第二章
第二章
〔1〕
私がその音に気づいたのは深夜の二時を回った頃だった。受付窓に降りたシャッターを叩く音。私は目を覚まし、重い体を起こす。
「今度は何だ……?」
淡々と響く喧しい音に、私は苛立ちを隠せなかった。皐月ではないことは明らかだ。私は、おそるおそる窓に歩み寄る。内窓にはカギが掛かっている。シャッターは外からしか下ろせないし、上げれない仕組みになっていた。渋々、私は裏口へと回る。
ガシャン……ガシャン……ガシャン……
私は、裏口の取っ手を握り、音を立てないようにして出た。外は冷え込んでいる。怖ろしいまでに酷寒だった。こんな寒い夜に、どうして来客があるのだ。頭がはっきりしてくると同時に、私はそれを異常事態だと認識することが出来た。
小屋の物影に潜んだ私は、こっそり窓の外の様子を伺う。
「女……か?」
シャッターを叩いている一人の女。まだ若い――二十歳前後だろうか。肩より少し高い位置で切り揃えられた黒髪。ダウンジャケットに、ジーパン。ニット帽を深く被っている。
獲物を狙うライオンのように身を屈め、跫を殺す。ゆっくりと相手に気づかれないように私は女に接近する。そして、シャッター音を遮るように一気に――
きゃあっ!
背後から彼女の身動きを奪った。私と女は反動で倒れる。暴れる彼女を必死に抑えた。動揺しているのは私だけではない。彼女もだ。
「落ち着け!僕は人間だ。この小屋でさっきまで寝てた」
そう叫ぶと、彼女は我に返ったように、「へっ?」と声を漏らす。私は立ち上がり、衣服についた砂を払った。
「――んで、一体何の用だ? こんな時間に?」
私が訊ねると、女は冷えた掌を摩り始める。
「とりあえず、中に入っていい? 寒くて」
猫のような丸い目をした女だった。それにしても厚かましい女だ。こんな時間に人を起こしておいて、挙句の果てに中に入れろなど、普通の神経をしているとは思えない。
私はくしゃみをする。今だけは無礼な女の案を飲むことにした。幸い、小屋の中には何も目ぼしい物など何一つない。金庫も厳重にロックが掛かっている。例え、この女が泥棒だとしても盗む物など何一つない。何より、この不審者をこのまま帰してしまう方が、釈然としなかった。
小屋に入ると、女はストーブの前でしゃがみ込んだ。
私は、扉を閉め、壁に靠れかかり、不機嫌そうに顔を顰め、両腕を組んだ。
「――何の用だ? 君は一体、誰だ?」
ストーブの前に腰を下ろす小さな女の後姿に質問を投げた。
女は佐伯月乃と名乗った。
「客にしては、早すぎる観光だな? それとも泥棒か?」
挑戦的に尋ねれば、彼女はもっと言葉を返してくると思った。この異常事態に対応する術を私は知らない。そもそも、知らない人間を冬籐家に断りを無しに入れてしまった、私も同罪なのではないかと今更になって自分の行動を恥じた。彼女はストーブの前で静止したまま黙り耽っていた。
「おい、何か話してくれないか? 黙ってたら、何も分らない。わざわざストーブに中る為に僕を起こしたわけじゃないだろ」
「勿論。――貴方に協力して欲しい事があるから、来たのよ。ここの人にばれないようにね」
「協力? 何を言っている?」
月乃は、立ち上がり、裏口の方へ向かう。そして、自分の躰をバリケードのように扉に張り付けた。私には彼女の言った意味が分からなかった。
月乃は少女のように微笑む。口元に描かれた弧が、不気味だった。
「私は、今日の朝から、ずっと貴方を監視していた――」
「監視だと」
「そう」
「どうして」
「言ったでしょ。協力して欲しいって」
「だから何をだ」
「そこの、金庫を開けて欲しいの。その中には鍵が入ってる。風穴にあるゲートの鍵よ」
