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幕間 side若葉

「どれくらい昔かと言えば、理性的でなく感情に振り回される生き物だった頃の……要するに、小学生の時分だ」

 

 しとしとと、繊細な歌声を奏でる雨をBGMにして常盤が重たい口を開いた。遠くをぼんやりと見つめる彼女は寂しげな雰囲気を隠しもせず、哀愁を帯びた目を伏せる。

 今日も常盤は、男性的な様相だ。口調も服装も、仕草ひとつとっても女性を感じさせる要素を排している。


 出会った頃からそうだったと、若葉は常盤との出会いをつい最近のことのように思い出す。

 常盤のことは、顔を合わせる前から知っていた。曰く、オカルトサークルに所属する男装の麗人。専門分野においては非常に博識で天才肌。優れた感性を持ち、共感能力が高い。

 学内でも指折りの有名人だった彼女のそう言った噂は尾鰭背鰭を盛大につけながら耳に入った。


 そんな常盤と若葉の初めましては、偶然の重なりが作り上げた。

 たまたま同じ講義を受講して、たまたま席が近かった。誰に対しても気さくな常盤は、例に漏れず若葉にも声をかけて友達になろうと手を差し出した。

 それっぽっちの、よくある出会いだ。何も特別なところなどない、普通の出会い。


 交流を重ねるにつれ、他愛のない話を幾つもした。

 家族の話。高校時代の話。バイトの話。地元の話。

 勿論、話さなかったこともある。お互いに出会って一年にも満たない関係性で胸の内全てを明かせるほど無邪気な性格をしていなかった。


 当然、簡単に割れてしまうであろう薄氷に踏み込むこともしなかった。


 山吹常盤の根幹に関わる話題について物怖じせず触れたのは、恐らく誠司だけだ。誰にも屈せず生きる彼だけが、我欲に従って常盤の心を土足で踏み荒らした。

 逆鱗に触れたその末路が関係性の断絶だったのを考えると、静観を選んだ若葉と変化を望んだ誠司のどちらの判断が正しかったのかはわからないが。


 それでも、あの時、誠司は常盤を形作る源泉を問い質した。

 そして、今になって常盤は約束を盾にした萌葱へ応えようとしている。


「当時の僕は、とにかくモノが怖かった。簡単に異界に招いてけたけたと嗤い、恐怖を煽って涙を啜る奴らが恐ろしくて仕方なかった。たまに優しい奴もいたけど、それでも対抗手段を持たない僕は、本当に怖かったんだ」


 怖い。凡そ常盤には似合わない単語を若葉は口の中で噛み砕く。彼女をよく知る誠司と萌葱も怪訝そうな顔をした。さして付き合いの長くない紫苑は若葉たちの反応に戸惑いを覚えたらしく、君はわかるかなとでも言いたげな視線を真白へと滑らせる。


 若葉は苦笑した。自身が昏睡状態に陥っていたあの館での騒動の最中、常盤と真白は行動を共にしていたと聞く。萌葱に憑いた憑き物(トウビョウ)と相対した時も傍にいたという。紫苑よりも真白の方が常盤のことを知っているのは道理だ。


 神隠し騒動の最中、真白は常盤の信念を垣間見たはずだ。

 モノを恐れず、怪異にも心を砕き、手を差し伸べる高潔な精神性を目の当たりにしたはずだ。


 しかし、だからと言って真白が若葉たちと同じくらい明瞭な輪郭で常盤の本質を掴めているとも思えない。彼が常盤と共にあったのは、年単位の付き合いに比べたら瞬きにも満たない時間だ。濃い時間ではあっただろうが、それでも理解したと言い切るには些か心許ない。


 だから、真白が紫苑に答えを示せるはずがなかった。

 モノが怖かったのだと告白するその意外性を、紫苑に説けるはずがなかった。


「君はモノの善性を信じているだろう。恐怖から信頼へ転じるほど価値観を揺るがす経験があったのか」


 この場で最も常盤と相容れない感性の持ち主が興味深げに若葉たちが抱いた違和をゆるりと切り出す。そこには侮蔑も驚愕もない。息をすることすら躊躇われる純度の高い関心だけが切々と込められている。


 常盤が伏せていた目を上げた。信じられないものを見る目で誠司を凝視する。


「…………よもや、お前は僕の言ったことを忘れたのか?」

「『今から話す内容に、一言でも感想を漏らしたなら殺されると肝に銘じろ』だったか」

「覚えているなら口を噤め、遠慮しろ馬鹿」


 軽快な悪口を叩きつけた常盤がこめかみを揉んだ。萌葱が気まずそうに若葉へと視線を寄越す。

 その意味がわからないほど愚鈍になれなかった若葉は無意味に手元のカップを揺らした。


 故意か、無意識か。判断はしかねるが、先ほどから常盤の物言いが奇妙に捩れている。語彙力は衰えず、テンポも変わらず、ただ吐き出される言の葉だけが違う。


 まるで、そう。尻尾を掴まれた狐のようだ。葉を失った狸が惑い正体を明かしたが如く、おざなりな模倣と化した仮面の下から若葉たちの知らない常盤がひょっこりと顔を覗かせている。


