マスターの外伝 階段と、果たせぬ歌
それは、まだ新校舎が建つ前のことだった。
私立歌川雲雀高等学校の木造校舎は、今よりも古く、廊下の床は歩くたびにミシミシと音を立てた。それでも、生徒たちはこの古びた校舎を愛していた。特に、部活動に熱中する生徒たちにとっては、青春のすべてが詰まった場所だった。
「マスター」と呼ばれる前の少女も、その一人だった。彼女は、この学校の生徒で、バンドのボーカルだった。彼女の親友で、バンドのギタリストだった理子は、いつも笑顔で、どこか無謀なほどに情熱的だった。
「私たちの歌で、この旧校舎を震わせてやろうよ!」
理子の言葉に、マスターはいつも笑った。
彼らの練習場所は、校舎の片隅にある小さなカフェ。マスターが店番をしていたわけではない。放課後、彼らはカフェのマスターに頼み込んで、閉店後の店を使わせてもらっていた。コーヒーの香りが残る店内で、マスターは歌い、理子はギターをかき鳴らした。ベースとドラムも加わり、彼らの音楽は、古びたカフェに新しい命を吹き込んだ。
学園祭まで、あと一週間。
彼らは学園祭のステージで演奏する曲を完成させ、最後の練習を終えた。
「最高だ! これなら、学園祭、大成功間違いなしだ!」
皆で喜びを分かち合い、楽器を片付け、帰路につこうとした、その時だった。
理子が、練習の疲れでふらつき、急な階段を踏み外した。
「理子!」
マスターの叫び声が、誰もいない夜の校舎に響き渡る。
理子のギターが、鈍い音を立てて階段を転げ落ちた。そして、彼女自身も、頭から階段に叩きつけられた。それは、わずか数秒の、信じられない出来事だった。
理子は、一命を取り留めたものの、二度とギターを弾くことができなくなった。
バンドは、当然のように解散した。マスターは、自らを責め続けた。もし、あの時、自分が理子の隣にいたら。もし、あの時、もっと早く気づいていたら。
音楽は、彼女にとって、希望から、絶望の象徴へと変わった。
その後、マスターは学校を卒業し、街を出ていった。しかし、心にはいつも、理子と、そして果たせなかったバンドの夢があった。やがて彼女は、思い出の場所である旧校舎に戻ってきた。
そして、かつて自分たちが練習していたカフェのマスターになった。
彼女は、自分を責める気持ちを胸に秘めながらも、もう一度、この場所で音楽が奏でられることを願っていた。いつか、自分たちの代わりに、旧校舎に光を灯してくれる、新しいバンドが現れることを信じていたのだ。
だからこそ、雪巴たちが軽音サークルを立ち上げた時、彼女は心を揺さぶられた。そして、彼女たちの音楽を通して、理子との再会という奇跡が訪れることになるとは、まだ知らなかった。
彼女が奏でる哀しいメロディは、死んだ仲間を悼む歌ではなかった。それは、いつか再会できる日を信じ、待ち続けた歌だったのだ。