胡蝶の夢② sideルナ
市営バスを出て暫く。足元に石や段差がないか注意深く確認しながらゆっくりと歩いていたルナは、まろぶようについてくる幼子――ステラを見やった。名前も過去も覚束ない彼を慮ってのことである。
しかし、ステラはルナが想像するよりずっと図太い神経の持ち主だった。知らない街並みに慄くでもなく、星屑を散りばめた双眸を輝かせていた。見える光景全てが真新しく映っているのだろう。あちこち視線を馳せて小さな歓声を上げているのが愛らしい。
時折ステラは何故何期の赤子の如く、あれは何だと尋ねてきた。関心を惹いた物を空いた手で指し示して教えてくれと問いを重ねた。
単調で根気のいるそれに、ルナはひとつひとつ付き合った。解を与え、解説し、満足そうに感嘆するステラを見られるだけで、問答の時間が非常に有意義なものに思えたからだ。
特別子どもが好きなわけではない。却って甲高い声も、無垢故の無知も、傲慢な全能感も嫌いだ。仮にステラ以外から同じことをされたなら、煩わしさしか感じなかっただろうと断じられる。
だが、今ルナと一緒にいるのはステラだ。金糸雀の声も、飽くなき探究心も、無防備な信頼も、何もかも苦になるはずがない。
ステラの喜びがルナの喜びで、ステラの悲しみがルナの悲しみだ。
彼が笑っている限り、ルナが負の感情を抱くことはきっとない。
「ルナ、どうしてあのバスだけ特別なんだ?」
一通り景色を堪能し終えたステラが徐ろに後方を振り返る。その視線を追ったルナは膝を折ってステラの肩を抱き寄せた。抵抗もなくもたれかかってきた小さな身体が応えるように手を伸ばし、抱擁を返す。背中越しにぎゅっとパーカーを握られる感触が伝わった。
いじらしい反応に、ふふっと笑声を立ててしまう。
「バスだけではないのだけどね。まあ、強いて言うならステラくんの記憶が創ったものだから、かな」
「オレの?」
「君の」
訝るステラに、そうだねえとルナはお粥みたいな歯応えのない言葉を探す。
ステラは幼い。聡明さや善良さは持っていても、難解な語を噛み砕ける明敏さは備えていない。
せめて同い年くらいであったならと詮無いことを思いつつ、ルナはまろやかな頬に頭を擦り付けた。くすぐったそうにステラが笑う。鈴を転がしたような耳心地の良い笑い声に気分が高揚する。
ふわふわと、浮かれている。一滴もアルコールを飲んでいないのに、とっくに酩酊状態だ。
「あれもこの街のものじゃないから」
結局のところ、スポンジみたいになった頭で考えに考えて出た言葉は、お粥どころか水だった。さりとて嘘というわけでもなく、全くの真実なのだから我ながらタチが悪いとルナは苦虫を噛み潰す。
案の定そのまま受け取ったステラが考え込んだ。年相応の中身しか詰まっていない脳では考えても答えが出るはずもないのだが、それをステラが知る由もない。
うんうんと唸りながら頭を悩ませる姿にルナは心を和ませる。
この街は歪だ。八百万信仰で力を得た気まぐれな神が創造した、限りなく地に近い場所である。招かれなければ決して入れず、選択を見せなければ出ることも叶わない。
ルナより先に遊戯をふっかけられた少女は、いつもさめざめと泣いていた。こんな運命呪ってやる、と愛を歌った唇で呪詛を吐き散らしていた。ある時を境に姿を見ていないと言うことは、しっかり選択を示したのだろうが、どうせならそこで終わらせて欲しかったと言うのが本音だ。
ステラに会えたことを後悔してはいない。寧ろ、会えてよかったと思っている。一緒に幸せになりたいと、叶わない夢を抱くほどに。
その一方で、我欲の蔓延る街から早く出してあげたいとも思うのだ。
どちらも本当の気持ちで、同じ大きさで共存している。
悩むステラから視線を外し、穢れと無縁の白で創られたハリボテの街を見渡す。空虚な街だ。外観ばかりが立派で中身が伴っていない。神の意思が其処彼処に撒き散らかされている。
底無しの欲に塗れた形ばかりが美しい箱庭で、ステラだけがルナの慰めだった。
「よくわからんが……カラフルな方が楽しいのに」
ぽつ、と残念そうにステラが言う。
擦り寄せた頭を離して顔を覗き込めば、露骨に機嫌を損ねていた。ふっくらとした頬は膨らんでいるし、好奇心に輝いていた様子は鳴りを潜め、興味深げだった眼差しは不満に揺れている。つんと上向いた唇も心なしか尖っていた。
「ステラくん」
拗ねる彼の頬を人差し指でつつく。もちもちと弾力に富んだ至上の触り心地に相好がくずれた。ベルベットも天鵞絨も絹も及ばない、ルナだけが触れられる不可侵の神域に情は深まるばかりだ。
「この街は嫌いかい?」
吐息と共に問いかける。肯定が返ったなら、街を、箱庭を壊してもいいと――どうにか手段を講じて彼の望み通りカラフルに染め上げてもいいと本気で考えていた。
螺子をいくつも無くした思考回路に気付けないほどルナは真剣だった。
出会って三十分も経っていない相手の空恐ろしい考えをつゆほども察していないステラは溢れんばかりに目を見開いた。次いで、ふるふると首を横に振る。
「好きだぞ。ルナはもっと好きだ」
