白鳥神社
丹塗りの剥げた鳥居を潜り、二十段ほどの石の階段を常盤と誠司は慎重に登った。決して足場が悪かったわけではない。ただ、昨夜に雨でも降ったのか石がしとどに濡れているのだ。そこそこ急な段差でもあるため、油断すれば滑りそうである。
一歩一歩踏みしめるように歩く二人とは違い、前を行く紫苑は慣れた様子で足取り軽やかに――半ば跳ねるように階段を登っていた。首筋で一つに束ねられた髪が馬の尻尾のように揺れている。
常盤はそっと額に滲んだ汗を拭った。足に乳酸が溜まってきたのか、鉛みたいに重い。
「持つか」
二歩分前にいた誠司が振り返りもせず声をかけてきた。いらない、と返そうとした口から喘鳴が落ちた。少し階段を登っただけで、一番取り繕っていたい相手に醜態を晒している。その事実が許せなかった。
「もうすぐ上に着くのにか?そもそも僕だってこれぐらい持てる」
日頃の運動不足を呪いながら、常盤は強がった。誠司はそれ以上常盤に注意を払わず、疲労が一切感じられない足取りで残りの段差を登りきった。段差四つ分遅れて常盤も登り切る。
「お疲れ様」
先に到着していた紫苑がおかしそうに常盤と誠司を見比べた。その視線が気まずい。全身を襲う疲れから気を逸らすことを目的に常盤は周囲を観察した。
古びてはいるものの、階段前にあったものより立派な鳥居と稲荷と狛犬の中間のような動物の置物があった。ポスターで見たそれらから少し離れた場所には白鳥神社と書かれた石碑と境内内の地図が設置されている。数歩近寄って見たところ、白鳥神社はかなり小さな神社なのか、それとも祀る神が自然の産物なのか、社殿がないようだった。
「………………紫苑?」
不意に、少年を呼ぶしゃがれ声がした。
「じいちゃん」
つられてそちらを見た常盤たちの前で、ぱっと顔を輝かせた紫苑が箒を片手に携えた袴姿の老人に駆け寄る。どうも境内を掃除していたようで、足元には落ちた葉の山ができている。遠目にも異国の血が混じっていると知れる浅黒い肌をしていた。
その奥に、手水鉢と本殿が見えた。やはり神社としては粗末で貧相な造りだったが、充分に手入れが行き届いているのがわかる。
「こんにちは」
ひとまず、初対面相手には礼儀をしっかりしておくべきである。
ぺこりと軽く一礼を添えて挨拶をした常盤は、隣で仏頂面に直立したままの誠司の足を踏みつけた。遅れて誠司も頭を下げる。
常盤の手から袋を受け取った老人がじろじろとふたりを交互に見る。
「なんだ。客か」
「そうそう、山頂の新橋兄妹の館に行きたいみたいでさ」
「………………何?」
老人の顔色が変わる。
これは何かある、と踏んだらしい誠司が姿勢を正して口を開いた。
「山頂の館と此処の神、それから神社について聞きたい」
「……観光客か」
「怪奇作家だ」
即答だった。あちゃあと紫苑が空を仰ぐ。
正直なのは誠司の美徳ではあるが、いくら何でも正直に答えすぎだ。その答えがまずすぎることぐらい、常盤にだってわかる。
「知らん。帰れ。二度とくるな」
案の定、老人はさっさと踵を返してしまった。にべもない対応にさしもの誠司も二の句がつげないでいる。
「…………僕がしようかな。そのつもりで荷物を運んでもらったしね」
頬を人差し指で掻きながら紫苑が苦笑いした。老人の取り付く島もない拒絶を見るに、あまり口外してはならない内容なのだろう。
薄々それを察しながらも、常盤と誠司は空気の読める少年の申し出に有り難くのらせてもらうことにした。
ひとまず先に手水鉢付近に袋を置かせてもらい――後で祖父が取りに来るからと仲間で運ぶのは断られた――案内されるまま狭い境内の奥、本殿前まで来る。一応形ばかりの参拝をこなしたところで、紫苑が両手を広げた。
「ようこそ、白鳥神社へ。ここは江戸時代ごろに創建された神社で、祀るものに名前はないんだ。白鳥という神社の名は、その性質と祀るものの見目に由来するとも伝えられている」
「祀るもの?神ではなくか?」
「そう、祀るもの」
ひっかかる物言いに誠司が突っ込んだ。あまり聞かれたくないことだったのか、にこやかな物言いはそのままに紫苑の機嫌が目に見えて急降下する。
「あれは、神なんかじゃない」
神職の家に生まれ育ちながら神を呪うかのように吐き捨てて、紫苑が広げていた手を下ろした。常盤たちを見据える双眸が冷ややかなものに変わる。
「神に祀り上げられただけで、おそらくおふたりさんが思うような神なんかじゃないよ」
「どういう意味だ?」
「さあ、どういう意味だと思う?」
