かおり
雪が溶け、緑の芽が山を彩る季節に冬太は女と出会った。
牡丹の着物が女の烏の濡れ羽のような黒髪によく似合っていた。
筆で描いたような流麗な眉と目を奪うような赤い唇。
唇には柘榴を割ったような紅が塗られていた。
赤く艶のある紅は女の白い顔に不釣合いだったが、それが途方もない色気を醸し出し、女の唇がそっと開くたびに冬太は寒気にも似た感覚を覚えるのだ。
「村の子かしら?」
女の視線が冬太を捉えた。
その視線に動くこともできず、冬太は唾を飲み込んだ。
女の声は柔らかで、小鳥が囀っているかのような愛らしさがあった。
背筋が凍るほどの冷たい美貌も一気に愛らしく見える、柔らかで耳に心地の良い声色だ。
「一人で山に登るなんて、随分と無謀な坊やね」
村の餓鬼大将であった冬太は人並み以上に度胸があったため、そこで条件反射のように減らず口を女に返した。
「若い女がこんな山ん中にいる方がずっと危ないじゃないか」
毎年数人の若者が山の獣に襲われる。
商人が山道で追剝ぎに遭うことも珍しくない。
四季彩りの山菜が採れる豊潤の山であるが、女子供に優しいわけではないのだ。
女の身なりは今まで見たことがないほど豪奢で華やかなものだ。
牡丹の刺繍が鮮やかで、黒髪に差した簪の華麗さは村の女達を狂喜させる代物だ。
どこかの商人の娘だろうか。
人の血肉を覚えた獣や悪党に見つかれば一溜まりもないであろう。
無用心にも程があり、何故女が一人でいるのか、またどうやってここまで登ったのか、疑問は尽きない。
従者に担がされて来たのなら分かるが、他に人影は見えなかった。
「あんた、一人じゃないんだろう?お供がいるなら早くそいつのとこに行きなよ」
ここは危ないからと、続けようとしたが女の身を案じていることが分かるのが恥ずかしく、冬太はそこで口を閉ざした。
膝まで生い茂る草で草履を履いた冬太の足には無数の切り傷が出来ていた。
女の白い着物には土一つついていない。
お供に担がれて来たと思うのは当然であり、それ以外考えられなかった。
「お供はいないわ」
「嘘つくなよ。そんななりで山に登れるわけがないだろう」
子供だからからかっているのかと冬太は口をひん曲げ、意思の強そうな眉を逆上がらせた。
不機嫌になった冬太を見て女は少々困ったように嘘じゃないわと小さく呟く。
女があまりにも寂しそうな顔をするため、冬太はそれ以上何も言えなかった。
不思議な女だと思った。
見たことがないような贅沢な身なり、一度見たら忘れることなどできないような美貌。
まだほんのり冷たい風が頬を撫でる平地で、ぽつんと一人佇んでいる女の姿はどこか哀しげだ。
どんなに高名な絵師でも描くことはできないであろう、女が佇むその鮮やかで淡い情景に冬太は魅入った。
草花や樹木の芽がぽつぽつと山を彩り始めているとは言え、冬の名残の枯れ木の方がまだまだ目立つ。
山の平地に女の鮮やかな色は不思議とよく馴染み、俗世の垢などまったく知らないかのように女は清廉に見えた。
女に見惚れながらも冬太の口は相も変わらず生意気に動く。
「早く山から降りなよ。日が暮れたら獣に襲われちまう。あんたなんてぱっくり一口だ」
「坊やの方が危ないわ。坊やこそ、暗くなる前に早く帰ったら?」
冬太の忠告に女は拗ねたように口を尖らせた。
先ほどの寂しそうな姿はもう無く、どこか勝気な言い草だ。
口を尖らせ、意固地になる様は女を幼く見せ、それにまた意味も無く冬太の胸が騒いだが、生意気さでは負けていない冬太はむっとして言い返した。
「俺はあんたと違って毎日鍛えてるんだ。追剝ぎも、獣も怖くないっ」
「随分な自信ね。でも狼が出たら坊やなんて一口でぺろりよ」
「狼なんて怖くないさ。ここの獣は大人しいんだ。縄張りにさえ入らなきゃ襲われたりしない」
拳を握り締めて冬太は力説した。
女に言い負かされるのも甘く見られるのも我慢できない性質なのだ。
「あら。でも村の若い衆が何人か襲われたじゃない。獣が皆賢いとは限らないのよ?」
坊やがここまで来れたのはたまたま運が良かったのよ。
女は袖で上品に口元を隠し、楽しそうに笑った。
冬太との子供じみた掛け合いが心底楽しいらしい。
腕っ節に自信のあった冬太は女の一言にかっと顔を熱くさせたが鈴を転がしたような笑い声に、胸がまた騒いだため今度は何も言い返すことができなかった。
頬が熱くなる。
