第二話 【優しい香り】
翌日、同じ時間に彼女は店にやって来た。相変わらず、思いに耽っている感じで遠くを見つめることが多かったが、口数は多くなっていた。その彼女に合わせるように、僕も昨日より多く話をする。
僕が、鍋島周と、自分の名前が書いてある店の名刺を渡したら、彼女も会社の名刺をくれた。その名刺には、永田さんと同じ会社名が書かれていて、肩書きは常務秘書。
名前は、水野香織。年齢は聞かなかったのだが、僕の歳を彼女が聞いて来たので二十八歳と答えたら、『私の方が四つお姉さんだね』と言っていた。
――それから毎日、長居はしないものの、彼女は店に来るようになった。
色々な話をしたが、彼女はお酒の話に興味があるみたいだったので、お酒のウンチクを多く話す。そして、早い時間から団体客が入った時などは、テーブル席にお酒を運んでくれたり、シンクに食器やグラスが溜まった時には、僕が制止するのも聞かず『いいのいいの』と言いながら洗ってくれる。そんな日々を過ごすうちに、僕は彼女に惹かれ始めるようになった。
ある日のこと、僕はいつものように彼女にカクテルを作り差し出す。
「これはチャールストンフィズです。とてもフルーティーな味がしますよ」
レモン果汁が、薄っすらとカクテルの透明度を落としているそのグラスを持ち、彼女は一口飲む。
「あ、本当だ。すごくフルーティー。お酒を飲めない人でもジュース感覚で飲めるわね」
フィズは、ガムシロップやレモン果汁などが入り、とても飲みやすいカクテル。お酒が嫌いな人でもジュースのように飲めるので、調子に乗って飲むと後で大変なことになる。あまりお酒が強くない彼女には、このくらいのカクテルが丁度良いのかもしれない。
そして、美味しそうにカクテルを飲んでいる彼女を、僕は意を決して誘ってみる。
「水野さん。今度の日曜に夕食でも一緒にどうですか?」
「あら、デートのお誘い?」
「ま、まぁ、そのようなものです」と僕は、はにかみながら言った。
すると彼女は、バッグから薄いオレンジ色をしたシステム手帳を取り出す。
「うん。今の所、何も予定入っていないからいいわよ」
「ほ、本当ですか!」僕の心臓は一気に鼓動の速度を増す。
「で、私をどこへ連れて行ってくれるのかな?」
天にも昇る勢いだった僕は、彼女が聞いてきた一言で一瞬時間が止まる。なぜなら、誘ってみてOKが出てから考えるつもりだったので、実はどこに行くかなど全く考えていなかったのだ。
「す、すみません……。まったく考えてなかったです。誘ったあとに考えようかと――」
「ぷ……。あはは。そんなんじゃ女の子なんて落とせないわよ」
「は、はぁ……。すみません。女性を誘うの昔から苦手でして――」
僕は恥ずかしくなって、顔から火を噴きそうなくらい熱くなったのがわかった。
「いいわ。それじゃぁ、隣街に美味しいイタリア料理を出すお店があるから、そこに行きましょう」
そう言って彼女は携帯を取り出し電話をかける。どうやら、そのイタリア料理の店のようだ。
こんな風に、てきぱきと物事を進められるのは秘書だからか、それとも性格だからなのか。僕は電話をしている彼女を見ながら、そんなことを考えていた。
「大丈夫だって。結構人気のお店だから予約取れないかと思ったけど、今度の日曜日に予約入れられたよ」
彼女は電話を切ってそう言った。誘ったのは僕なのに、何も段取りが出来なかった自分を情けなく思う。
「あ、ありがとうございます。すみません……、誘ったのは僕なのに」
そんな僕に、彼女は『女性を誘うのが慣れた人より、却ってそっちの方がいいわよ』と言ってくれたのだった。
――そして日曜日
夜の七時に店の前で待ち合わせをしていた僕は、二十分も前に着いてしまった。昨日の夜は色々なことを考えて、なかなか寝つけなかった。
彼女は、なぜ僕の誘いを受けたのだろう。僕のことを気に入ってくれたのか、はたまた弟みたいな存在だからか。
それとも、ただのお遊びなのか――
彼女のあの遠くを見る目。今でこそ殆どしなくなったが、あの思いに耽った目は、何を思っていたのだろう。
どれもこれも、考えたって答えが出ないものばかりだ。
約束の時間まであと何分なのか、腕時計を見ようとした時に一台のタクシーが止まりドアが開いた。彼女がタクシーを降りて、開いたドアの後ろに立って言う。
「おまたせ―― ねぇ、周くん。車で来てないよね?」
「あ、はい。美味しいワインがあったら飲みたいと思っていたので、家に置いてきました」
僕は家から三十分かけて、歩いてここまで来たのだ。運動不足になりがちな生活を送っているので、荷物がない限りは出来るだけ歩くようにしている。
「それじゃ、乗って。このタクシーでお店に行きましょう」
そう言って彼女はタクシーに乗り込み、僕も後から乗り込む。
彼女が運転手に行き先を告げ、シートにもたれかかった時に微かな香水の香りがする。その香りは柔らかく優しい感じで、僕の嗅覚に触れてきた。
「水野さん、香水っていつもつけてました?」
すると彼女は笑いながら言う。
「香織―― 香織でいいよ。水野さんって言われると会社にいるみたいでイヤかな」
「あ、すみません。じゃぁ、香織さんにします」
そう言った僕に、優しく言う彼女。
「えっと、香水は会社に行く時はつけないの。今日はプライベートだからつけて来たのよ。この香り嫌いだったかな?」
今日の彼女は、いつもの堅苦しいスーツ姿ではない。紺より少し緑がかったカットソーのプルオーバーに、薄いベージュ色のランダムティアードのスカートを穿いている。
「いい香りです。優しい感じがして好きです」
「そっか。良かった、気に入ってくれて」
彼女は笑みを浮かべながらそう言った。
程なくして、イタリア料理の店に着きタクシーが止まる。僕は料金を支払おうと財布を出したが、それを制止する彼女。
「あ、い、いや。僕が払いますよ」
「いいから――」
彼女はそう言って僕をタクシーから出そうと身体を押し、ここで争っても迷惑だと思った僕は彼女の好意に甘えて車を降りた。
タクシーを降りた僕の目の前には、ベージュの壁に黒縁の窓が填まったお洒落な建物。他の店舗とは明らかに違うその造りは、この店の敷居が高いことを物語っている。
そう言えば以前、店に来たお客さんから隣街に高級イタリア料理の店が出来たと聞いたことがあったのを思い出す。おそらく、この店のことを言っていたのだろう。
タクシーの代金を払い降りてきた彼女は僕と腕を組み、少し重い黒く塗られた木の扉を開けた。




