母
「あら、オセロをやってたの?」
オセロが終わった頃、美咲さんがドーナッツを持って、わたしたちのところにやって来た。その甘い匂いがふわりと広がり、さっきまでの騒がしさが一瞬だけ静まる。
「そうだよ。もちろん、ボクたちの勝ちだったけどね」
この勝負は、完敗としか表しようがないほどの差がついた。わたしと宮城は、序盤こそ善戦していたものの、中盤から終盤にかけて、朔月と如月さんにすべてを読まれてしまい、一方的な展開になってしまったのだ。
その理由は、単純に朔月が強すぎたからでもあったのだが、わたしや宮城は、知識は多いものの、相手の思考を読むと言った考察という部分が苦手すぎたのだ。……たぶん、対人関係の希薄さが原因なのだろう。相手の癖や意図を汲むという行為に、わたしたちは慣れていない。
「ひ、日和ちゃん。ごめんね……。僕がもう少し強かったら……」
「気にしなくていいよ。朔月は強い方なんだから、勝てなくても仕方がない」
そう言うこともあって、宮城は落ち込んでいた。どうやら、足を引っ張ったと思っているらしい。
そんなことは無いのに。わたしと宮城で協力して負けたんだ。だから、負けた原因は、お互いにあり、謝る必要はどこにもない。ほんと、宮城のそういう所は、美点でもあるが欠点でもある。
「そうよ。それに、負けた時は、落ち込むよりも、次こそは勝ってやるって気持ちになったほうがいいわ。そっちの方が、美しいもの」
美咲さんが、落ち込んでる宮城を見て、そんなことを口にする。その声音は優しくて、けれどどこか凛としていて、宮城は思わず顔を上げた。
「……美しい、ですか……?」
「ええ。負けた悔しさを、前に進む力に変えられる人はね、とても綺麗よ」
宮城は一瞬だけ戸惑ったように瞬きをして、小さく頷いた。
「わかり、ました」
「アハハ! ボクを見習うといいさ! 常に向上心を持っている、とっても美しい人間だからね!」
「黙れ汚物」
「酷くない!?」
少なくとも、校長のポケットからカンペを盗むような人が、美しい人間なわけないだろう。確かに、向上心を持っている人は美しいかもしれないけれど、大前提として周りに迷惑をかけない人であるという点は必要なのだ。
そこのところを、しっかりと自覚してほしい。
「あの……これって、朔月ちゃんのお母さんが作ったんですか?」
「そうよ。あっ、もしかして、手作りのお菓子が駄目だった?」
「いえいえ、凄いなぁと思って。私も菓子作りに挑戦したことがあるんですけど、ここまでうまくできませんでしたから」
如月さんが美咲さんに素直な感想を伝えると、美咲さんは嬉しそうに目を細めた。
「まぁ、ありがとう。そう言ってもらえると作った甲斐があるわ」
そのやり取りを聞きながら、宮城はそっとドーナッツを手に取り、恐る恐る一口かじった。
「……おいしい」
ぽつりと漏れたその声は、驚くほど小さくて、
でも確かに嬉しさが滲んでいた。
「でしょ? お母様のお菓子は絶品なんだよ!」
「朔月、黙って食べて」
「さっきから酷いね! もしかして、八つ当たりかい?」
「そうだけど」
ムカつく、オセロで朔月に負けたことがすっごくムカつく。朔月以外に負けるのは良い。ただ、朔月に負けることだけは許容できない。毎日毎日わたしを巻き込んで来る奴に負けて、心を穏やかに出来る人なんているわけないだろう。
この気持ちは、宮城や如月さんには関係ない物だから、彼女たちにぶつけるつもりは無いけれど、朔月にはぶつけていいだろう。普段から迷惑をかけられているんだから、このくらい甘んじて受け入れるべきなのだから。
……ま、朔月以外に負けていいとは言っても、朔月以外と勝負することは無いんだけどね。
「こら、八つ当たりしないの」
「……ふん」
「成瀬ちゃんと、朔月さんのお母さんは、仲が良いんですね」
如月さんがそう言うと、美咲さんは少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「ええ、日和ちゃんは朔月ちゃんが初めて家に連れて来た友達だからね」