女の無邪気で可憐な笑顔に冬太は見惚れた。
確かにここまで一人で登ってこれたのは運が良かったというのもある。
冬が終わり、もうすぐ春がやって来るこの時期の獣はとにかく飢えていた。
追剝ぎはまだ出ないが獣が活発に狩りをする時期に一人で山に入るのは自殺行為に等しい。
だからこその度胸試しなのだと冬太は胸の内で言い訳した。
それにしてはあまりにも無謀であることは本人が一番よく分かっていた。
そういう意味では冬太は女に意見できる身ではないのだ。
冬太も阿呆ではないため、女の言葉も確かに正論だと渋々認めているが、元来の負けん気の強さが冬太を意固地にさせていた。
むすっと黙った冬太を見て女は満足したのか、そっと繊細な手で手招きした。
「私は桜子。坊やは?」
「……俺は、冬太」
とうた。
女の口が冬太の名を確かめるように紡ぐ。
その度に冬太の頬が赤くなる。
冬太は胸の中で何度も桜子桜子と女の名を呟いた。
決して忘れないように何度も呼びかけた。
その度に風にあたり冷えていた身体が熱くなるのが分かった。
「冬太、こっちへおいで」
「……」
「怖がらないで。お姉さんが良いものをあげる」
そっとにじり寄る冬太に桜子は微笑んだ。
警戒深く近寄る冬太だったがふざけた物言いに憤慨し、今度は大股で桜子に近づいた。
冬太は本当に単純ねと年の離れた姉の言葉が浮かんだ。
桜子が懐から取り出したのは桜色の小袋だ。
鈴のついた紐で結ばれた愛らしいそれからは今まで嗅いだことがないような良い匂いがした。
「匂い袋よ」
「……俺、女じゃないからこんな貰っても嬉しくない」
桜子は冬太の文句に不機嫌になることもなく、まだ幼いが畑仕事で荒れた冬太の手を取って匂い袋を握らせた。
畑仕事どころか水仕事一つしたことがないような白く柔らかな手の感触に冬太は全身の産毛が逆立つのが分かった。
桜子の手は温かかった。
肌寒い風が吹く中で特にこれと言った防寒具を身に着けているわけではない割に桜子の手は暖かかった。
早朝に家族に見つからないようにこっそりと軽装で山に登った冬太の手は冷えていたが桜子に触れられた途端に全身に陽が当たったように身体がぽかぽかと温まった気がした。
「こんなに手を冷やして。冬太の方がずっと無謀ね」
桜子から渡された匂い袋からうっとりしてしまうほど濃厚な香りが漂った。
しばし桜子の手の感触に呆然としながらもいつの間にか鼻を擽る甘美な香りに冬太は夢中になった。
先ほどの文句など忘れたかのように冬太はその匂いを鼻いっぱいに吸い込んだ。
母ちゃんや姉ちゃん、いつも一緒に遊ぶ妹分達にあげたらきっと喜ぶだろうと思ったが、誰にもやりたくないと冬太は思った。
こんな女々しいものを持っていることが遊び仲間や洟垂れの子分達に知られたらきっと馬鹿にされる。
喧嘩して喧嘩してようやく掴んだ大将の座を追い出されるかもしれない。
酒飲みで頑固な親父は特に女々しいものを嫌う。
冬太が女物の匂い袋を持っていることを知ったら家から追い出すかもしれなかった。
それでも、
「また、今度はそれを持って会いに来て。その匂いが冬太を守ってくれるわ」
桜子の言葉に冬太は頷いた。
子供が山に入ることは禁じられていた。
獣や山賊に襲われる危険性があるためだ。
冬太がその山に一人で入ったのはただの度胸試しだ。
無鉄砲で意固地、大人達にいくら叱られても懲りない冬太は村の子供達の憧れを一心に受けている。
早く帰らないと母ちゃんに怒られると冬太は山を降りた。
いつお供が来るのかまさか置き去りにされたのではないかという懸念もあったが、焦り一つ見せることなく木の下に座り込んだ桜子を見て冬太は後ろ髪を引かれながらも家に帰ることにしたのだ。
そしてまた明日もここに来ると桜子に約束したことを思い出し、後ろを振り返った。
遠くで桜子が冬太に手を振っていた。
村の娘達とは違う、袖を押さえてほんの少し手首を動かす上品な仕草に冬太は顔を真っ赤にして今度は一度も振り返ることなく走った。
懐に入れた匂い袋を握り締めて。
桜子とまだ咲くことのない桜の木の情景を思い出す。
それはやはり寂しいものだった。
桜子が寄りかかっている桜に花が咲けば、その哀しみも少しは薄れるのに。
何故そう思ったのか分からない。
子供心にそう感じたとしか言いようがなかった。
だがいくら風が暖かくなっても、春はまだ先のこと。
桜が咲くにはまだ早かった。