掛け違えたボタン
山頂に建つ館は、ペンションと呼ぶにふさわしい外観をしていた。それなりに年季が入っているのか、白塗りの壁はところどころくすんでいる。周囲に植えられた木や植物は手入れがされているものの、生活感があるとはとても思えない。
だが、人が住んでいる証拠に、一階の窓には明かりが灯っていた。
「ついたよ」
駐車スペースと思しきスペースに車を停めた紫苑が窓越しに館を見上げた。
「ここが、新橋の家か」
「…………いや、なんというべきか……想像以上にでかいな。ふたり暮らし?にしては広すぎるだろう」
「まあ新橋兄妹はお祖父さんが亡くなった後に移り住んだだけだからね、そのあたりどう思ってるのかは何とも。お手伝いさんを呼ぼうにも交通の便が悪いし、諦めているだけだと思うけどさ」
何でもない世間話をするようにそう言って、ふたりにも降りるように仕草で促しながらひと足先に車から降りた紫苑がぐっと伸びをする。それなりの時間運転をしていたから身体が強張っているのだろう。開放感に満ちあふれた様子が微笑ましくて、常盤の頬が綻んだ。見られたのが気恥ずかしかったのか、ほんの少し照れた様子で頭を掻いた紫苑がさっと視線を館の入り口に向ける。
「僕のことはいいからさ、さっそくインターホンを鳴らそう。明かりが点いてるし、兄妹のどっちかはいるはず、」
「……いや、その必要はないみたいだ」
紫苑の言葉を遮って、誠司がぽつりと呟く。その瞬間、車を停車させた音を聞きつけていたのか、館の扉が開いた。
中から出てきたのは、記憶にあるよりも幾分大人びた風貌になった青年と少女だった。客が訪れるには中途半端な時間帯だったせいもあり、少女の方はおどおどとした雰囲気で青年の後ろから様子を窺おうとしている。青年の方も不信感を抱いているようで、一目で整っているとわかる顔立ちに不思議そうな表情を浮かべていた。それが、ある一点を捉えて顔を強張らせる。
「紫苑。もう君には来ないでほしいって言ったはずだけど」
硬い声で青年が紫苑を非難する。聞いているだけの常盤ですら身がすくむほどの侮蔑が感じられる声色だったが、それを向けられた張本人である紫苑は飄々《ひょうひょう》とした態度を崩さない。
「そう警戒しないでほしいな。単なる案内だからすぐに帰るよ?」
むしろ、応戦するかのように言葉の端々に敵意を閃かせている気がする。
頭が痛いと言わんばかりに青年が眉間にしわを寄せた。心底うんざりした溜息つきである。
「……そう。それはよかった」
「それよりさ、じいちゃんのお願いを断ったみたいだけど考えを変える気はない?僕のお願いを叶えるでもいいよ。僕としてはどっちでもいいからさ」
「あるわけないでしょ。ここは正式な手順を踏んで相続したんだ。それに、君の要求も意味がわからない。一応調べてはみたけど、この館で兎は一度も飼われていない」
「そっか。それが若葉の答えならそう言うことにしておいてあげるよ」
バチバチと見えない火花が両者の間に飛び散った。奇妙に噛み合わないやり取りがふたりの微妙な距離感を表している。
常盤は誠司の背中を叩いた。息をするのも憚られるこの空気をどうにかしてほしくて、今こそ空気を読まずに行動しろと無言で訴える。
しかしその思いは誠司には通じなかった。彼はこの立ち込める緊迫感をつゆほども気にしないで、周囲の観察を続けている。
事態を動かしたのは、青年の後ろに隠れていた少女だった。彼女は物凄く困った顔をして、助けを求めるように誠司と常盤に視線を投げてきた。懐かしい姿につい小さく手を振ってしまった常盤を見て、その大きな目がきょとりと瞬く。次の瞬間、驚いたように見開かれた。
「と、常盤さん!?」
ひっくり返った声で常盤の名を紡いで、うわあ、と喜色満面に飛び出してくる。
「ひ、久しぶりだな!なんで紫苑なんかと一緒にいるんだ?」
「なんかってさすがに酷くない?」
「あたしたちに会いにきたのか?でもどうして?ここにいるって知らなかっただろ?」
「聞いてないし……」
テンション高くまくし立てる少女――萌葱は合間に挟まる紫苑の突っ込みを華麗にスルーして常盤の前まで来ると手をぎゅっと握ってきた。華奢で柔らかな感触が、ペンだこで硬くなった皮膚を優しく包み込む。
「えっと、萌葱の疑問に答えるためにも家にあげてもらえると嬉しいんだけど」
「いいぞ!……いいよな、兄さん」
満面の笑顔で即答した萌葱が青年――若葉にお伺いを立てる。ちらりと若葉が紫苑を見た。視線を受けた彼は「はいはい」と降参の意を示しながら踵を返すと車に乗り込んだ。
若葉は特に引き留めるそぶりなどは見せず、寧ろ帰ってくれることにほっとした様子で肩を下ろしている。
「あっ、ちょ、紫苑!」
慌てて常盤は紫苑を呼び止めた。窓ガラスが下りて、紫苑が首を傾げる。
「どうしたの?僕に聞きたいことでもあった?」
「…………っ」
それは、作り物めいた綺麗な笑顔だった。精巧すぎて近寄りがたい人形のように微笑む紫苑に常盤は絶句する。
聞きたいことは山ほどあった。新橋兄妹とどう言う関係だとか、自分たちに頼む前に兎についての問答は終わっていたんじゃないのかとか、そもそもなぜ見ず知らずの他人にここまで親切にしてくれたんだとか。
だが、そのどれも、聞き出せる雰囲気ではない。間違いなく火に油を注ぐ結果になると、第六感が忠告してくる。
結局、常盤は握った拳を解いて笑みを返すにとどめた。へにゃりと情けなく垂れたであろう眉だけが、常盤のやるせなさを如実に象徴していた。
「……いや、何でもないよ。ここまで送ってくれてありがとう」
「お礼を言われることじゃないって」
からりと紫苑が笑った。先ほどまでの貼り付けたような笑みではなく、道中幾度となく見せてくれた年相応の笑顔だ。
「それでも、だ」
感謝の意を込めて常盤は言い切った。
実際、紫苑に助けられたのは確かである。彼がいなければ山頂に辿り着くのは深夜も超えていただろうし、こうして館に住むのが知り合いだと気づくこともなかった。
大真面目な常盤に紫苑は虚をつかれたようだった。頼りなく瞳が震え、伏せられる。
「………………兎は、いるんだ」
微かな囁きがその唇から零れた。新橋兄妹に聞かれると困るのか、耳を澄ましていなければ聞き逃してしまいそうなほどとても小さな囁きだった。
「白くて赤い目をした、寂しがりの兎。過ちを犯す前に、僕が友達にならないといけないんだ」
「それは、」
「忘れないで。ふたりは今、敵地にいるってこと。この館は、人の手に余るんだ」
強い語調でそう言った紫苑は、急に常盤たちから興味を失ったような顔をして車を出した。
遠ざかる排気音と車体に、そうして残された意味ありげな警告に常盤は惚けるしかなかった。
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