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箱庭の君

「…………なら、もっと詳しく此処の説明をしよう」


 嗚咽(おえつ)する常盤の頭上から、トキの穏やかな声が柔らかに降る。遠慮がちに浸透する慈愛の念に、常盤は視線を上げると涙で朧になった視界を必死に凝らした。


 果たしてトキは、愛おしさを目元に履いた慈母の如き花笑みを咲かせていた。いきなり泣き出されて、一方的に詰られて、それでもそんな顔ができるのかと常盤が呆気に取られるほどにそれは愛だけで構成された笑みだった。

 

 不快に思われても致し方のない態度を取った自覚が常盤にはある。好意に疑心で返すのかと責められてもおかしくなかったと自認している。

 

 しかしトキは、どうか泣かないでと乞うように、顔を上げた常盤の目元を人差し指でひと撫でするだけだ。薄い唇は、文句も言い訳も紡がない。拭われた雫がきらきらと光る指先を見せつけるような真似もしない。


「すまない。それぐらいしか話題がないんだ」


 二の句を告げず茫然とする常盤を真っ直ぐに見つめ返して、トキが自嘲するように言う。皮肉めいた笑みに彩られた口元から目が離せない。一瞬前までのあの花笑みは、無惨にも毟り取られた後だった。


「僕は空っぽで、差し出せるものは何もなくて、あまつさえ察しが悪い。お前の真名を聞かないだけで満足してしまうぐらい頭も足りない」

「そんなこと、」

「ある。……泣かせるつもりは、なかったんだ。すまない」


 再び謝罪が形になる。自らを貶める発言を制そうとする常盤の想いなど微塵も考慮せず、自責を当然だと受け止める姿に瞬間湯沸かし器の如く常盤の(はらわた)が煮え繰り返る。

 

 許されるなら、耳を塞ぎたかった。悪様に己を罵るトキにやめてくれと叫びたかった。常盤の態度が引きずり出した言葉でなければ、如何なる手段を用いてでもその口を封じてしまいたかった。


 油断したら怒鳴り散らかして八つ当たりしそうになる自身を律するために、常盤は深呼吸を繰り返す。

 その様子を見守っていたトキが、落ち着いたのを見計らって口を開いた。


「神道には神域と言う言葉がある。一般的に神社境内を指すと思われがちだが、神が宿る場(依代)も指している。高天原(たかまがはら)を離れた神々は自然の事物や信仰する者たちが用意した物に宿り、その御神体を尊ばれることで神力を蓄えて存在を補強するんだ。依代がある場所を起点に神の(おわ)す異界が創造された結果が境内イコール神域になったと言っても過言じゃない」

「じゃあ、此処も神域?」

「そうだ。理解が早くて助かるよ」


 どこを見渡しても白ばかりが目立つ空間に目を走らせたトキが肩を竦める。意識的に口数を増やしてくれているのか饒舌だ。それを喜びたいのに、常盤の思考はトキの何気ない仕草と説明に急停止してしまった。

 

 もしかしたら、と冷や汗が額に滲む。もしかしたら、この空間のどこかに常盤を攫ってきた神がいるのかもしれない。惑い恐れトキを困らせる常盤の様子を見て、にたりと嫌な笑みを浮かべているのかもしれない。

 

 ぞっとする想像に常盤の肌が粟立つ。(かぶり)を振ることで身の毛がよだつ考えを追い払おうとするが、一度浮かんだそれは脳裏にこびりついて離れない。


「――大丈夫だ」

 

 恐怖に血の気を失くした常盤を見咎めたトキが空いた手を伸ばして頬に添えてくる。手のひらから感じる熱と同じ体温が、蒼白に染まった肌をしきりにあたためようとぬくもりを分け与えてくれる。