私は、金庫の方へ視線を放った。ダイヤル式のロック――月乃の狙いは鍵? だが、どうしてまた。私は錯乱状態に陥ってしまった。余りの急展開に訳が分からない。脅されているのか? これは脅迫なのか? そう何度も自問する。こんな華奢な体つきをした女に――
私は思わず笑ってしまった。自分より一回りは小さい月乃が、私を脅迫しているという事実。少し本気を出せば、押し倒してしまうこともできるのは私の方だ。
私の笑い声を月乃は不快に感じたらしく頬を膨らませ、眉間に皺を寄せた。
「何が可笑しいのよ!」
「――だって、いきなり入ってきて、金庫を開けろとか、鍵を渡せだとか、まるで強盗みたいだなって思って……」
私は余りの可笑しさに腹を抱えてしまった。
「何よ! 私は本気なんだから」
そう言って、彼女は、小屋の傍らに置かれた工具箱から、アイスピックを取り出し、私に向ってつきつけたのだ。私は躰を強張らせ両手を上げる。なんだこれは? さすがにもう笑えなかった。
「止めろ。分かった……もう笑わないから」
額に滲み出る冷や汗。目を大きく見開き、私は謝罪した。月乃は勝ち誇ったかのような顔つきで、分かればいいのよと言い、アイスピックを床に捨てた。
よくよく小屋の中を見回せば、危ない器具が至るところにある。工具箱だけではなく。扉のすぐ横に立て掛けられた鍬や斧。チェーンソーや、サバイバルナイフだってあるではないか。私は大人しく月乃の話を聞くことにしたのだった。
「――それで、君は一体、何がしたいんだ?」
「ゲートの向こう側に入って、消えた彼を探すの」
「彼?」
意味が分からない。そんな私の気持ちなど察する事も無く、彼女は訥々と言葉を続けるのである。
「二年前――彼が突然、姿を消したの。最初は、消息不明だなんて知らなかった。ただ、私の事が嫌いになって、それで、連絡するのが面倒になっただけなんだって、そう思っていた――」
「ちょっ……ちょっと待て。話がいきなり過ぎて意味が分からない。ただでさえ、君のいきなりの登場で頭が混乱してるっていうのに。えっと、何だって? 彼が消えたんだったよな。――で、その彼ってのは君にとって一体どんな存在なんだよ?」
私は、支離滅裂に訊ねる。頭がショートしそうになった。
「付き合っていた人……」
「恋人が、消息不明――」
月乃の恋人の名前は、神谷瑠夏という青年らしい。彼女は、必死に事情を説明しているが、私の脳内は未だに混乱から抜け出せてはいない。
「ゲートの向こう側にいるってどうして分かるんだ?」
「天照プロジェクト――瑠夏は、風穴の調査隊だったの。私がそれを知ったのは一か月ほど前のこと。突然、彼の母親から連絡が来た。瑠夏の部屋の中から、一枚の手紙が見つかったって。だけど、瑠夏の母親はその手紙を警察に提出するのも拒んだ。何故、捜索願いを提出していながら、その手紙を警察の人に見せないのかって訊ねても、警察なんて当てにならないからって一点張りだった。二年もの間、彼の消息を掴めない彼らを瑠夏の母親は嫌っていたのよ。だから、私はその手紙を受け取ったの」
「その青年を探しに来たって訳か? でも、彼が消えたのは二年前って言ったよな。二年も恋人である君に連絡を取らないなんて、本当に洞窟の中で何かあったのかもしれない」
月乃は悟っているかのように静かに頷いた。
「――彼は死んだのかもしれない。けど、私はこの目で確かめたいの。彼が本当に死んだのかどうか、彼の遺体をひと目でも見たい。警察の人にこんな手紙見せたら、彼らは間違いなく一般人である私の洞窟内への侵入を拒絶するに違いないから。だから……」
「天照プロジェクト……」
昭和六一年に初めて、結成された調査隊である。