「話を戻す。――僕は、ある日、運命に出会った」

「……運命?」

「ああ。優しく、強く、眩しい人だった。僕のために全てを投げ打ってしまうような、誰かの真似事ばかりをしているような、そんな道化だったけど……月みたいな、と称するに相応しい人だったけど、今でも僕にとっての一等星(みちしるべ)なんだ」


 ひどく懐かしそうに語る常盤の声は幸福に濡れている。戻らない栄華に手を伸ばし、枯渇した心の苗床を潤そうとする様相に若葉はぽかんと大口を開けて呆けた。


 知らない。これほどまでに恍惚と誰かを偲ぶ常盤を、若葉は知らない。他人を指針に道を征くなど、らしくないとさえ思ってしまう。


 だが、これこそが常盤なのだと、固唾を呑んだのも本当だった。


「白い街を、お前たちは知っているか?」


 最果ての街。空も建物も全てが白く染め上げられた、神の箱庭。

 歌うように紡がれる説明を聞いた萌葱が皆を代表するように首を振った。

 だろうな、とわかりきったふうに常盤が笑う。


「知らない方がいい。あそこは、たぶん欠けたる者たちの行き着く場所だ。未練と執着を棄てる墓場で、愛を証明する鳥籠だった」

「………………君は、行って、帰れたんだね」

「帰す、と。運命が約束してくれたからな」

「じゃあ、その人には感謝しないとね。おかげで、僕は――僕たちは、君に出会えたんだから」


 常盤に感じる違和も惑いも全てを封じ込め、万感の思いだけを若葉は伝える。ぱちり、と常盤が一度大きく瞬いた。それから、泣きそうに破顔する。


「……ありがとう。お前のそう言うところが僕は嫌いじゃない」

「ん」


 君が嫌いな人なんてひとりもいないだろう、などと無粋なことは言わない。触れたら途端に頽れてしまいそうな今の彼女には、軽い相槌で十分だ。

 

 冷めた珈琲を口に含んで、カップを机に戻す。未だ忘れられない面影を追う常盤を前に、湿らせた唇が痛んだ。


「君の出会った運命は、モノだったんだね」


 血を吐くような思いで若葉は声を絞り出す。


 かつて、モノが怖かったのだと告白した常盤。しかし、現在の彼女は誰よりもモノの善性を信じている。彼らにも心があると高らかに主張して、その願いを満たせば穏便にことを済ませられると主張する。確かにそこにいて息をしているのだと、同列に扱おうとする。


 昔と今の転換期になったのがその運命で、それがモノであったとするならば、善なるモノの存在を信じるのも納得がいた。

 

 だが、意外なことに常盤は少々困ったふうに眉根を寄せた。肯定を避ける仕草に意表をつかれた若葉は言葉に窮する。おかしげに紫苑が口を開いた。


「違うんだ?」

「いや、違うこともない、が……説明が難しいな」


 歯切れ悪く答えた常盤が視線を彷徨かせた。モノ、モノ?とニュアンスを変えながら同じ二音を転がす姿に萌葱が居心地悪そうに身じろぐ。開いては閉じてを繰り返す口元が彼女の気持ちを如実に表していた。


「半人半妖か?」


 悩む常盤を一切気遣わず、飄々(ひょうひょう)とした振る舞いを貫きながらもどこか結論を急くように誠司が疑問を投げかける。先の罵倒は些かも彼を堪えさせなかったようで、効果のなさを実感した常盤の目が半眼になった。

 

「……誠司。僕はお前に口を挟むなと言った。次はない」


 低く地を這う声がにべもなく誠司をあしらおうとする。対する誠司は憎らしいほど涼しい表情で目元に薄く笑みを忍ばせた。

 

「ならば先を続けろ。君の話を聞けば自ずと疑問は解消される」

「お前な……」


 それは至極真っ当で建設的な意見だった。いの一番に話の腰を折った張本人が言ったのでなければ、常盤とて素直に受け止められただろう。


 微妙な空気が場を満たす。旧知の掛け合いに慣れない紫苑が居心地悪そうに真白を抱え直した。

 白い体毛を無意味に滑る指を甘んじて受け止める彼はこの状況に何を思っているのだろうかと、ふとそんなどうでもいい疑問が頭を過った。


 この場で唯一モノである兎は、人語を解しても()ることはできない。名を与えられても大元から切り離された欠片のようなものに変わりはないからだと紫苑は説明してくれたが、意思ある存在の考えを共有してもらうことができないのは不便なものである。


「…………まあいい。とにかく、白い街で僕が出会ったその人は、幼い僕の手を引いて必要な場所を巡ってくれたんだ」


 最初は、と常盤が目を伏せる。

 ゆったりとした口調に話が軌道修正されたことを察した若葉は居住まいを正すと今度こそ彼女の話にしっかりと耳を傾けた。

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