「そうなんですか?」
「そうよ。朔月ちゃんはこう見えて、滅多に友達を家に連れてこないからね。面白い子だと思ったら、すぐに連れてくるんだけど、それでも本当に気に入ってないと、家の方向すら教えないから」
面白い……これが、朔月の行動原理。彼女はとっても自由な人間であり、常識なんてものに囚われないが、その自由さは、誰でもいいという意味ではない。朔月なりの基準があって、それを満たした相手だけを、こうして自分の世界に引き込むのだ。
宮城も、如月さんも、朔月が面白い人だと判断したから、こうして家まで案内されており、そうじゃなければ、追い返されていただろう。
明るく人懐っこい性格ではあるが、それは決して、全ての人に向けられるものでは無い。
「だって、家の中というのは、言い換えれば体内みたいなものなんだよ。そんな場所に、面白くない人のような、気持ち悪い物を入れたくないでしょ」
「……表現に問題が多すぎるけど、珍しく同意する」
本当に珍しいことだけど、わたしは朔月の考えに同意した。
家の中というのは、プライベートの最深部であり、外側に向けて貼り付けている社会的な顔とは違う、本来の自分がそのまま露出する場所だ。そこに、相性の悪い人間を入れたくないという気持ちは、わたしにもよく分かる。
え? お前に社会的な顔があるのかって? ないけど、そんなもの。
「そうなんだ。ちょっと意外かも。宮城ちゃんもそう思わない?」
「う、うん……朝比奈さんは明るい人だと思ってたから」
「明るくはあるよ。ただ、心の底から受け入れることが出来る人が少ないってだけだよ」
うん、そうとしか言いようがない。
明るいし、他人に対して壁を作らずに接することが出来る。どんな状況でも、どんな相手でも、自分を貫いて生きている。けれど、家というプライベート空間に入れることが無いだけだ。
「それで、宮城ちゃんに聞きたいことがあるんだけど、聞いていいかな?」
すると、美咲さんが宮城に対して、ふわりと微笑みながらそう言った。
その声音は優しいのに、どこか核心に触れようとしているような気配があって、宮城はびくりと肩を震わせた。
「えっ……あ、はい……」
宮城はドーナッツを持ったまま固まり、まるで天敵に睨まれた小動物みたいに目を泳がせている。
「宮城ちゃんって、日和ちゃんの弟子になったんだよね」
「は、はい……」
「何でなのか、教えてくれないかな?」
美咲さんの声は柔らかいのに、逃げ道を塞ぐような優しさがあった。
宮城はドーナッツを持ったまま固まり、呼吸が浅くなる。
「えっと……その……」
宮城はしばらく口をぱくぱくさせていたが、やがて意を決したように、小さく息を吸った。
「日和ちゃんは……すごい人だから、です。日和ちゃんは、自分という物を持っていて、それにすごく憧れた……。僕は、みんなに否定されることが多くて……他人に合わせてばかりだから、日和ちゃんみたいになりたいんです」
宮城は緊張で震える声のまま、最後まで言い切り、美咲さんの目をじっと見つめた。
それほどまでに強い憧れを抱いた理由はわからない。わたしは宮城の過去を知らないし、これから知ろうとも思っていない。けれど、彼女の決意が本物だということだけは、嫌でも伝わってきた。
そして、その真っ直ぐな熱意に押されて、わたしは宮城を弟子にすると決めたのだ。
だからこそ、わたしには宮城が自分を貫けるように導く義務がある。わたしが望んだわけではなくても、選んだ以上は、最後まで責任を持つ必要があるからだ。
「そっか」
その言葉を聞いて、美咲さんは安心したように……そして、どこか誇らしげに微笑んだ。まるで、自分の子どもがようやく一歩を踏み出したのを見届けた母親のような、そんな柔らかい表情だった。
「日和ちゃん、良かったね。こんなにも、見てくれる人がいて」
「よくない。わたしは、一人でいたいのに」
「またまたー、ツンデレは今時流行らないよ」
「うるさい黙れ」
美咲さんが、わたしに対して祝福を、朔月が茶々を入れてくる中、わたしはただため息をつきたくなった。