私は先ほど皐月から聞いた話を思い出していた。
プロジェクトの参加者は、洞窟内に詳しいプロフェッショナルだけが集っているのではない。瑠夏のように、一般人からも募集をしているという。この村には若者が少ないと言った理由から、全国から募集を掛けているのかは分からない。が、あの巨大な洞窟内の構造を調べるには、それなりの人手が必要なのだろう。
面倒に巻き込まれた。
神谷瑠夏が無事、出口を見つけて外に出られたなら、きっと月乃に連絡の一つでもする筈だ。ならば彼が生存している可能性は皆無である。
私は、悄然としている月乃に目やった。今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに哀しみの帯びた瞳。私は胸が締め付けられた。
しかし、私にはどうすることもできない。ゲートを開ける事が出来るのは輝光だけだ。彼とは朝に一度だけ、顔と見合わせただけで、その後、輝光とは全く接点のない私にどうしろというのか。
私は、金庫に視線を滑らせる。ロックの番号など、今日、偶々、ここに泊まらせて貰っただけの私に分かる訳がない。
私は無力だった。
「――ねぇ、お願い。力を貸して」
月乃は懇願した。私は、彼女の真っ直ぐな視線から目を背ける。
「ごめん。君の話はだいたい理解出来たけど、僕は君の力になれない」
「どうしてよ?」
「分からないんだ。その金庫のロックナンバーが。それを開けれるのは、風穴の責任者、沙弥のお父さんだけだ。僕は、偶々、ここに来ただけの観光客なんだよ。だから――」
「そんなの知っているわ。だって――」
月乃は戸惑いの表情を浮かべる。だって?
「何だよ?」
「言ったでしょ。ずっと貴方を監視していたって」
「それがどういう……あっ」
私は、駐車場での出来事を思い出した。停まっていた私の車のタイヤが不自然にパンクしていたことを。あれは、月乃の仕業だったのか。
そう訊ねると、月乃は沈鬱な顔で頷く。
「どうしてそんなことをしたんだ?」
「助けて欲しかっただけ。一昨日ね、ここに電話を掛けた。人を探したいからゲートを開けて欲しいって頼んだ。――けど、取り合ってもらえなかったわ。ゲートはもう何十年もの間、封鎖されているんだもの。人が入るわけないからって」
皐月の元に掛かってきた、一本の電話。そして、日が変わる前、昨日の夜に掛かってきた悪戯電話の犯人は、月乃だった。
それにしても陰湿な悪戯だ。あの時、私がどれほどの恐怖を抱いたのか、彼女は理解しているのだろうか。
「――ついに、我慢できなくなった君は、僕の前に現われたという訳か。それにしたって、どうして僕なんだ? 協力者なら、別に誰だってかまわない筈だ。わざわざ僕を選ぶ必要はない」
「選んだ訳じゃないわ。偶々よ。一昨日、電話を取り合ってもらえなかった私は、急いで大阪から、ここに足を運んだ。そして、朝早くから、一人で風穴内に入ろうとする怪しい貴方の姿を見つけたの。見たところ、私とそれほど歳も変わらない青年だったし、もしかしたら協力して貰えるかもって思った。私は貴方の車の影に潜み、ずっと、貴方を観察していた。受付の女の子と仲良く話している貴方を監視しながら、私は密かに貴方を利用する術を探していた。そして、閃いたの。貴方を帰らせなきゃいいんだってね。貴方が、受け付けの女の子と話している隙に、私は車のタイヤを切り裂いた」
あの時、私は、風穴内を散策している間に車がパンクさせられたと錯覚していたが、間違っていたのだ。どうりで、ずっと受付小屋にいた沙弥が気付かないはずだ。月乃は私が車を止めた、すぐ直後に車をパンクさせた。私達が、慰霊碑の前で話をしている間に。
