飛んで火に入る夏の虫
「久しぶりだね、常盤。それとそっちは……誠司だね」
紫苑の車が見えなくなった頃、若葉が閉めた扉に寄りかかって声をかけてきた。少しだけ気まずそうに見えるのは、険悪な関係を人様に見せる結果になってしまったからかもしれない。
改めて若葉に向き合った常盤は密やかに息を詰めた。元々少女めいた風貌を引き立たせるような線の細い体格をしていたが、最後に見た時よりも随分と痩せた気がする。肉が落ちて骨が目立っている様は痛々しい。薄く化粧をして誤魔化しているのだろうが顔色も悪く、目の下のクマや血色の悪い頬に心配と不安が掻き立てられる。
いったい彼に何があったのかと、萌葱に視線で問う。ひどく泣きそうな顔をして首を振られた。
萌葱の顔色や体格は以前と変わっていない。寧ろ、女性らしくなった。悪い方向に変わってしまったのは若葉だけで、原因が家族にもわかっていない状況に何と返事をするべきか常盤は言葉を選びあぐねた。
その間に、周囲の観察を満足にし終えたらしい誠司が若葉に近づいていく。
「……覚えているのか?」
それはおかしな問いかけだった。誠司と若葉の付き合いは長い。何せふたりの仲を取り持ったのは常盤だ。たまたま講義で近くの席に座った男が気のいいやつだったのだと、まだ友達だった誠司に常盤が紹介した。塩対応とも言える物言いも多い若葉は柔軟な性格をしていたから、ふたりはそれなりに仲良くなって、常盤も含めて三人――萌葱が後輩として進学してきてからは四人――で行動するようになった。そうそう忘れられるような関係を双方築いていなかったはずである。
頓珍漢とも言える発言に若葉は気が抜けたように微笑んだ。
「覚えてるよ。君みたいなやつを忘れるには記憶喪失にでもならないと無理だね。飾ることを知らない歯に衣着せぬ物言い。好奇心に素直で空気を読まない性格。常盤と友達じゃなければ一生関わりがなかっただろうから」
「君の毒舌も変わらないな」
「毒舌じゃなくて事実ね。そこ、間違えないでよ」
誠司の減らぬ口にもきちんと訂正を加える若葉の姿は大学時代に幾度となく見たものと変わらない。
心中に積もる気掛かりを振り払い、常盤は未だ泣きそうな顔をしたままの萌葱の頭を一度撫でるとふたりに近づいた。
間近で見る若葉の見た目は遠目で見た時よりずっと悪い。しかし、それを口に出して指摘するのも尋ねるのも再会直後には相応しくないのではと躊躇われて、常盤は口をついて出そうになる気遣いの言葉を必死で飲み込んだ。
代わりに、それほど訊いても不自然ではなさそうなところから攻めることにする。
「久しぶり。さっきの彼とは知り合い……なんだよな?ずいぶんと険悪そうだったが」
「まあ、知り合いだね。それがどうかした?」
若葉は苦い物でも食べたかのように顔をしかめて言いにくそうに視線を逸らしながら、それでも当たり障りなく早口で答えてくれた。どうやらあしらってうやむやにしようとは考えていないらしい。
それならば、と常盤は瞬時に脳内で質問しても良さそうなラインをピックアップする。あまり豪速球を投げて意固地になられては困るので、横から口を挟もうとした誠司を目で制するのも忘れない。
「どうもしないさ。ただ、紫苑と何かあったのかと思っただけだ。たまたま駅で困っていたところを拾ってくれたうえにここまで送ってくれたから、優しいやつだろうと判断したんだが……間違ってたかな?」
「……ううん、概ね君の認識で間違ってない。優しいかはともかく、いいやつだよ」
どう説明しようか。そう言って数瞬黙った若葉が萌葱を見る。心得たように萌葱が頷き、口を開いた。
「紫苑はさ、困ってるやつを放っておけないし、誰とでも仲良くなりたがるんだ。親しいやつにはどこまでも心を砕いて力になりたがる癖もあるな。ほんと、何でそこまでできるんだろうって思っちゃうぐらい、いいやつなんだ」
「へ、へえ、そうなんだな。ええと、でも、じゃあさっきのはなんだったんだ?」
怒涛のようにまくし立てられる紫苑の長所に常盤は身を退け反らせながらも当然の如く湧き上がった疑問を口にする。
さっと兄妹揃って視線を逸らされた。
「若葉?萌葱?」
「あれは………まあ、僕が、納得できてないだけかな。紫苑がどうにも頑固で口を割らないから拗れちゃったのもあるけど」
「そうか、喧嘩か」
「誠司!」
「……っ、君は乱暴だな」
相手の心情など考慮せず、あっさりと一語で片付けた誠司の頭を常盤は背伸びをしてしばいた。その拍子に掛けていた眼鏡が落下したが、チェーンが付いていたので事なきを得ている。
「そう言われると身も蓋もないけど、うん。喧嘩と言えば喧嘩かな。この年で年下相手にみっともないでしょ」
苦い声で不甲斐なさを吐露した若葉が頬を掻いた。もう一押しかと踏んだらしい誠司が懲りることなく何か言い掛けたのを察して常盤は「じゃあ」と声をあげる。
