第三話 【一つになった心】
軽いエロティックな場面があります。ご注意ください。
僕と彼女は、少し重い黒く塗られた木の扉を開け中に入る。そして、内装や入り口に飾られたオブジェなどを見て僕は確信した。
――間違いなく高級店だと。
僕も誘った以上、彼女に食事代を出させるつもりはなかったので、それなりにお財布に入れてきたつもりだ。大丈夫だと思いつつも、この店構えや店内を見て少し不安になる。
黒のタキシードに蝶ネクタイを締めた支配人らしき男性が、僕達を席まで案内してくれている。店内の照明は温白色で少し暗くしてあり、モルタルで造形された白色であろう壁を、温かみのある色へと染めあげていた。店内にオルネラ・ヴァノーニの曲が静かに流れている。店内の雰囲気に合わせて、イタリアの歌手をBGMとして流しているのだろう。
「こちらです」と、案内された席は四人がけの個室。
テーブルには綺麗に磨かれたフォークやスプーンが数種類あり、ワイングラスが一人に二つずつ置いてある。一つは水をいれるのだろうと僕は思った。
僕達が席に座る時に、案内してきた人が椅子を引き、座るのと同時に前に出してくれる。そして、一礼をして部屋を出て行った。
「香織さんは、ここに良く来られるんですか?」
「んー、たまに会社の関係で使うことがあるくらいかな」
そう言うと彼女は、綺麗に折って立ててあるテーブルナプキンを取り、膝の上に広げて乗せる。
「あ、そうそう。好き嫌いとか聞かないで、昨日予約する時に勝手にオーダーしちゃったけど、良かったかな?」
「はい。好き嫌いはないですから大丈夫です」
段取りがいいと言うか、手慣れてると言うか。秘書をやってる人って全員こんな感じなのかな……。
「周くん、敬語―― 私に敬語や丁寧語を使うのは、今後禁止ねっ」
僕は特に意識してるつもりはなかったのだが、店のお客さんなので自然と敬語や丁寧語になっていたのかもしれない。
「分かりました。香織さんがそう言うのであれば、使わないようにします」
「ほら! だから、禁止って言ってるでしょ」
「分かったでござ候」
「ぷ……。何よ、その喋り方」そう言って彼女は笑った。
そんな会話をしているとワインが運ばれて来た。ソムリエが器用にコルク栓を抜き、グラスに少しだけ注ぐ。僕がテイスティングをしてOKを出すと、二人のグラスにワインが注がれる。
「前菜の桜鯛のマリネです」と料理が出され、彼女はコース料理をオーダーしていたのだと分かった。
前菜に続いて、パスタ、魚、メインディッシュの牛フィレのソテー、最後のドルチェは、二種類のムースと、珈琲か紅茶。
「ねぇ、周くん」
そう話しかけてきた彼女に僕は言う。
「香織さん、その“周くん”って言うの何とかして欲しいんですけど……。せめて“くん”を外してくださいよ」
「そうなの? 可愛いじゃない」
「んー、何か弟を呼んでるみたいで――」
ずっと周くんって呼ばれるのには抵抗があった。何故か弟を呼んでるみたいに聞こえて、彼女が僕のことをそう見ているのではないかと思えて嫌だった。
「じゃぁ、周はなんで私を食事に誘ったの?」
唐突な彼女の質問に、僕は正直に答えるべきか悩む。
彼女には、彼氏がいるかもしれない。年齢から考えて結婚しているかもしれない。そんな考えが頭の中をグルグルと回る。そして、食事に誘えただけで舞い上がっていた僕は、彼女のことを何も知らなかったのだと今更気が付いた。どう答えればいいのか答えがまったく出てこない。でも、彼女に彼氏がいるかもしれないと思った時の胸を締め付けるこの感覚、それを放って置くことは出来ない。
「香織さんを好きになったからです」
僕は思い切って正直な気持ちを言った。
その言葉を聞いて彼女は伏せ目になる。そう言われることは十分予想できたはずなのに、なぜ伏せ目になるのだろうと僕は思う。やはり正直に話すべきではなかったと後悔した。
「うん―― そうじゃないかと思ってた。そっか、そうだよね」
彼女は小さな声で、僕に話しかけているのか、自問自答しているのか分からない言葉を口にした。そして、二人に長い沈黙が流れる。
「香織さん、帰りましょうか――」
僕は、沈黙に耐えられなくなり一言そう言った。
廊下にいるボーイを呼んでチェックするように言う。伝票を持ってきたのは、案内してくれた支配人らしき人で、僕は金額を確認してお財布からお金を出そうとしたときだ。
「あ、待って。私がこの場所を指定したし、安い金額じゃないはずだから払うわ」と彼女が言った。
僕は、お財布をバッグから出そうとする彼女を止めお金を払う。
そして二人は席を立ち、入ってきた時と同じ少し重い扉を開ける。その扉は入る時とは違って、今の僕にはとても重く感じられた。
店は大通りに面していた為、通りかかったタクシーを簡単に拾えた。僕は、彼女に先に乗るように勧め、そして後から乗り込む。運転手に行き先を聞かれたので『送っていきますよ』と言うと、彼女は行き先を告げた。
しばらく走ると住宅街の方へタクシーが入って行く。意外と僕の店から近く、家からもそんなには遠くない。
家が近くなったのか、彼女はもたれていたシートから背を離し、運転手に道の指示をする。そして、またシートに背をつけた彼女が言う。
「ねぇ、周。今日のお礼に珈琲をご馳走するわ。家に寄って行って」