私は、月乃にとって都合の良い存在だった訳だ。もう怒る気にもならない。彼女に怒りをぶつけたところでタイヤは元に戻らないし、ゲートも開かないのだ。
「君の企みは無駄に終わったな」
私がそう言うと、月乃は溜息を一つ吐いた。
月乃は燃え盛るストーブの炎を見据えながら、黙り込んでしまった。
瑠夏は一体、どこに消えたのだろう。
そんな事でも考えているのだろうか。
その時、私の頭に何かが引っ掛かった。何だ? 私は自問する。月乃の言った事は変だ。――瑠夏は天照プロジェクトに参加していた。そして、輝光が作成した調査記録に関しての資料――なぜ、輝光はあの調査記録を残せた? 私は、弾かれたように、テレビの方へ視線を投げる。私は輝光が作成した資料を再度、手に取り、活字を黙読した。
〔蒼湖風穴に関する報告〕
昭和六十年以前、蒼湖風穴の全長は約六キロと断定されていた――
「もしかして、沙弥のお父さんも、プロジェクトのメンバーなのか?……」
私は、紙面に向って呟いた。月乃は「え?」と小さく疑問符を投げる。
「だって――君の彼、瑠夏は、プロジェクトに参加したんだろ? どうして消えたのは、彼だけなんだ? 他にも、調査に当たった人間はいるはずだ。おかしい。第一、もし調査の途中で一般人の瑠夏に何か起こったとしたら、なぜ、瑠夏の家族にそれを伝えないんだ……」
月乃は丸い瞳を氷結させる。
「瑠夏の消息不明を揉み消した?……」
私に明瞭とした答えは無かった。私にあったのは、一種の不安、そして、朧げな違和感だけだ。もし、輝光が調査に当たったプロジェクトメンバーだと知っていたとしたら、月乃の訊ねた事に私は早々と頷いていたかもしれない。なぜなら、輝光は生きているのだから。
洞窟内で、何か自然災害が起き、瑠夏の身に何かあったとしたら、他のメンバーもただでは済まない。帰ってきたメンバーが瑠夏の死を黙っていた事などから判断すると、揉み消しがあったとしか考えられないのだ。
「赦せない」
月乃は徐に言った。
「まだ、決まったわけじゃない。――ただ、君はこうやって、彼を探しに来た。それこそが一番おかしな話なんだよ。通常、自然による災害や、事故で身うちに被害があった時、真っ先に情報が行くのが、家族だ。その家族ですら彼の消えた先を知らなかった。そして、彼の部屋から手紙を見つけて、初めて瑠夏の居所を掴めた君は、ここに――」
月乃は唇を噛みしめる。双肩を震えさせ、瞼をきつく閉める。
「――教えてくれないかしら?」
月乃は訊ねた。
「何を?」
「何月何日に、洞窟調査が行われるの?」
知らない。私は、小屋の壁に吊下げられたカレンダーに視線を投げた。ここ最近、小説ばかりを書いていた私は月日の流れなど正確に意識した事はない。
今年は一体、平成何年だ。私は、カレンダーを凝視する――
「平成一七年、二月――うん? 確か瑠夏が手紙を書した日は平成一五年と言ったよな?」
「うん、あれからもう、二年経っている。今年は、調査が行われる年なの。貴方が鍵を開けれない以上、私に残された方法はもう一つしかない」
「君も天照プロジェクトに入隊する心算なのか。――辞めた方がいい。中で何が起こるか分からない。君も瑠夏の二の舞になるぞ」
月乃の力強い形相は何かを決断したような意志を髣髴とさせるものだった。
「いつよ?」 彼女は再度訊ねた。
「正確な日程は分からないけど、調べたらすぐに分かる。瑠夏はどうやって知ったんだ?」
「分からない。多分、インターネットか何かだと思う。彼、パソコン好きだったから」
「そうか、なら話は早い」