三対の視線が飛んできた。それに怯みつつも、去り際の紫苑の言葉を思い出してそんな場合じゃないと己を奮い立たせる。
「紫苑は僕に、この館は人の手に余ると言ったんだ。此処には何かあるのか?見たところおかしな点はない。だが、言いがかりでもないだろう。あれは、何か根拠がある人間の物言いだった。若葉。君たちの間に何があったかは聞かない。ただ僕たちにできることがあるのなら、教えて欲しいだけなんだ。三人寄れば文殊の知恵とも言うだろう?」
「え、ええ……?そこまで深刻にならなくていいんだけど。そうだね、気持ちだけ受け取ろうかな。でも」
束の間躊躇った後、諦めたように若葉が紫苑の去って行った方向を見据えた。その目に揺れる感情は複雑すぎて、常盤には彼が何を感じているのかを推し量ることができなかった。
「紫苑は常盤にもそんなことを言ったんだね」
視線を彼方へ馳せたまま、若葉が苦笑した。重い口調だった。彼の話す決意が鈍らないように、常盤は静かに耳を傾ける。ついでに茶々を挟みかねない誠司を牽制することも忘れない。
「あのさ、僕も紫苑が嘘を言っているとは思ってないんだ。あいつは良い子だから、人を傷つける真実は口にしても、傷つける嘘は言わない。そんなのは僕が一番に知ってる。でも、理解もできない。この館におかしな点や特別な点は何もないのに、紫苑のお祖父さんは館を売れと言ってきた。幽霊も座敷童も何も出ない。曰くもない。何度もそう言っているんだけどね。そうしたら今度は紫苑が居もしない兎を譲れと言ってきたんだ。意味がわからないでしょ」
頭がおかしくなりそうだ、と。若葉がぼやいた。興味深そうに聞いていた誠司が首を傾げる。
「喧嘩の原因はそれか?」
喧嘩にしてはなかなか身勝手な要求が入っていた気がするが、あくまでそれで押し通すつもりらしい。
強引な誠司には若葉も慣れているため、それでいいよとばかりに頷いた。
「理由のひとつではあるかな。祖父の遺したものを強請られているみたいで気分は最悪だしね。あとは、まあ」
さがしおわってないし。
そう若葉の唇が音もなく紡いだ。
同時に奇妙な音が常盤の耳を打つ。
「………………え?」
それは、高く甘い音に聞こえた。耳を劈くことこそないが、穏やかな音色とも言い難い。物で例えるならば、腐った死肉から漂う甘い腐敗臭のような、そんな音だ。吐き気を催すほど不快感を覚えるのに、一方でいつまでも聞いていたくなるような、不思議で悲痛な歌声。
――そう、それは歌だった。
言葉にもならない、音階も何もない不協和音だったが、確かに歌だと常盤は感じた。やがてその歌は、最後にはっきりと「探さないで」と言葉を残して消え去った。
最後の声だけが、澄んだテノールで心地よかった。
「………………っ」
奇怪で理解しがたい現象に見舞われた常盤は口元を手で覆った。フラッシュバックした光景が、片時も忘れたことのない記憶が、常盤の精神を蝕んでいく。
似ている。今の現象は、あの日を彷彿とさせるものだった。
紫苑の忠告が蘇る。彼は、何と言った。館は手に余る以外にも、此処は敵地だと言わなかったか。
それがかつて常盤の体験したことに類似するものであるならば、その渦中に今晒されているのは若葉なのか萌葱なのか。
どちらであったとしても、事態は予想以上に逼迫している。
顔面を蒼白に染め上げた常盤に気付いたのか、誠司が瞳を眇めた。
「誠司。後で話す」
その腕を掴んで、常盤は彼を睨み付けた。非常に不本意だが、この男がいて良かったと心の底から思う。思ってしまう自分を嫌悪する。
「常盤?顔色が悪いけど大丈夫?」
「ほんとだ!なあ、兄さん。早くふたりに上がってもらおうよ。話なら中でしよう?な?」
若葉と萌葱も常盤の顔色に気づいたのか、慌てた様子で玄関を開けた。
「宿とかは取ってない?取ってたら連絡しとくけど」
「日帰りの予定だったから構わない」
いけしゃあしゃあと野宿を提案していた誠司が嘘をつく。面の皮の厚さもここまでくると尊敬の域に達しているのに本人だけが気づいていない。
萌葱の手を借りながら玄関を潜った常盤は若葉を見上げた。人の心配をしていられるような状態ではないだろうに、柔らかで優しい輝きを帯びた眼差しはひたすら常盤のことを労ってくれている。
「…………すまない」
封筒の件など全てを話していないことによって募る後ろめたさに襲われた常盤は謝罪を落とした。若葉が首を横に振る。
「気にしないでいいよ。寧ろ久しぶりに会えたんだ。今日だけとは言わずに、何なら都合の良い日まで泊ってくれていいからね」
それは、体調不良を起こした常盤が気にしなくて済むようにという親切から出された提案だったのだろう。
しかし常盤には、助けて、という叫び声に聞こえた。
そうであってほしいと、思ってしまった。