封緘(ふうかん)の花弁
「なんちゃって中華風」でお届けします。
茉織姑娘へ
柳の芽ほころび、燕が軒先に舞い戻る頃となりました。
君のもとにも、やわらかな陽射しが届いていることを願います。
あの日、急に姿を消してしまい、さぞ驚かれたことでしょう。
花匠(庭師)に、口外無用と言われておりました。何も告げずに去ったことを、どうかお許しください。
このたび、家令の娘となられたと風の噂に聞きました。
それが喜ばしきことなのか、いささか測りかねておりますが……まずは、おめでとうと申し上げます。
美鈴夫人もご壮健でしょうか?
もっとも、君が生まれた折、私はまだ数え二つでございましたから、記憶にあるのは、君が六つになるまでの数年、送り迎えに来られた短い光景のみ。
けれど、従姉が申しておりました──「家令は長く想い続けた人と結ばれたのだから、めでたきことだ」と。
どうか、言祝ぎの言葉を伝えていただければ幸いです。
さて、学堂の卒業の式で、何かしらやらかしたと耳にしました。
まさか、我らが黙して姿を消したことが、君の怒りの火種になったのではありませんか?
貴族のご令嬢になると、突然二年間会えなくなったこともありましたし、そこまで捨て鉢になると思いませんでした。
君は我慢することには長けている。けれど、限界を超えると、全てをひっくり返して壊そうとしますね。
それほど、我々を大切に思ってくれたのなら、とても嬉しい。
けれど、私のことを、友と思ってくださるなら。
遠く離れていても、君の幸せを祈っている者がここにいると、忘れないでください。
どうか、怒りに身を任せず、己のことを大切に。
乱れた心にこそ毒が回りやすいものです。
もし気が塞ぐことがあれば、龍胆を煎じて飲んでくださいね。
私がとても鮮明に覚えている君は、小さな水鉢の縁に身をかがめて、カエルの卵をじっと見つめていた、あの横顔です。
「絶対に触ってはいけない」と母に注意されて、それでもそばにいた時間は、私にとって幼き日々の何よりも大切な記憶でございます。
あの卵たちはやがて孵り、小さな尾を揺らす稚き命となり、
やがて四肢を得て、また蛙へと姿を変えていきましたね。
君もまた、あの蛙たちのように、少しずつ姿を変えながら、
伯爵家の娘となり、そして今は子爵家の姫として、
新たな世界の中を生きておられるのでしょう。
私はといえば、遠く離れた地より、ただ静かに君の変化を見つめるばかりです。
けれど、あの水鉢のほとりで見た光景は、
今も、私の心の中で優しく澄んで、心の慰めとなっております。
こちらの暮らしも「変わらず」と申したいところですが……実のところ、ずいぶんと変わりました。
まず、今の居所は、王都から離れた静かな地にございます。
申し訳ないのですが、詳しい場所は申し上げられません。
伯爵家の奥様より、家令──君の御父上に、私どもの監督が移ったと聞いておられますか。
私という人間は、外の世界を知りません。
温室の中で生を受けてより、外に一歩も出たことがないのです。
朝は薬草の選別と調合、昼は祖父の知識を紙に書き写し、夜は祖父や母たちと共に食を囲む。
そうした日々を、まるで時が止まったように、生まれてから二十年繰り返してまいりました。
祖父は常に申しております──
「外は危険だ。我らは追われる身なのだ」と。
けれど、私には「追われている」という実感がないのです。
塀の向こうに、どのような人々が住まい、どのような風が吹いているのかを知らずして、何を、なぜ、恐れねばならぬのか──。
むしろ、私にはこう思えたのです。
世界が我々を忘れてしまったのではないか、と。
こうして生きていることさえ、誰の目にも留まらぬまま、ただ時だけが過ぎてゆく。
それを「安全」と呼ぶのでしょうが、私には「置き去り」にされたような感覚の方が近うございました。
祖父の医術は、まことに見事です。
毒の調合法、失われた古病の伝承、数百種の処方が、脳中に収められております。
しかし、それを私は誰のために学ぶのでしょうか?
私の手が届く範囲には、患者がいません。
癒すべき誰かが、私の世界にはいないのです──君以外には。
また、祖父は時折、口にしておりました。
「亡命せず、あの場で果てた方がよかったのかもしれぬ」と。
手伝いのふりをした花匠という監視がつき、もはや自決する自由すらない、と。
碧国に視察に来ていた優しげな侯爵が、こんなに冷酷で徹底したことをするとは思っていなかったと。
しかしながら、「助ける義理もなかったのだから、生かされただけで感謝しなければ」とも言っています。
そして私は……祖父が言う「生きていること」について、考え続けています。
……そういえば、亡き父が申していたことを思い出しました。
君の義理の伯父君──今の次期侯爵様は、幼き頃、落馬の後遺症に悩まれていたそうです。
その時、祖父が助言を差し上げ、その縁を頼りに亡命したと。
にもかかわらず、亡命後の扱いは……。
父は憤り、「薬の処方箋を、待遇改善の交渉の札として使うべきだ」と、祖父と激しく言い争ったそうです。
祖父は「命を質に取り脅すことは、医の道に背く」と反論したそうですが……
──けれど、あの温室で■■にされた人々のことを、祖父はどう考えていたのでしょうか。
私には、それが未だに分かりません。
(※■■は、庭師により黒塗りにされました)
ああ、そのときの息子さんが、君の義理の伯父さんになったんだね。よろしくお伝えください。
それはそうと、面白いことがありました。
私が生まれた年に亡くなられたという、先代の伯爵様。
その先代様と現侯爵様が、温室を眺めながら幾度も茶を嗜まれていたのだそうです。
祖父は「死神が、いつ鎌を振るうかを話していたようにしか見えなかった」と申しておりましたが──
年の離れた従姉は「天使たちの耽美なる茶会」と称し、当時描いた絵を見せてくれました。
従姉は、研究の図録の記述をしていて、絵がとても上手です。
その天使たちを描いた当時の絵が、引っ越しの荷支度の際に見つりました。
なんだか薔薇があちこちに舞った……幻想的な画風です。
君も機会があったら、見せてもらうといいですよ。
はじめのうち、我らは新しき居所においても、やはり外との接触を禁じられておりました。
けれど、最近になって方針が変わったようです。
今の我々には、二つの道が与えられました──
すなわち、これまで学んだ知を広めるか、あるいは研究の道に専念するか。
どちらを選ぶにしても、この国の人々と仕事を共にすることが許されるのだそうです。
君ならば、どちらを選ぶでしょうか?