 ほうっと無意識に吐息が(こぼ)れた。猫のように目を細めて擦り寄れば、心得たように撫でてくれる。


「先入観を逆手に取り自己の欲求を満たす化身(けしん)と化した()の神は、神と呼ばれた文豪の作品に登場する嫉妬(しっと)深い女神に似ている」

「…………?」

牧童(ぼくどう)に恋した女神は三度(みたび)嫉妬した。男の恋人である女の器量に、機織りの才に、愛を寄せられていることに」


 一方で、と。唐突な切り口に戸惑う常盤を置いてけぼりにしたままトキが愉快そうに声を弾ませた。


「彼の神は嫉妬と共に興味を抱いた。なればこそ、選択を見てみたい、と酔狂な思考に走った。故にお前が招かれた。終幕に辿り着いたとき、僕たちが何を選び、何を捨てるのか見せて欲しいと願われた。この神域(箱庭)は、神の興味を満たすためだけにある遊戯盤だ」


 そう重々しく締め括ったトキにひくりと口の端が動く。肝心要(かんじんかなめ)の説明が見事に端折(はしょ)られた。これは自分で考えるしかないだろう。


 ヒントは先入観だ。それを逆手に取った上で興味を満たす場が此処だということは、人間の抱く神への物語がそのまま御神体と成ったと考えて良いだろう。

 

 即ち、神とは傲慢(ごうまん)で理不尽、やれ試練だやれ愛だと称して矮小な人を振り回すことを良しとする。そう言った側面への信仰(もとい)偏見、或いはそうであれという一種の理想を食い物にして成り立ったのがこの箱庭である、と。


 概要に近しい説明の足りない部分を勝手に脳内補完して導き出した結論だが、まず間違ってはいないはずだ。


「選択は、絶対?」

「ああ、それだけは泣こうが(わめ)こうが避けられない」

 

 選択。つまりは分かれ道。彼の神とやらが用意したというそれが具体的にどのようなもので、どれほど意地の悪い分岐点であるか知る術はない。断言したトキは知っていそうだったが、現時点で仔細を告げないからには今後も(つまび)らかにする予定はないのだろう。問うに落ちず語るに落ちるを期待するのも難しそうだ。


 わかっているのは次の二点。何かに嫉妬した神はそれに関した難題を常盤たちに突きつけようとしていること。

 その果てに、取り返しのつかない、後戻りの利かない決断を迫ろうとしていること。

 

 何もわかっていないに等しい現状を憂いた常盤は、とにかく候補だけでも絞っておくべきだと判断して、現状開示されている情報を頭の中で浚った。

 

「トキ、質問。トキは好いてくれてるの?」


 とりあえずと投げ掛けた問いは、即答されなかった。探るように常盤を覗き込んだ目が、爛々(らんらん)と輝きを放つ。

 

「……恋じゃなく愛であれば是だ」


 しばし間を開けて、トキが答えた。思いの外時間を要したが、虚飾の気配はない。

 

「次の質問。以前いた人も、答えを示したの?」

「さあ、それは僕にもわからない。気がついたらいなくなっていたんだ。別れの言葉もなかったし、そんな言葉を交わす関係でもなかった。いなくなって清々したさ」


 嘘だ、と。根拠もなく常盤は思った。

 どうでも良さそうな口ぶりや感想とは裏腹に、トキはひどく寂しそうだった。いつかいたその人を偲んで揺れる心が手に取るようにわかる。

 それが無性に気に入らなくて、しかし好奇心が刺激されるのも確かで、ほんの少し躊躇ってから常盤はそっと口を開いた。

 

「……どんな人だったの?」

「そう、だな。植物が好きで、よく植物園に足を運んでいた。とりわけセダムの世話を熱心にしていたな」

「セダム?」

「ああ。ラテン語のsedereが由来の花らしい。一度だけ実物を見せてもらったんだが、そのときに地を這う姿から付けられたんだと楽しげに語っていた。小さな星型の花弁を咲かせる花で、可憐な見目とは裏腹に乾燥に強く存外しぶといのだと誇らしげだった」

 

 よほど印象深い出来事だったのか、さして仲良くなかったと匂わせたわりに会話を細かに思い出しながらトキが愉快そうに口元を緩めた。細い髪が、些細な動作で揺れ動く。

 

「今思えば、重ねていたんだろう。あれはそういう男だった」

「重ね……?」

「他より大切にすると言うことは、相応の意味があると言うことだ」


 頬に添えられていた手が離れ、塞ぐ陽光もないのに空へ翳される。眩しそうに細められた目が、ゆるんだ口元が、その相手を知らない常盤にも、かつていた誰かとの時間を彷彿(ほうふつ)とさせた。


