三十二
八月半ば。少し前に親友四人で都会に行ったきり、独りきりで平穏な夏休みを謳歌していた。
『今日予定ある?時間あるならウチに来て課題やらない?』
京香からそんなメッセージが来たのは早朝、午前六時のことだった。寝惚けた頭で随分と早い連絡だと思ったが、特に深い意図はないのだろう。
何と返信しようかと、顔を洗いながら考える。課題は毎日少しずつ進めていたが、ここ数日は正直捗っていなかった。なので、彼女の提案は、渡りに船と言ったところだ。
『ぜひお邪魔させてもらうよ。何時頃に行けばいいかな?』
メッセージを送信して数分後、歯を磨いていると彼女から返信が来た。
『いつでもいいよ。なんな今からだって構わないし。特に遅れる理由もなければ、いつも通り九時頃に来てくれれば嬉しいな。』
『了解。九時くらいにそっちに着くようにするよ。』
そう返信して、うがいをする。
時刻は午前六時半。彼女の家まで五分、長く見積もっても十分ほどしかかからないので家を出るにはまだ早い。
寝汗をかいてしまっているので、家を出る前にシャワーでも浴びておくことにした。今更だが、汗をかいた体で異性の家を訪ねるのは憚られる。今まで学校帰りに訪ねてみたりしていたので、京香も内心どう思っていたか分からない。それでも、現在までこうして連絡をくれている幼馴染の存在を、僕はありがたく思った。
午前九時。幼馴染の家に着く。インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。
「あぁ樹。待ってたよ。ささ、入った入った。」
扉を開けた京香は、笑顔で手招きする。
「おはよう。お邪魔するね。」
「どうぞどうぞ。今日はさ、一緒に課題をするのもあるんだけど、もうひとつ樹を読んだ理由があってね。」
彼女はそう言って僕を案内する。
僕が迎え入れられたのは、彼女の自室ではなく広いリビングだった。リビングのテーブルでは、京くんがひとり頭を抱えている。
「あ、京くんおはよう。」
「樹さん。うわぁん助けてぇ。」
京くんは僕を見るなり、泣きついてきた。
「京くん?どうしたのさ。」
「こら、京。泣きつく前にやることあるでしょ。」
「うぅ、姉さんの鬼ぃ。」
僕の腹部に抱き付いたまま、唇を尖らせる。
彼を落ち着かせるため、頭を撫でながら京香にたずねる。
「これはどういう状況なの?」
「京がね、夏休みの課題に全く手を付けてなかったんだよ。だから、最終日に泣く事にならないよう、今日明日で全部やらせるんだ。」
「それじゃあ僕を呼んだ理由ってのは、京くんを見張るようにってことか。」
「ボクらの課題が一番だけど、監視の目的も兼ねてね。」
彼女の話を聞いて、腹部に張り付いた京くんを引き剥がす。
「そう言うことなら、協力するよ。」
「えぇ、遊ぼうよぉ。樹お兄ちゃん、良いでしょ?」
「ダーメ。課題終わってからね。」
京くんは観念したようにテーブルに向かう。僕がくる前からやっていたのだろう既に課題のプリントが広がっている。
「樹はどのくらい課題終わってるの?」
「あとは数学が半分くらいと、古典の問題集。京香は?」
「ボクは数学をあと何ページかやれば終わり。京と違って計画的にやってたからね。」
僕の横で京くんが恨めしそうな眼差しで姉を睨んでいる。顔立ちなど似ている姉弟でも、課題の取り組み方など違ってくるものらしい。
取り敢えず、僕は持ってきた数学の問題集を解き始める。数学は苦手と言うわけではないが、別に得意でもないので、度々行き詰まる。なので、教えてくれる人がいると課題の進捗はひとりの時よりも断然良い。京香がいてくれて、本当に助かった。
僕の隣では、京くんがスラスラと問題を解き進めている。面倒くさがりなだけで、姉と同様頭は良いのだろう。
「樹さんどうしたのさ。オレのことをまじまじと見つめて。もしかして、オレに見惚れてたの?少し恥ずかしいけど、樹さんならって痛いっ。」
ニヤニヤとしていた京くんの頭に、姉の手刀が振り下ろされる。
「喋っている暇があるなら、課題をしなさい。」
「姉さんの鬼、悪魔。」
いつも通り仲の良い姉弟に微笑ましさを覚えつつ、僕は数学の課題を解き進めていた。




