最終話 【ピエロ】
その日、店には彼女は来なかった。深夜までやっているので、仕事が終わったら来ると思っていた僕は少し寂しく感じる。
鍵をドアの新聞受けに入れてしまった僕は少し後悔した。そして、例え鍵があったとしても部屋に勝手に入る訳にはいかないので、結局一緒のことだと思い自分で自分が可笑しくなる。彼女も忙しいのだろうと、自分自身を納得させて店を閉めた。
だが、次の日も、その次の日も彼女は店には来なかった。僕は携帯電話の番号を訊かなかったことに心底後悔する。
深夜三時に店を閉めた後、彼女が来ないことにどうしても納得できない僕は、マンションへ行く。そして、エントランスに入る為には、鍵を持っているか、呼び鈴をならして中の人に開けてもらうしか方法がなかったことを思い出す。こんな時間に呼び鈴を鳴らす訳にはいかなかったので、マンションから少し離れて彼女の部屋の窓が見える位置に移動したが、電気は点いていなかった――
あの日から一週間経ったが、未だに彼女は店に来ないし連絡もない。彼女も僕の携帯電話の番号を知らないので、唯一連絡がくるとすれば名刺に書かれている店の電話だけだ。
店は常に留守番電話にしてあり、営業中は留守電に切り替わる前に電話に出る。だが、その留守電にもメッセージは入っていない。僕は、今日も彼女の部屋の窓が見える場所へ行く。毎日、毎日、彼女の部屋の明かりが点いているかを確認しに行ったが、部屋の電気が点いていることは一度もなかった。
今日も夜の八時に店を開けて開店準備をしていると、ドアのカウベルが鳴った。彼女がいつも入ってくる時間だったので、ドキッとして開いたドアをすぐに見る。しかし彼女ではなかった。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです、永田さん」
そう、入ってきたのは彼女と同じ職場の永田さんだ。彼女ではなかったと言う思いが僕を落胆させたが、彼の顔を見てふと気がつく。
永田さん? そうか! 彼なら彼女がどうしてるか知っているはずだ! そう思った僕は彼をカウンター席に座らせ、焦る気持ちを押さえてお酒を出す。そして、聞こうとした時にあることが脳裏に浮ぶ。
彼は僕達のことを知らないはずだ。なぜ彼女のことを聞きたがるのか疑問を持つだろうと……。
どうやって聞きだそうかと考えていたら、彼女が初めてこの店に来た時に言っていたことを思い出す。それは、永田さんから薦められてこの店に来たと言っていたことだった。そして僕は彼に話しかける。
「そう言えば少し前に、永田さんに薦められたと言う女性が来店されました。薦めて頂きましてありがとうございます」
「あぁ、水野くんのことか」彼は、彼女にこの店を薦めたことを覚えていてくれた。
僕は焦る気持ちを押さえ、慎重に言葉を選びながら続ける。
「何回かご来店頂いたんですけど、最近お見かけしないのでどうしたのかと思いまして」
そう言った僕に、静かに話し始める彼。
「彼女な、地方に転勤になった」
僕はそれを聞いた瞬間に、頭が真っ白になりその場に崩れ落ちそうになる。
転勤? 転勤ってどう言うことなんだ。そんなことを彼女は一言も言っていなかったはずだ。僕は気を取り直し彼に訊いてみる。
「そうだったんですか。折角お店に来て頂けるようになったのに残念です。で、いつ転勤されたんですか?」
「えっと、今月の十五日付けだったはずだけど……。ハッキリしたことは覚えてないなぁ」
十五日? 十五日って言ったら彼女を朝見送った日じゃないか。僕は訳がわからなかった。あの朝、転勤の話なんて言っていなかった。彼女が言った意味不明な言葉を思い出したが、『勇気が出た』と言った言葉が転勤にどう繋がっているのかは分からない。まったく関係がないのかもしれない。そんな混乱状態の僕に話し始める彼。
「あのな、会社ではオフレコで、あまり関係がないここだから言えるんだが、彼女は常務の息子と結婚するんだと思う」
結婚!? その言葉を聞いて、僕は言葉を発することさえ出来ないでいる。そして彼は更に言葉を続ける。
「俺も相談を受けていたんだが、どうやら彼女は乗り気じゃなかったみたいなんだ。しかし、常務やその周りが結婚と騒いでいるので、断ると会社に居られなくなると言って悩んでいたよ……」
彼が言ったことは、僕にとって全て初耳。そう言えば、上司の縁談を断って居られなくなり会社を辞めたり、左遷させられたりする映画やドラマなどを見たことがある。まさか、それは本当にあることなのか?
そんな疑問を僕は持ったが、彼の話の内容は少し違っていた。
「うちの会社は結婚することが決まったら、同じ場所に配置しないんだ。そして、暗黙の了解なんだが、転勤した方が結婚する時に会社を辞めるということになってる。常務の息子は彼女と同じ社内にいる。だから、付き合っていたどちらかが転勤すると言う事は、結婚が決まったことを意味するんだ」
付き合ってた? 常務の息子と彼女が? 僕はもう何がなんだか分からなくなる。
彼女は僕を『ギュッと抱きしめたいほど好き』と言った。そして僕はそれを信じた。なのに常務の息子と付き合っていて、結婚が決まった? 僕とは遊びだったってことなのか?
