろしくお願いします。

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