私は、パソコンの電源を付けた。インターネットエクスプローラーをダブルクリックする。検索履歴には、何件かのガソリンスタンドや、カーショップのアドレスが残存していた。パンクに困った私の為に沙弥が調べてくれた時のものだ。
私は、慣れた指捌きでキーボードを叩いた。
長方形の検索欄に、「天照プロジェクト」 と表示される。
「あ……あった」
検索結果一覧に、その名はあった。
天照プロジェクト
昭和六一年に滋賀県犬上郡に所在する鍾乳洞――蒼湖風穴を調査する為に結成された団体である。現在も二年に一度の周期で洞窟調査に当たっているが、風穴内の全貌は未だ解き明かされてはいない。
プロジェクトに関する情報は少なく、どのようなサイトに繋いでも似たような事を記載されているだけで、入隊に纏わる募集要項などは一切表記されていない。
どういうことだ? 瑠夏は、どこのサイトで情報を得たのだ。
私は、しばらくパソコンのディスプレイと睨めっこをしていたが、有力な情報は得られなかった。ディスプレイの右下に表示されているデジタル時計は午前四時半を表示している。
後、数時間もすれば冬籐家の誰がここに訪れるかは分からない。とは、言っても、沙弥だろうが。彼女は今日、早めにここに来ると言っていた。輝光は、私がここに泊まっている事を知らないらしい。彼がここに来る前に沙弥がここに来なければ、私は、また輝光の陰険な双眼に睨まれるに違いないのだ。
「どう?」
訊ねながら、月乃は私の背後からパソコン画面を覗き込んだ。
「駄目だ。目ぼしい情報はない」
「そんな……じゃあ、瑠夏はどうやって、プロジェクトに参加したの?」
私は考えた。そして、ある残酷な結末に辿りつく。
それは出来ることなら彼女に伝えたくなかった。
「……こうは考えられないか。瑠夏が死んでから、一般人からの募集は取り止める事にした――」
月乃は目を大きく見開く。
「あり得ない話じゃない。瑠夏の死を揉み消した、彼らは続いて一般人の募集を辞め、彼の死を内部の者だけで共有することにした。情報の流出を恐れたのも一つの理由だろうが、これ以上、犠牲者を出したくないというのも理由なのかもしれない。これはあくまでも憶測に過ぎないが」
「赦せない――絶対に赦せない。瑠夏を見殺しにしただけでなく、情報を隠蔽しようだなんて、愚かにもほどがあるわ。最低」
低く暗い声音で言う月乃に掛ける言葉が無かった。
「もうすぐ、沙弥がここに来る。彼女なら何か知っているかもしれない。訊いてみるよ」
「さっきも言ってたけど、沙弥って?」
「君も知ってるだろ。慰霊碑の前で僕と話していた女だ」
月乃は、あぁ――と思い出したかのように言った。
「兎に角、僕に出来ることはもう何もない。後は沙弥達が来るのを待って、情報を仕入れるしか方法は無いんだよ」
「――分かったわよ」
月乃は無理やり納得したようだった。
彼女にこれからどうするつもりなのかを訊ねると、よく分らないと曖昧な返事をするところから伺うと、月乃も明瞭とした計画を練らずに風穴に来たのだろう。それほどに瑠夏を探したいという想いが強かったに違いない。
しかし、つくづく暗欝な話が飛び交う鍾乳洞だ。
山の大神の怒り。
風穴内で発見された自殺者の骸。
忽然と消息を絶った瑠夏。
情報を隠蔽しようとした天照プロジェクト。
「見つかるかな? 瑠夏……」
「さぁな――」
私は超能力者でもなければ預言者でもない。
〔2〕 三月十日
山の端から、光が漏れる。朝日が昇っていく。空は透けてしまうほどに蒼かった。私は裏口の前で、たったひと時の煌きを眺めていた。月乃は、小屋の中で眠っている。
肌に刺すような風も何故か心地よい。
