埋葬
残月も僅かに、朝焼けが世界を焼く時間帯。報告会のために再び訪れた山頂の館は、ひっそりと静まり返っていた。蝉時雨も、風の音もない。視認できる範囲で灯りは点いておらず、人の気配も感じられなかった。早朝にも関わらずまさか無人なのかと常盤は紫苑と顔を見合わせて、扉へ急いだ。誠司だけがゆったりとした足取りでついてくる。
指の腹で押したインターホンは軽かった。呆気なく沈んだそれは細い音を立てて、望み通り来客を知らせたぞと常盤たちに主張する。
しかし、待てど暮らせど新橋兄妹は顔を出さなかった。固く閉ざされた扉は開く兆しを見せず、昨日までの体験も相俟って無駄に不安を煽った。試しに把手を握ってみるが、がちゃんと嫌な音を立てるばかりである。
いよいよ扉を蹴破って突入すべきかだろうかとひそかに常盤が検討しだしたころ、土と草を踏む小さな足音が耳に届いた。出所に視線を向ければ、ちょうど館の端から萌葱が顔を出したところだった。続いて若葉も姿を現す。常盤たちの視線とふたりの視線が交錯した。
「ごめん。思ったより早かったね」
気まずそうに若葉が眉尻を下げて謝罪する。いったい何をしていたのかと疑問が過ぎるも、新橋兄妹の服を見てそれは簡単に氷解した。彼らは揃って喪服と言うにふさわしい真っ黒な出で立ちをしていた。
誰の死を悼んでいたのか――天海御子か、それとも紅葉か。
「供養していたんだ」
こっち、と萌葱に誘われるまま、館の裏に回る。殿は若葉だ。挟まれずとも逃げるつもりはないのだが、表情を見るにそういったことを懸念している様子はない。ではなぜ、と新たな疑問が浮かぶ。しかしそれを形にする時間はなかった。先頭を歩いていた萌葱がぴたりと足を止めて視線を前方に投げた。その先を追えば、自ずと彼女が案内したかった場所は一目で知れた。
「あたしの傲慢なのかもしれないけど、やらない善よりやる偽善って言うだろ?」
ちょうど客室の窓に面しているであろうそこは、方々に伸びた雑草と木々の緑がうるさい空間だった。ちらほら見える白色は雑草だろうか。申し訳程度に添えられた彩りが眩しい朝陽に照らされている。
手入れの行き届いていない中庭だった。しかし、その中にあって一点だけ、綺麗に整えられた場所があった。
小さな石がひっそりと立てられたそこまで萌葱が歩を進め、しゃがみ込んだ。そっと手を伸ばして指先で表面に触れる様は愛おしげだ。
「それは?」
「墓石」
「……天海御子の墓?」
萌葱の背を見下ろしながら質問を重ねる常盤に、ふるりと細い首が横に振られた。
「じゃあ、紅葉?」
「ううん、違う。そのふたりは供養されなくったって幸せだ」
そうじゃなくて、と寂し気に萌葱が吐息で笑った。
「憑物の墓」
「それ、は」
何と言っていいかわからず、常盤は言葉に詰まる。
萌葱にとって、憑物は加害者のはずだ。自らの身体の主導権を奪い、天海御子へ捧げようとした憎きモノのはずだった、
それなのに、その口調は恐ろしいほど慈愛に満ちている。興味本位でそっと覗き込んでみると、萌葱は声音によく似合う優しい微笑みを浮かべていた。
とはいっても、それは全てを許した顔ではない。受け入れた顔でもない。同情と憐憫で構成された、透明な笑みだった。
「かわいそうだなって、思ったんだ」
墓石だと言われなければみすぼらしいだけの石ころを撫でながら、萌葱が目を瞑る。
「あれだけ姫様って慕った相手に欠片も気にかけてもらえないなんて、あたしだったら耐えられない。常盤さんを詰ったみたいに、恨み言を言ってしまう」
「…………萌葱」
「わかってる。あいつはあたしに憑いて自由を奪った。姫様の命令に易々諾々と従って、あたしを紅葉の花嫁に仕立て上げようとした。同情する余地はないって、思ってる。でも」
一度言葉を切った萌葱が悔しげに唇を噛んだ。腹の底で咆哮する怒りを飼い慣らすように、或いは悲しみを追い払うように、きつく。
それまでの慈愛も、優しさも、憐憫も消え失せた獣の表情に常盤は呼吸を忘れた。
「…………納得がいかない?」
声を失う常盤の後ろから、春風のように柔らかな声で若葉が尋ねた。思うところはあるだろうに、内面の滲まない口調は一切の乱れがない。
ややあって、萌葱が頷いた。
「いかない。だってさ、誰からも偲ばれないのは悲しいよ。顧みてもらえないのは寂しいよ。死を覚悟で尽くしたのに、事が終われば誰にも悼んでもらえないなんてそんなのあんまりだ」
「…………そう、かな」
少なくとも憑物は満足していた。自らが選んだ道に少しの後悔も抱かず、何も成せずに消えるだけの生き様を憂うこともなかった。
人の尺度でモノの幸せを測るのは失礼だろうとぎこちなく常盤が首を傾げると、萌葱がわかってないなぁと言いたげに微笑んだ。