どうしてこうも、わたしの望む方向とは真逆に物事が進んでいくのだろう。平穏に生きたいだけなのに、周りが勝手に騒ぎ立てて、勝手に盛り上がって、勝手に意味を見出していく。
ほんと、めんどくさい。
「宮城ちゃん。この子は、口ではこんなことを言ってるけど、本当は素直になれないだけの優しい子だから、安心していいのよ」
「はい……そんな気は、しています。勘ですけど」
「だってさ」
何も分かってない。わたしのことを、本当にわかってない。
誰も、わたしのことをわかってない。
「あら、もうこんな時間。夕方になっちゃったわね」
美咲さんが窓の外に目を向けると、いつの間にか陽は傾き、部屋の中に差し込む光が柔らかい橙色に変わっていた。
昼間の喧騒がゆっくりと落ち着いていくような、静かな気配が漂い始める。
「みんなはどうする? ここで晩御飯を食べてから帰ってもいいんだよ」
「お気遣いありがとうございます。でも、まだ会ってばかりですし、私は家に晩御飯があるので、今日はこれで帰りますね」
如月さんは、申し訳なさそうに、けれど丁寧に頭を下げた。
その断り方は、角が立たないように気を配っていて、いかにも如月さんらしい。
「ぼ、僕もお母さんが作ってくれるので……」
「そっか。無理に引き止めるつもりはないわ。気をつけて帰ってね」
「はい。今日はありがとうございました。ドーナッツ、とても美味しかったです」
如月さんが笑顔でそう言うと、美咲さんも嬉しそうに微笑み返した。
夕方の柔らかい光が二人の横顔を照らし、どこか穏やかな雰囲気が流れる。
「じゃあ、わたしは宮城を送るよ。朔月は如月さんを」
「大丈夫? 迷子にならない?」
「わたしを誰だと思っている?」
「中学の時の校外学習で迷子になってなかった?」
「……あれは、知らない土地だったからだし」
いったい、何年前のことを言っているのだろうか? その時に比べると、わたしだって成長しているし、何よりここはわたしが生まれ育った街だ。迷子になるわけないだろう。
すると、宮城が不安そうにこちらを見上げた。
「で、でも……僕なんかが、日和ちゃんに送ってもらうなんて……」
「遠慮しないで。そもそも、わたしがここに連れて来たんだから、このくらい当然のこと」
「で――」
「それに、師匠が言ったことなんだから、おとなしく聞いといて」
「あぅ……」
宮城は情けない声を漏らし、しゅんと肩を落とした。 その様子があまりにも素直すぎて、わたしは思わず視線を逸らしたくなる。
別に威張りたいわけじゃないし、師匠面をしたいわけでもない。ただ――ここまで来た以上、責任くらいは取らないといけないだけだ。
「じゃあ、決まりだね! ボクはきらきらちゃんを送っていくよ!」
「私も別に……」
「きらきらちゃんも遠慮しないで。それに、ちょっと話したいことがあったし」
「それなら、お言葉に甘えて……」
そうして、朔月は如月さんの腕を当然のように取って、玄関の方へと歩き出した。
拒否する隙間すら与えないその勢いに、如月さんは一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに小さく笑ってその後ろについていく。
「じゃあ、また明日ね、日和ちゃん、宮城ちゃん」
「うん。また」
「ま、また……」
如月さんが軽く手を振り、朔月が「任せて!」と意味不明な自信を見せながら外へ出ていく。
夕方の柔らかい光が二人の背中を照らし、影が長く伸びていった。
玄関の扉が閉まると、家の中に静けさが戻る――はずだった。
「……行こっか、宮城」
「う、うん……!」
宮城は緊張したまま、けれどどこか嬉しそうにわたしの後ろへついてくる。
その足取りは小さくて、頼りなくて、まるで置いていかれないように必死でついてくる子どもみたいだった。
(はぁ……大変だなぁ)
でも、心では不思議と、嫌だと感じていなかったのだ。むしろ――この小さな足音が後ろにあることに、どこか安心している自分がいた。