そして、彼は数杯飲んだら『ごちそうさま』と言って代金を払い外に出る。僕は彼を見送り、まだ夜の十時を回ったばかりだったが店を閉めた。
洗い物がシンクにあるが、洗う気になれない。彼が帰った後の片付けなどそのままにして、ジンの入った瓶とグラスを持ちカウンターに座る。氷の入っていないグラスにジンを注ぎ、そして一気に飲み干す。
混乱していて、何がなんだか分からなくなっていた頭を整理し始める。
十五日―― 僕がマンションの部屋から、彼女を見送った日だ。
『ねぇ、周。私のこと好き?』との問いに、僕は好きだよと答えた。そして彼女は『ありがとう。勇気が出たわ。じゃ、行ってきます』と言った。
『勇気が出たわ』って言った意味は何だ……。常務の息子と結婚する勇気が出たってことなのか? もしそうだとしたら、とんだ茶番を僕は演じたことになる……。僕は、またグラスにジンを注ぎ、一気に飲み干す。
彼女が言った『ギュッと抱きしめたいほど好き。だから、私があなたのことを好きじゃないなんて思わないで欲しいの』とは、彼女のフェイク? 何の為に?
――分からない。いくら考えても分からない。そんな分からないことだらけの頭をぼかす為に、僕は、またジンを一気に飲んだ。
いい加減に酔っ払った僕は、考えることさえ面倒くさくなっていた。目をつぶり、『もうどうでもいいや』と思った時に、瞼の裏に映し出されたのは遠い目をした彼女だった。
僕はハッと目を開け思う。そうか、あの遠い目は常務の息子との結婚を考えていた目だったんだ―― 彼女が悩んでいたのは分かるが、だったら何故、僕の誘いを受けたんだ! 何故、部屋に招き入れたんだ! 何よりもその日に結婚を決めたのは何故なんだ!
結局僕は、彼女に踊らされていた『道化師』に過ぎなかったんだと気がついた。
『クソッ!』どこにもぶつけようのない怒りが込み上げてきて、僕はグラスを壁に叩きつける。そして、カウンターでうつ伏せになって僕は泣き、そのまま眠りについた――
――あれから何日過ぎただろう。
自分が『道化師』になってしまったことの彼女への怒りはもうなく、むしろ、そうしなくてはならない理由があったのかもしれないと、僕は考えるようになっていた。
『会いたい――』
今でも、彼女があの日つけていた香水の香りを忘れることができないでいる。
『私も周のこと好きよ。ギュッと抱きしめたいほど好き。だから、私があなたのことを好きじゃないなんて思わないで欲しいの』そう言った彼女の言葉を、嘘でもいいから僕は信じたい。
会いたい。会って思いっきり抱きしめたい―― 『道化師』でもいい。彼女に会えるなら、それでもいいと僕は思うようになっていた――
* * *
そして今日もまた、僕は夜八時に店を開け、店舗の壁に据え付けられたネオンのスイッチをオンにする。そして、CDが入ったステレオの電源を入れてPLAYボタンを押すと、ウィリアム・ジョン・エヴァンスのジャズピアノが店内に流れる。
昨日は遅くまで客が残っていた為、片付けをしないで店を閉めた。カウンターには、数個のグラスがそのまま残っている。それをカウンター裏にあるシンクへと下げ、洗い始めた時だ。
“カランコン……”と、入り口のドアに付けてある小振りなカウベルが鳴り、誰かが入ってきたことを知らせてくれる。
「私一人なんですけど、飲ませてもらえますか?」
僕はドアのほうを向きながら言う。
「いらっしゃ……」
そこに立っていたのは彼女だった。僕は洗っていたグラスを落とし、シンクで割れる音がした。そして、彼女に駆け寄り抱きしめる。
「周、痛い、痛いよ」
その言葉を聞いて、僕は彼女から離れ両肩に手を置いて言う。
「なぁ、香織」
「ん?」
「キスしていい?」
そう言った僕に彼女は、最高の笑顔で答えた。
「うん。思いっきり熱いキスをして」
僕は彼女に、今までに溜まった『会いたい』と言う気持ちを吐き出すかのように熱いキスをする。
その日、彼女は今までのことを全て教えてくれた。
『勇気が出たわ』と言ったのは結婚を決めた訳ではなく、退職や左遷の覚悟を決めて、常務の息子との縁談を断る勇気だった。それにより、その日の内に辞令が出され急遽引っ越すことになって、二日後にはマンションを引き払ったこと。
転勤先で連絡するどころか、身の回りのことさえも出来ないくらいに忙しく、家に帰ったら倒れこむように寝てしまったこと。それでも、二、三回、昼間に電話をしたけれども、留守電に入れなかったこと。
そして、会社を辞めて戻ってきた理由を――
最後に彼女は言った。
『ねぇ、周。仕事も住む場所もないの。ここで働くから、一緒に住まわせてねっ』と……。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。