向かい側に見える民家から、誰かが出てきた。沙弥だ。茶色いジャケットにマフラー姿の彼女は、私を見て、口元に弧を描いた。白い吐息を小刻みに零しながら、彼女は早歩きでこちらに向ってくる。
招かれざる客を見て沙弥はどう思うのだろうか。
僅かな不安は的中する。
「誰?」
沙弥は小屋の裏口を開けるや否や、そう言った。当たり前だ。
月乃が眠っている間に、私は、昨夜に起こった出来事を沙弥に簡潔に話して聞かせる事にした。月乃が起きていたら、余計な口を挟んでくるに違いないのだから。
話の最中、沙弥は頭の上に終始、クエスチョンマークを漂わせていたが、やがて、脳内が整理出来たか、彼女は半ば深刻な面持ちになった。溌剌とした表情が売りの彼女らしからぬ形相である。
「消えた彼を探しに……」
「――そういうことだ」
沙弥に全てを話し終えた頃、月乃が目を覚まし、外に出てきた。眩い朝日が月乃の目を細める。
「初めまして」
と、素気なく沙弥が言うと、月乃はコクリと頷いた。
「悪戯好きなのね」
沙弥が悪戯っぽく言うと、月乃は腹が立ったようで、顔を赤らめていた。沙弥の言うとおりだ。
「もうすぐ、お父さんが来る頃だから」
「分かってる。――でも、僕はまだ帰れないから」
腕時計を見ると、午前八時を過ぎている。そろそろ時間だ。だが、車が直った後、私はどうするべきなのか。
「沙弥、君の父さんが来る前に訊きたい事がある。君は天照プロジェクトを知っているか?」
「アマテラス?――ですか?」
目をまん丸にする沙弥を見て、つくづく呆れた。
「蒼湖風穴を調査する組織のような物だ。君だってここに長いこといるんだろ?知らないはずない」
沙弥は思い出したかのように手を叩いた。
「もしかして、今年も行われるあれですよね?」
「そう。あれだ」
「貴方って、もしかして馬鹿?」
月乃はやはり口を挟んできた。彼女の言葉に腹を立てた沙弥は、失礼な人ですね。と、吐き捨てるように言った。確かに。思った事をそのまま口に出すのは如何なるものか。
沙弥は本当に詳しい事情を知らないらしい。
いや、むしろ私の方が知り過ぎたのだ。知らなくて良いことまで。
「教えてくれ。今年の何月何日に、調査は行われるんだ?」
沙弥は考え込むように沈黙してしまった。可愛らしい顔にたくさんの皺を寄せて、渋い表情を浮かべている。
沙弥は時折、意味不明な言葉を発する。確か、あれは、そう、などと、文脈はバラバラではあったが、彼女は何かを思い出しつつある。
「お願い、想い出して」
月乃が哀願した。
「確か――三月二十日だったと思いますが……」
言いながら、沙弥は小屋の中へ入っていった。私と月乃は訝しげに彼女の後を追う。沙弥はデスクの上に散乱した書類を漁り始めた。
「あ、あった」
彼女は書類の山から、一枚の紙を手に取る。そこには、今年行われる調査についての詳細が記載されていた。
〔平成一七年度 第九回 天照プロジェクト〕
蒼湖風穴は現在、全長九キロと断定されている。しかし、今回でその記録も更新されるだろう。前回、発見した地底湖の底に開いた大きな穴。水流はその空洞から来ていることから、更に奥に未知なる空間が広がっていると推測できる。今回、我々はその空間に潜入する。犠牲者が出ぬよう、細心の注意を払う事が必要だ。設備は整っている。各々、課された役目を果たすように。
三月二十日。我々は出口を見つける――
冬藤輝光
「底に開いた――空洞?」
「地底湖は、風穴の最深部にあるって聞いたことがある。更に奥が続いているってこと?」
「――みたいね」月乃が言った。
駐車場の砂利を踏み荒らすような音がした。私達は、音に気づき、受付小屋から、顔をのぞかせた。白塗りのワゴン車が一台、駐車場に止まっている。