「他だと……何と言うか、重かった」

「重い」

「そう、重い」


 突拍子もなく聞こえた言葉を拾った常盤を揶揄(からか)うようにトキが繰り返す。

 

「自分を孤独だと謳って、それでいて悲観的になることもない。なのに名前を呼んでくれたから、笑ってくれたからと、それだけの理由でたったひとりを愛していた」

「……なるほど?」

「納得していなさそうだな。……なら、簡単に言い換える。彼はたったひとりに全てを傾けたんだ。文字通り、彼が持つ全てをだ。それを重いと言わずして何と言う」


 情の形はさまざまだ。強さも、深さも、同じ想いの名を冠していてもひとつとして同じものはない。

 友へ、親へ、他人へ、子へ、顔見知りへ。関係性の数だけ枝分かれして、そこから更に個へ向けるものへと細分化されていく。

 

 本来なら数多の人へ降り注ぐその全てを一個人が背負うのは、流石に荷が勝ちすぎていると言えた。どれだけ鈍感で寛容な人であっても押し潰されてしまうだろう。


 柔らかな愛も、過ぎれば身を滅ぼす毒でしかない。トキの重いという評価も頷けた。


「トキ。その人のそれは、遠くから見れば恋だった?それとも愛だった?」


 女学生のような恋愛談義は好みではないが、常盤と同じく神様とやらに遊戯を吹っかけられたであろうその者の顛末(てんまつ)が気になった。無事に脱出できていたとして、何に嫉妬したかも不明な神にいったいどちらを示したのだろう。

 

 身を乗り出して尋ねた常盤の疑問にトキが眉尻を下げた。


「参考になるかはわからないが……あの男のそれは、遠くから見ても近くから見ても、恋じゃなかった。そも、恋になるはずもないものだった」

「……言い切っちゃうんだ」

「ああ」


 トキも常盤へ向ける情は愛だと言った。常盤から向ける想いも、愛以外になり得ない。

 恋を育むには、時間が足りない。一目惚れするには既視感が邪魔をする。仕組まれた出会いには浪漫の欠片もなく、迷い込んだ遊戯盤の最終局面を思えば現を抜かす余裕も消え去った。


 以前いた男もそういう状態だったのだろうと自己完結した常盤は姿勢を正した。

 あ、とトキが声を上げる。


「星の輝き」

「?」

「セダムの花言葉のひとつだ。あの男はそう言って、笑っていた。とても幸福そうだったよ」


 知ったからと言ってどうにもならない知識を、それでも愛しそうに披露する。悪いことばかりではなかったのだと慰めるように付け足されたその情報がするりと常盤の身の内に浸透した。

 

 その男とトキがどれだけの時間を共有していたのか、語られない部分まで他人が推測することはできない。だが、この箱庭が悲しくつらい記憶ばかりが残っている場所でなくて良かったと素直に微笑めた。


「それにしても不思議」


 握られた手を上下に軽く揺すった常盤はその手を自分の頬に当てる。すっかり溶け合った体温は、ぬるくなってもなお優しい。

 

 反射的に逃げを打とうとしたトキの腕がびくりと震えた。細い髪が振動に揺れ動き、その輪郭(りんかく)を曖昧にする。


 乱暴に振り解くこともできず戸惑いをたぶんに含んだ目が常盤を覗き込んだ。それににこりと笑みを返す。


「思い出とか過去がないって言ったのに、結構軌跡(きせき)とか知識があるんだなって思ったの」

「――」


 瞬間、トキが息を呑んだ。瞬きを忘れた様子に常盤は失敗を悟る。

 

「ごめんなさい。意地悪だったかも」

 

 慌てて直ぐに謝るものの、音にした発言を無かったことにはできない。悔恨の情に常盤は目を伏せた。

 揶揄(やゆ)するつもりはなかった。咎める意図もない。単純に引っかかっただけで、欺かれたと非難したかったわけでもない。それでも吐き出した言葉は吟味せずともトキを責め立てる(やいば)でしかなく、助けようとしてくれている相手に言っていいものではなかった。

