二十八
幼馴染に看病された後、安らかな気持ちで一夜を過ごした。前日に拗らせた風邪は、最初から無かったかのように完治して、僕は軽い足取りで通学路を進んでいた。
結局、前日の夜に目を覚ました時には幼馴染の姿は消えていた。ひと言お礼を言いたかったが、幼馴染と言えど異性の部屋に遅くまでいるわけにもいかないだろう。
「……。」
歩きながらぼんやりと空を眺めてみる。
天気は快晴。青空の上を雲がゆっくりと流れている。何処からか聞こえてくる鳥の鳴き声も相まって、感傷的な気分になってしまいそうだ。
「良い天気だね。」
当たり前の事実が無性に嬉しくて、つい走り出したくなってしまう。たった一日見なかっただけの通学路に懐かしさを感じてしまうのは、僕にとって学校が大切な存在になっているからに他ならない。
校舎に着き、靴を履き替える。何も変わらない、普通の日常風景だ。
「あ、雨空くんおはよう。」
聞き馴染んだ声がして後ろを振り向くと、慣れ親しんだ人物が立っていた。
「七咲さん、おはよう。」
「うんうん。あ、そうだ……。」
七咲さんは何かを思い出したのか、キッと真面目な顔になる。そして両足を揃えて、ピンと張った右手を額の前に当てる。いわゆる敬礼のポーズである。
「雨空一等兵。戦線復帰、ご苦労であります。」
僕も彼女に倣い、敬礼する。
「雨空一等兵、只今帰還いたしました。って言うのは良いんだけど、これって何?」
「ふふん、それはねぇ……。」
僕の質問に対して、彼女は得意気な顔で胸を逸らす。
七咲さんの可愛らしい胸囲の前では、ある種の微笑ましさすら感じてしまう。ただ、あまりにもデリカシーに欠けるので口に出すべきではないだろう。それはそうと、今は彼女の突発的な即興劇についてである。
「もったいぶらずに教えておくれよ。」
「仕方がないにゃあ。これはずばり、小隊ごっこなのさ。」
「小隊ごっこ?」
思わず聞き返してしまった。ごっこと付いてしまうと、随分と幼稚な響きだ。七咲さんも、高校生にもなって可愛いことをするものだと少し感心してしまう。
「そう、小隊ごっこさ。」
七咲さんは元気な声でそう言うと、右手を前に突き出した後人差し指と中指を立てた。
「ふっふっふ。わたしは二等兵だからな、きみより少しだけ偉いんだぞ。」
「……。」
数字が多いから階級が上だと勘違いしたのだろうか。知っていたからと言って得をする場面も来ないだろうし、黙っておくことにするが……。
「ところで雨空一等兵よ。」
「なんでありますか、七咲二等兵。」
廊下を歩きつつ、七咲さんは僕に声を掛ける。早朝で人気の無い校舎では、横に並んで歩いていても誰の邪魔になる事も無い。
「昨日一日休んだけれど、体調の方は本当に良いの?」
「うん、すっかり良くなったよ。きょう……夏妃がお見舞いに来てくれてね……。」
僕がそう言うと、七咲さんは子供の様に目を輝かせた。
「それって、雨空君が部屋に入れたってこと?熱でネガティブになって誰かに甘えたくなったってこと?」
「そんなワケないでしょ。僕が寝ている時に、勝手に入って来たんだよ。」
「えぇ、まぁそれはそれで面白いから良いか。」
一体何が面白いのか。そう突っ込みたくなったが、彼女はそんな暇を与えることなく詰め寄って来る。
「それでそれで、何かして貰ったの?それとも何かしたの?汗ばんだ身体を拭いて貰ったのかな。駄目よあなた、風邪が移っちゃうって痛いっ。」
話が段々エスカレートして来たところで、僕は彼女の頭に手刀を振り下ろした。
「痛いよう。病み上がりに何をするんだよう。」
「不純な話題を出す方が悪いと思わないかい?」
「全然思わないね。思春期だもん、年相応だもんっ。」
思春期の少女は両手で頭を押さえてぴぃぴぃ喚いている。思春期なのは否定しないが、学校の中でのそう言う発言は控えるべきだろう。
そんな話をしている内に、気が付けば職員室の前に来ていた。
「それじゃあ僕、教室の鍵借りてくるから……。」
「はぁい。じゃあここで待ってるね。」
「……あぁ、うん。」
先に教室の方に行っていてと言うつもりだったのだが、まぁいいだろう。職員の鍵を借りる時、いつも他の教室の鍵を確認する。三年生の教室の鍵はいつも無いし、二年生の教室の鍵はいつもある。だから何だと言う話だが、深い意味も意図も無い。
学生の思慮なんて、そう言うものだろう。
「お待たせ。鍵借りて来たよ。」
「ありがとう。明日はわたしが借りに行くね。」
教室に着くと、廊下側の窓が開いていることに気付いた。だから何だと言う話だが。
「今日から学校かぁ。憂鬱だな……。」
「風邪で寝込んでいるよりもマシでしょ。少なくとも、不健康でいるよりは面白いことが起きるかもしれないし。」
机に着くなり溜息を吐く僕に、七咲さんはまともなことを言う。ついさっきまで時と場を弁えない発言をしていた女の子と同一人物とは到底思えない。
「でも僕よりも頭は良いんだよなぁ……。」
僕の視線に気付いたのか、彼女はコツリと首を傾げる。
「ん、なぁに?人の顔まじまじと見て。」
「いや、何かしらの意図があった訳じゃないんだけど……。」
「あ、もしかしてわたしの顔に見惚れていたりして。」
「まぁそうかもね。」
「ふえっ?」
悪戯っぽい表情を浮かべていた七咲さんは、僕の言葉を聞き驚いた様に目を見開いた。
場を弁えない発言だっただろうか。胸の内で反省しつつ、僕の平凡な一日が幕を開けた。