一番近くのガソリンスタンドから来たのだろう。運転席から降りたオレンジ色の作業着姿の男は、こちらに向って歩いてくる。私と月乃は小屋を出て、男の元へ駆け寄った。
男は破裂したタイヤを見るや否や、「こりゃ、ひでえな」と声を漏らした。
月乃は一瞬、表情を曇らせた。自分のやった事に対しての罪悪感を今頃になった感じたのだろうか。
手慣れた手つきで、タイヤを取り換えた男は、その後、早々と私達の目の前から消えた。もう、私は何時でも風穴から帰ることが出来る。
だが、何だと言うのだ。この刺さるような冷たい視線は。私は、ふと横に目をやる。月乃が私を見ている。迷い猫のような円らな瞳で――
私は溜息を一つ吐く。
「分かってるさ――探すんだろ。君の恋人を」
そう言うと、月乃は白い歯を見せた。
そうは言ったものの、これからどうしたものか。まず最初は、プロジェクトに参加しなくては何も始まらないのだ。
なら――
輝光が、小屋の方へ向かって歩いてくる。私の顔を見るや否や彼は訝しげな形相をした。輝光は、私が小屋に泊まっていた事を知らない。
どのような顔をしたらいいのだろう。
全ての鍵を握っている輝光に月乃は氷のような冷たい視線を浴びせている。睨み合っていても何かが始まるわけではない。沙弥も心配そうに窓からこちらの様子を伺っている。
私は腹を括った。
さて――
演技でもするか。
「おはようございます! 今日もいい天気ですね」
私は溢れんばかりの笑顔を浮かべ、輝光に向って頭を下げた。体育会系のような振舞いに輝光は驚いたようで、鋭い眼を一杯に広げている。突然の私の変貌に驚いていたのは、輝光だけではない。月乃や沙弥だってそうだ。
これでいい――
こうでなくてはならない。
変な奴――
そう思われた方がこちらとしても動きやすいのだ。警戒心を解くためには、まず、相手に見下されなければならない。相手より低い地位を確立した私は、何も知らないフリをして、彼に近づくつもりだった。
「お前は――どうして、ここにいる? 確か昨日もここに来たはずだ」
私は柔和に眼元を綻ばせる。
「実は、この鍾乳洞の神秘に魅せられて、今日も観光することにしました。僕、小説を書くつもりなんですよ。ここを舞台にした――」
「小説?」
「はい。暗黒と永久に消えない水音――正しく、ホラー小説の絶好の舞台と思いまして。それで、昨日からここに取材に来ていたわけです。ほら、沙弥さんにも、色々と風穴について話を聞かせてもらっていたんですよ。あっ、この子、月乃って言うんですけど、僕の助手みたいな者で、さっきここに来たばかりなんです。いや、本当に名作が生まれるような気がします」
「名作ねぇ。まぁ、ここを気にいったなら、好きなだけ見たらいい。無論、料金は頂くがな」
輝光は山道のほうへ向かう。
今日も、風穴内の様子を見に行くのだろう。落石の虞はないか。一般人が風穴内に入って問題ないかを判断する為に。
私は、坂道を上っていく輝光に声を放った。
「あの!」
輝光は振り返り、陰険な視線を投げてくる。
「――素敵な場所ですね。蒼湖風穴って、冒険心が擽られます」
私がそう言うと、輝光は無言でまた歩を刻み始めた。斧川のせせらぎが、私の鼓膜に虚しく響いた。
「いつから、私が貴方の助手になったのよ?」
月乃が不機嫌そうに訊ねた。
「さっき」
「大体、小説家に助手なんていらないでしょ。でも貴方が小説家だったなんて見当もつかなかったわ。ただのフラフラしてるフリーターかと思った」
「失礼な奴だな。沙弥の父親を欺くにはこうするしかない。これで、彼は僕がどのような理由で風穴に来ているか知ったし、僕がどれほど風穴を気に入っているか、分かってもらえた」
「あっ――」