 

 もう一度、目を見て謝意を示す常盤に、ゆっくりとトキの首が振られた。

 

「いや、至極当然の疑問だ。その着眼点は褒められて然るべきものだから、気に病まなくていい」

「でも」

「本当に気にしないでくれ。僕の知識はほとんど受け売りで、思い出や過去は此処に関するものだから、話せることがないとしか説明のしようがないだけなんだ。……だから言っただろう?ヒカリを惑わせるだけだって」


 するりと手が解けた。ようやく馴染んできた熱が遠ざかる。

 

 寂しい、と心が泣いた。

 恋しい、と心が叫んだ。

 

 理由もなく突如としてぽっかりと穴が空いた心地に襲われた常盤は、全身を急速に支配する寂寞(せきばく)に耐えきれず胸を押さえて(あえ)いだ。


 手を離されただけだ。熱を失っただけだ。

 たったそれだけで、人肌に慣らされた身体が悲鳴をあげている。


「トキ」


 感情に突き動かされるまま、常盤は両手を広げた。苦しいと声もなく訴える常盤を一瞥したトキが、きつく唇を噛んで抱き寄せる。


 布越しに触れ合った面からじわりと侵食してくる熱が心地よい。充足感に侵されて、寂寞が払拭(ふっしょく)されていく。

 醜態(しゅうたい)を晒したことを恥じつつ、常盤は目を細めた。


 暫くして、そっと身体が離される。常盤が何か口にする前に、自然と手が結ばれた。


「…………僕は、かなり下手だな」

「え?」

「あの男と同じようにしたいと思っていても、どうにも難しい」


 浮かぶ笑みは淡雪のように穏やかなのに、どことなく自虐的な問いかけはぞっとするほど虚ろだ。

 どう言う意味、と常盤は掠れた声で問い返す。夜空を閉じ込めた双眸が、飴玉の如く艶を帯びた。


「忘れないために真似るのと根本的には同じだ。何を喋って、何を好んでいたか。どういう振る舞いをしていたか。あの男が教えてくれたことを繰り返し頭に叩き込むために、人当たりの良さを身につけるために、僕は何度も何度も口にして、数えきれないほど反復練習した。此処について、セダムについて。何を与えて、与えなかったのか考えた。僕のものとして流暢(りゅうちょう)に話せるようになるまで徹底的に。僕の行いとして自然になるまで手を抜いたりはしなかった」


 結んだ手が引かれる。たたらを踏んだ常盤は目と鼻の先にいるトキを仰ぎ見て、言葉を失った。


「理想なんだ。あの男の全てが。お前を大切にしたいから」

「――」

「すまない。そう言われても、困るよな」

「そんな、こと」


 酷い顔で懺悔(ざんげ)するトキに、ない、とは言い切れなかった。事実常盤は困っていたからだ。

 

 何故、男の真似をしているの、とか。

 何故、トキとして話をしてくれないの、とか。

 ――どうしてそこまで心を砕いてくれるの、とか。


 意図を込めて告白が重ねられるたび、(あぶく)の如く次から次へと浮かぶ疑問に常盤は翻弄(ほんろう)されていた。


「……また、困らせているな」


 ふふっと小さくトキが笑う。仄暗い自己嫌悪に彩られた酷い笑みだ。

 慰めてやれ、と理性が囁いた。刹那(せつな)、どうやって、と感情が癇癪(かんしゃく)を起こした。相反するふたつの意見が木霊(こだま)して頭が痛い。

 

 言っていることの半分も理解できていない常盤には、かける言葉が見つからない。何を言ってもトキを傷つける予感がして、何を言わなくても追い詰める気がして、不用意に次の行動を決めることができない。


 半泣きになりながらトキの手を握り返した常盤はふと首を傾げた。そう言えば、といまさらの疑問が浮上する。


「その人の、名前は?」


 特別深い意味はなかった問いかけに、トキが唇を震わせる。

 

「………………さあ、忘れたよ」


 その声は、空言(そらごと)の香りがした。

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