のらりくらりと紫苑が質問を躱す。常盤は愛想よく振る舞うその姿とは裏腹に、祀るものに触れ出した瞬間から紫苑の声音が憐憫を含んでいたように思えて目を瞬いた。
悲しげで、切なげで、もどかしそうな色は同情と呼ぶに相応しい。少なくとも神という呼称を嫌っていても、祀るものそのものに悪感情は持っていないと感じた。
「紫苑。ここで祀っているものは、何の神だ。鳥ではないだろう」
黙り込んだ常盤の横で、誠司が複雑に揺れ動いているだろう紫苑の心の機微を読まずに質問を重ねた。マイペースな誠司のテンポに慣れてきたのか、特に気分を害した様子もなく紫苑が視線を宙に投げる。それは言葉を探しているようにも見えたし、単純に困っているだけのようにも見えた。
「お兄さんは神社のポスターを見たかな?」
ややあって紫苑が言う。誠司が目を瞬かせた。
「ものを持ってこいというあれか」
「そう。怪奇小説家さんなら察しているだろうけど、ここで祀っているのは「とる」ものだ。他者から「とり」、豊穣を授けると言われている。等価交換と考えてもらっても構わないよ」
車の所へ向かうらしく、ゆっくりと階段の方へ向かいながら、紫苑が少しだけ二人を振り返る。
「おふたりさんがいつまでここにいる予定なのかは知らないけど、失いたくないものがあるのであれば、滞在期間中はあまり出歩かないことを勧めるよ。あまり他所から来た人が長居する場所じゃないんだ。祭りを控えたこの時期は、特に「隠す」率が高いから」
隠す。意味ありげなその言葉に反応したのは、やはりその分野を生業とする誠司だった。
「あまり人を見かけなかったのは、そのせいか?」
「それだけじゃないけど……でもまあ、せいぜいお兄さんも気をつけてね。神隠しにあっても、僕たちじゃあ助けられない」
話についていけなくなった常盤を慮ってか紫苑があからさまに遠回しな表現を避けて誠司の疑問に答えを返した。
神隠し。ものを「とる」神を祀ると聞いた直後に耳にするには不吉な言葉だ。常盤の背筋に悪寒が走る。
「それで、山頂には誰が住んでいる」
「新橋兄妹だよ。新橋若葉と新橋萌葱。聞き覚えは?」
ぴたりと誠司の足が止まった。常盤も驚愕のあまり口をはくはくと動かす。
「知っ……てるも何も、僕の知る新橋兄妹なら大学の時の同級生と後輩だ」
少女めいた風貌の同級生と、血のつながらない妹だと紹介された少女を思い出す。二人ともとても気持ちの良い人柄をしていた。
大学卒業後は交流が途絶えていたが、まさかここでその名前を聞くことになるとは思いもしなかった。
何とか返事をした常盤に紫苑の表情が興味深そうな色に染まる。
「ふうん。それなら、僕のお願いを新橋兄妹に伝えてもらうのもいいかも」
「……お願い?」
「うん。新橋兄妹の住んでる洋館に昔からいる兎が欲しいんだ」
「兎?」
「そう。兎はひとりぼっちだと寂しくて死んじゃうからね」
素っ頓狂な声をあげた常盤におどけながらそう言って、紫苑が身を翻した。
とんとんとリズムよく階段を下りていく背中を常盤は呆然と見送って、何やら考え込んでいる誠司を見やる。
「なあ、何かわかったか?」
「いや。情報が少なすぎる」
小さく頭を振って、誠司が歩き出す。釈然としないものを感じながらも常盤はその背を追った。
階段を下り切ったところで、後部座席の扉を開いた紫苑が目に入る。どことなく急いた様子に胸騒ぎを覚えたが、これから目的地まで好意で連れて行ってくれる彼を悪く思うのも気が引けて気のせいだと己に言い聞かせる。
促されるまま座席に座った常盤は、車の発進する音を聞きながら外を眺めた。
紫苑が出した車はほどなくしてそれまでよりものどかな山道に出ると山頂を目指しだした。窓の向こう側を流れる景色は緑鮮やかなもので、どこか懐かしさを喚起させる色をしている。
そうして眺めていると、やがて視界が開けた。遠く、遙か眼下に広がるのは小さな村落だ。田に畑、点在する家々。放牧されているだろう、点々と見える家畜の姿とおぼしき影。都会とは違ってあまりに閑散としているが、それでも誰かが力いっぱいに生きていると感じられる風景が広がっている。しかし、道なりを歩く者の姿はどれだけ目を凝らしても見つけられない。無人の村。そう言うに相応しい一望だ。
紫苑にとっては慣れたものなのか、それとも運転をしていて気づいていないのか。彼はただ車を走らせる。
しだいに深まる夕暮れに村落が沈んでいく。幾許もしないうちに、見えなくなってしまった。
やがて、誠司の懐中時計が午後六時を指す頃。車は一軒の洋館の前で停車した。