月乃は声を上げる。
「多少、変人のほうが、相手も油断しやすいだろ?」
「貴方、まさか、プロジェクトに参加する心算なの?」
「あんな不気味な洞窟内を散策するんだ。君より、僕の方がチームにとって役に立つ人材に違いない。男だからね」
「貴方だけ、参加したって意味ないじゃない」
月乃は顔を顰めた。
分かっている。
「君の動機じゃ、プロジェクトに参加するのは厳しい。死んだ恋人を探しに行くなんて理由でゲートの向こう側に入れると思うのか?」
「小説家なら、入れると言うの? それもどうかと思うけど――」
「そうは言っていない。ただ、取材と言ったら?」
「え?」
「更に風穴内の構造を知る為に厳密な調査がしたい。幸い、僕は本を何冊か出版させて貰っているし、きちんとした肩書がある。プロとして小説を書いているつもりだ。沙弥のお父さんにはそのように話しを持ちかける。そういう理由なら、彼は首を縦に振ってくれるかもしれない。だから君を助手という事にしておいた。それなら君だって向こう側に入れるかもしれないだろ」
なるほど。と言いたげに月乃は目を丸くした。
「でも、もし、首を縦に振らなかったら?」
「僕を見損なうなよ。口には自信がある」
「どういう意味よ?」
「よく見てみろ」
月乃は、周りを見回す。八幡神社。大神が祀られた慰霊碑。川沿いに立ち並ぶ杉の木。緩やかに流れる斧川。閑散としている駐車場。そして、受付窓で欠伸をする沙弥――
月乃は小首を傾げた。
「おかしいとは思わないか?」
「何がよ?」
「今日は土曜日だ。休日だっていうのに、観光客の一人もまだ来ていない。いるのは僕と君だけだ」
「それがどうしたって言うのよ?」
「昨日もそうだった。要するに寂れているのさ。ここはね。観光地としての知名度もないし、訪れる人々も年々減ってきているんだ。昨日、読んだ資料にもそう書かれていた。ここを支えているのは冬籐家の人間だ。ここが観光地としてやっていけなければ、困るのは沙弥達だ」
「え?」
「蒼湖風穴を舞台にした小説を書くと言っただろ。もしその小説が話題になったら、小説の舞台になったここも少なからず話題になるだろう。それこそ、ベストセラーにでもなれば、忽ち、風穴は人気スポットになるかもしれない。人って言うのは『人気』っていう言葉に弱いから」
「――貴方、そんなに有名な小説家だったの?」
月乃は頓狂に訊ねた。
「いや、全くの無名だよ。ただの売れない作家さ」
私は毅然とした口調で言って見せた。
月乃はあきれたように頭を抱える。
「じゃあ、ここが話題になる保障なんてないじゃない」
「別にかまわないだろ。君の目的はなんだ? 瑠夏の死体を探すことなんだろ。小説が売れるか売れないかは関係ない。要は、ゲートの向こうに行けたらいいだけのことだ。そして、僕もあの向こうに入って、この目でその神秘を確かめたい。感性を刺激されることは小説家にとって重要なことだからね。もしかして、本当に名作が生まれるかもしれない」
月乃はクスクス笑い、
「私達の目的は一致した訳ね?」
と問うた。
その通りである。
出口の無い穴ほど恐ろしいものはない。
あの時もそう思った。マンホールに閉じ込められた幼き頃の時分――
昏い世界を彷徨い歩いた時分――
しかし、出口はあった。私自身が見つけられなかっただけで、マンホールの出口など、至るところに存在している。知らなかっただけなのだ。
だから――
蒼湖風穴にも出口はあると思った。
知らないだけなのだ。
「今日一日で、沙弥のお父さんにモーションを掛けてみる。いいか。君は僕の助手だ」
私は言い、月乃に向って右手を差し出した。
月乃は小さな掌で力強く私の手を握り返してきた。