このような問いに、ああでもない、こうでもないと語り合えたなら、きっとそれだけで胸が弾んだことでしょう。
そして、いつになるかは分かりませんが──
いずれ街へ出ることも許されるかもしれません。
そのときは、君が平民から貴族社会へ飛び込んだ勇気を思い出して、一歩踏み出そうと思います。
もっとも、私が浮き立っているのに対して、祖父はなお碧国との関係に強い警戒を抱いております。
あちらには、我が家系・均一族を陥れた、別の流派の医官たちがおりますから、もはや関心すら寄せてこぬのではと、私は思うのですが……祖父は楽観を許しません。
そういえば、君の元の家──伯爵家と契約していた医師のことを聞きましたか。伯爵家との契約は解除されたそうです。
今度は侯爵家と新たに契約を結ぶとかで、いずれ顔を合わせる機会もあるやもしれませんね。君にとっては義理の祖父母の家ということですから。
我々がいる新しい場所には医師本人ではなく、その弟子が訪れるようになると聞いております。
この地が王都から遠いため、道のりが億劫なのだそうです。
また、伯爵家に通っていたことで、誰に目をつけられているやらわからぬと、尾行を警戒しているのだとか。
そして、伯爵家には、その弟子が新たに医師として行くそうです。
他の医師に診断されて、薬を長期服用していたことに疑念を持たれたら大変なので。
──まったく、大人たちというのは、心配性ですね。
例の件──お嬢様の婚約者に使った草のことですが、あれは天然物ではなく、私が手ずから調製したものにございます。
ある種の陰病(※性疾患)に酷似した発疹と倦怠感を引き起こすよう仕立てておりまして、まさか君の手で使われようとは……思いもよらぬことで、薬研が転げ落ちましたよ。
花匠が使うものとばかり……私の研究が君の役に立てたなら、なによりです。
加えて、あの酒に仕込んだ下剤の件──
伯爵様が「捨ててはならぬ」とおっしゃり、処分の機会を失っていたそうです。
仕方がなく、家令は辞職する前に、隙を見て中和剤を滴らせたとのこと。
──味の方は、もはや薬か毒かも定かでない……混沌としたものになっているやもしれません。
そうそう、以前渡していた痴漢避けの粉──あれの在庫はまだ残っておりますか?
必要であれば、家令……子爵様に言付けていただければ、補充をお渡しいたします。
今度は匂いをやや控えめに調整する予定です。
それはさておき、君のお仕事のこと。
官府の登用試を受けると言っていたのを、私は今も覚えております。
「学堂の悪弊を正す」と、熱く語っておられましたね。
花匠の口ぶりでは、どうやら君が放ったのは「一石」どころの話ではなかったとか。
──まさに、山を削って投げ込んだが如し、と。
学堂は今、蜂の巣を突いたような騒ぎだそうです。
君の信念は、確かに大波を起こしました。
これからどのような道を選ぶにせよ、君の進む先に、かつてのあの志が灯のように残っていることを願っております。
もし、あの屋敷の温室がいつか壊されてしまうのだとしたら──
その前にもう一度だけ、あの場所で君に会いたいです。
忘れられぬ日々の名残を、静かに胸に刻むためにも。
屋敷の片隅にあるあの小さな墓前にも、手を合わせておきたい。
あの場所は、私の記憶の底に深く根を張っています。
それから……覚えていますか?
花匠の恋人であった厨房の彼女が焼いた、あの生姜の菓子。
温かくて、香ばしくて、どこか懐かしい味でした。
また花匠が、こっそりと差し入れてくれたら嬉しいですね。
──この手紙も、どうせ彼が読んでいるのでしょうし。
ここに希望を書いておけば、次の品に添えてくれるやもしれません。
私の方は、変わらず元気にしております。
だから君も、どうかきちんと食をとり、無理などせず、己を労わってください。
……ちゃんと笑って、生きていてください。
誰かの優しさに甘えなさい。それが、私からの「命令」だよ。
どうか、そちらでも変わらぬ春風が吹いていますように。
均智央 拝
封筒には杏の花びらが同封されていました。