整合性なくあっけらかんと手渡された直球の愛に、ルナは呻いた。ルナが抱く想いとは真逆の、純粋な愛だ。
子どもは突飛で単純な生き物だとわかっていても、こうも不意打ちで純度の高い好意を向けられるのは心臓に悪すぎる。せめて一言、予告がほしい。それが無理ならいきなり予測不可能な球を投げないでほしかった。
行き場のない感情を持て余したルナはそっとステラの体を離した。きょとんとステラが立ち尽くす。そのあどけなさにルナの心臓が騒めく。
この状況に相応しいかけるべき言の葉があるはずなのだが、何も思い浮かばない。形にした途端、彼への想い全てを失ってしまいそうで恐ろしさが舌の根を凍り付かせる。
――それでも、一言でいいから、返したい。
目を合わせるでもなく沈思黙考するルナに、返事が欲しかったらしいステラが焦れた顔をした。
「ルナ?信じてないのか?嘘じゃない、オレはお前が好きなんだ」
容赦のない追撃がルナを襲った。ステラにとっては誰にでも捧げられる贈り物でも、ルナにとってはとんだ劇薬なのだ。その小さな身から差し出された好きは、とっくに致死量を超えている。
まこと幼い子どもは悪魔だと、ルナはステラの額に己の額を当てて嘆息した。そのまま体感五秒ほど過ごして、額を離す。甘ったるいべっこう飴の如き無邪気な目が今だけは少しばかり恨めしい。
「…………ああもう、君は僕をどうしたいんだろうね?」
「え……どう、と言うなら、そりゃあ好きになってほしいが」
好きに好きが返されないのは悲しいと衒いもなくステラが嘆く。嘆いてから、あれ、と目を瞬かせた。
「オレ、兄弟がいた気がする」
「……そう」
「たぶん下だ。弟か妹かはわからないけど、うん、オレはいいお兄ちゃんだった」
「そうだね。君はきっと、いいお兄さんだったとも」
脈絡のない発言にルナは適当な相槌を打つ。
自分以外の何者かに思いを馳せるステラの眼差しは、妙に大人びていて落ち着かない。ルナだけを頼りに林檎の頬をゆるゆるとさせて子どもらしく笑う姿の方が好ましい。
「そうだろうそうだろう!オレは世界で一番いいお兄ちゃんだ!」
ステラは全く気づいていないが、時間が経つほどにどんどんと口調も言葉選びもしっかりしだしている。その変化を間近で体感しているルナの心の中に一抹の寂しさが降り積もっているのも彼は知らないだろう。
無視するには存在感が強く、認めるには醜すぎる利己的な感情を気取られたくないルナの努力が実を結んでいる証明でもあったが。
ままならない感情を御すのに手一杯なルナを見上げたステラが「ルナは」と声を弾ませる。
「ルナは兄だな。弟みたいな兄だ」
「……それは複雑だなあ。なんで弟みたいなんだい?そんなに頼りないかな?」
「いや、だって、ルナは甘えられるだろう?」
「君は甘えられないの?」
「お兄ちゃんだからな」
そんな気がする、と言うだけだろうに、もはやステラの中では己が兄だと言うのが真実らしい。ふふん、という効果音が聞こえそうなほど自慢げに胸を張っている。
――それは本当に自身の有り様を誇ってのことだったのだろうが、ルナは素直に褒めてあげられなかった。
ステラは年端もいかない子どもだ。大人に甘え、甘やかされ、目一杯愛されて育てられるべき存在だ。
それなのに、兄だから甘えられないのだと肯定する。偉いだろうと自慢する。
なんて悲しいことだろう。ステラの喜びがルナの喜びとはいえ、到底容認できることではなかった。
「僕には甘えてほしいな」
だから、ルナはお願いを口にした。彼が惜しみなく注いでくれる愛と同じだけの愛を与えたかった。
こてんと首を傾げて覗き込んだルナに、ステラがぱっと表情を明るくする。
「ほら、やっぱり甘え上手だ!」
「うん。そうだよ、僕は甘え上手だ。だから、ね?いいだろう?僕に甘えて、僕を甘やかしておくれよ」
青年が子どもにするには奇矯な接し方でルナは此処ぞとばかりに畳み掛けた。その私欲に塗れた要求に、ステラは嬉しげな笑みを深めて頷いた。
「わかった!難しいが、ええと、そう、ぜんしょする!」
「……良いお返事なところ悪いけど、ステラくん、それは遠回しの否定だからね?」
「え」
苦笑いを浮かべつつしたルナの指摘が予想外だったのか、ステラが音を立てて固まった。しまった、と顔にわかりやすく書いてあるものだから、思わず吹き出してしまう。
恐らくそれっぽい場面で聞き齧っただけの言葉を意味も知らずに使ったのだろう。
子どもは覚えたてのあれこれを何でもかんでも披露したがるものだ。
悪気なく要望を却下したステラがおろおろする。その体をルナは抱き上げた。羽毛のように、とはいかないまでも、軽い重みが腕にかかる。
命の重みが、ぬくもりが、ルナの腕の中にある。
「まあいいや。僕は君が僕のお願いを無碍にしないのを知っているからね」
「?」
「僕も君が好きだよ、ってこと。君を大切にしたいんだ」
「そうか!」
わざとらしく誤魔化されたことも一身に浴びる好意の重さも知らず、心底嬉しそうにステラが破顔する。
咲き誇る大輪の花が自分だけに向けられている優越感に、自然とルナも笑みを湛えていた。