僕はなんだか混乱してきた。好きだと告白してからの彼女は、あの遠い目をするようになった。タクシーの中でも殆ど口を開くことがなかった彼女が、僕を家に招く理由が分からなかったのだ。そして、告白した僕をどう思っているのかも言ってくれない。僕はこの切ない気持ちをどうにかしたくて、それには彼女と話すのが一番良いと思い申し出を受けた。
タクシーは程なくして五階建てマンションの前で止まる。外壁は御影石で造られていて、賃貸だと十五万近くしそうなマンション。
僕はタクシーの料金を払おうとしたが、また彼女に止められ車を降りた。タクシーのドアが閉まり走り出した時に、彼女は僕の腕に掴まり『こっちよ』と言ってエントランスへ引っ張って行く。
彼女の部屋は、最上階の五階。ドアの鍵を開け、中に入る彼女。そして『どうぞ』と、僕を招き入れる。中に入ると三LDKの広い部屋で、壁は白く全ての物がきちっと整理してあった。彼女が几帳面な人だとわかる部屋。
「周、そっちの部屋のソファーにでも座ってて」
そう言って彼女は別の部屋に入りドアを閉める。僕は、ソファーのある部屋に入り腰を掛ける。前には大きなテレビがあり、その下にあるボードにはDVDプレーヤーやソフトなどが入っていた。こんな部屋で、風呂上りにビールでも飲みながらDVD鑑賞なんかできたら最高だな。そんなことを考えていると、彼女が部屋から出てきた。
「そんな畏まらないで。今、珈琲いれるから待っててね」
そう言った彼女は、先程の格好とは大きく変わっていて、少し厚めのTシャツにジーンズ姿だった。後ろ髪をバレッタで止めた彼女の項は綺麗で、今にも抱きつきたくなったがそんなことが出来る訳がない。そして、彼女が珈琲をテーブルに置き僕の左側に座る。出された珈琲カップは葉っぱが一枚描かれたマグカップ。僕はそれを見てちょっと笑ってしまった。
「なによー。何かおかしいところでもあった?」と、少し拗ねる彼女。
「ごめんごめん。悪い意味に取らないで欲しいんだけど、外で見る香織さんのイメージだと、綺麗な珈琲カップで出てくるものとばかり思っていたから、ちょっと意外な一面を見た気がしたんです」
「だって、この方が多く入るし、飲み終わるまで時間がかかるでしょ。そしたら周が少しでも長くいてくれるじゃない」
そう言う彼女は、外で受けるイメージとは大きく違ってラフな感じだ。外と家とで、オン、オフを完全に切り替える人なんだとこの時思った。そんなオフの彼女を見れたことは、家に来て良かったと僕に感じさせる。
二人で珈琲を飲みながら、今日食べた料理のことを話していたらドルチェの話になった。そしてお互いが黙ってしまったが、すぐに彼女が話し始める。
「ねぇ、周。さっき私のことを好きと言ってくれてありがとう。本当に嬉しかった」
「うん」静かに話す彼女に、僕は一言だけ返事をした。
「私も周のこと好きよ。ギュッと抱きしめたいほど好き。だから、私があなたのことを好きじゃないなんて思わないで欲しいの」
「香織さん……」
「香織―― “さん”はいらない。香織よ」
そう言った彼女の手を僕は握って顔を寄せ、彼女も顔を寄せてくる。僕達はお互い吸い寄せられるように、熱いキスをした。僕は彼女を押し倒すような格好で、一緒に横になった時だった。
「イタッ」と彼女が突然叫ぶ。
手を後ろにやりバレッタを外す。横になった時に、後ろで止めていたバレッタがソファーに当たって頭に押し付けられたのだ。
「いたぁ~い」
そう言って頭を摩る彼女を僕が見て、彼女は僕を見る。
「ぷ……」
「あはは」
二人は同時に吹き出し笑った。僕は彼女にもう一度唇を押し付け、熱いキスをする。
彼女の腕が僕の首に巻きつき、僕は左腕を彼女の首の後ろに回す。そして彼女の項にキスをすると、『ぁ』と軽く声をもらした。そして彼女が囁くように言う。
「ねぇ、電気―― 電気消してくれる?」
僕は、テーブルの上にあった照明のリモコンを取り、明かりを消した。
翌日、窓から射し込む明かりで目が覚めると、僕は見慣れないベッドに横たわっていた。そして、昨日彼女の家に泊まったことを思い出した。
僕は身なりを整え、部屋を出てリビングの方へ行くと、彼女はいつものキッチリしたスーツに身を包み仕事にいく準備をしていた。
「おはようございます」そう言った僕に、彼女も挨拶をする。
「おはよう」
そして彼女はバタバタとバッグに荷物を詰めながら言う。
「朝ご飯テーブルに用意してあるから。それと珈琲はそこにあるポットから入れて飲んで」
そう言って指を指した先には珈琲メーカーのポットに作られた珈琲があった。
「あ、はい。すみません、忙しいのに用意してもらっちゃって」
「私、出ちゃうから合鍵置いていく。鍵閉めたらドアの新聞受けから放り込んでおいて」
「分かりました」
僕がそう言うと、彼女はリビングを出ながら訊く。
「ねぇ、周。私のこと好き?」
「もちろん、好きだよ」
「ありがとう。勇気が出たわ。じゃ、行ってきます」
そう言って彼女は仕事に出かけた。
僕はダイニングテーブルに置かれた朝食を食べ始め、珈琲を飲みながらそこに置かれていた新聞を読む。そして、彼女との朝の会話を思い出し、一つどうしても意味の分からない言葉があることに気がついた。
『勇気が出た』ってどういう意味なんだろうと思ったが、充実感で満たされていた為か、新聞を読み終わる頃には忘れていた――




