やさしかったから
そう長い時間離れていたわけでもないのにひどく懐かしく思える声に、常盤は背筋を震わせた。無事だったことへの安堵か、神隠しに遭いながら憔悴した様子のない図太さへの呆れか、はたまた彼が白蛇へかけた言葉に対する虞れか。
それとも、その全てか。
ひとまず不遜な声掛けに怒っていやしないかと眼前の白蛇の表情を窺った常盤は目を瞬かせた。
白蛇の表情は凪いでいた。それどころかどこか茫然とした顔をしている。
そう思った瞬間、白蛇はみるみる体積を減らしていったかと思うとその輪郭すらも解けさせて、幼い女の子の姿へと転変する。鬱くしい、と称するに値する見目だ。艶やかな白い髪と爬虫類特有の瞳孔を持った赤目はぞっとするほど美しく、異様に長い手足と華奢な肢体が特徴的だ。
その姿の向こう側に、ほんの少し疲れた様子の誠司と初めて見る白子病の少年の姿があった。若葉の姿はどこにもない。そもそも、この夢境において若葉は実体を持っているのだろうかと、今更な疑問が常盤の頭を過った。
紅葉、と。紫苑が掠れた声で呟いた。ふらふらと常盤の横に並んで、焦がれるようにその姿をじっと見つめている。呼ばれた少年――紅葉は紫苑に視線をくれた後、物言いたげに真白を見下ろした。元は同一存在であるひとりと一匹の間には何か通じるものがあるらしく、仄かな笑みが彼の唇を彩る。
「星の子。紅葉の客人よ。其方が随伴を申し出るかえ?」
その様子を見ていた白蛇――天海御子が尊大な態度で誠司を見やった。幼い容姿を際立たせる覇気には一抹の怒りもない。
どうやら彼岸のモノであれ此岸の者であれ、同行してくれるなら特に拘りはないようだ。
とはいえ、助けにきたはずの人物を連れて行かれては困ってしまう。そもそも誠司が共に死のうと申し出るような殊勝さを持ち合わせているとは思えない。
いったいどういうつもりかと不安を胸に見守る常盤の前で、誠司が口を開いた。
「違います。供は俺です」
それを制するように、紅葉が一歩前に出た。途端に眦を吊り上げる天海御子を柔らかな眼差しで見つめて、ゆるゆると首を振る。
「賭けをしたんです、蛇神様。貴女がかつてあの子――鉄に賭けを持ちかけたように、俺もこの地へ招いた余所者と賭けをしました。いきたいという言葉を正しき形で示せたなら、ひとつだけ、何でも望みを叶えてやる、と」
「……なんと愚かな」
天海御子が唸る。ぐしゃりと髪を握りつぶして、無理矢理感情を押し殺したような無機質な声で「愚かな」と今一度罵倒する。
「何故死を所望する。何故、妾と生きたいと望んでくれなんだ」
「……生きたいとも、思っていました」
紅葉が天海御子とそっくりな目を細めて儚く笑う。
「貴女や若葉と生きたい。夢境の外へ行きたい。かつてあの子と過ごした日へ往きたい。……全てを終わりにして、逝きたい」
常盤たちを助けてくれる真白を和御霊とするなら、誠司や若葉を神隠しした紅葉は荒御霊だ。そして荒御霊とは、神の荒ぶる側面だ。霊力の穏和な働きを指す和御霊と対を成して勇猛さを指し示すそれは、時に神の怒りや祟りそのものを指す。
祀りあげられ、真白を欠き、隈なき月でなくなったその精神は安定とは程遠い。常にゆらゆらと感情のままに天秤を揺らしている。
紅葉が誠司にどのような条件下で出題し、回答されたのかはわからない。ただ、どのいきたいもその時々の彼の本心で、だからきっとどう答えても正解だったのだろう。
解答者の当てはめる漢字次第で、迎える結末が変わる可能性があったというだけで。
「彼は俺が貴女と心中することを望みました。殺したいくらい嫌いな奴の望みを叶えるのは憤懣やるかたありませんが、しかし、それがきっと一番正しい道なのです」
不気味なぐらい穏やかな調子で紅葉が言う。慈愛に満ちた赤は澄んでいた。
殺したいとまで言わしめた張本人を常盤は無言で見つめる。頭のてっぺんからつま先まで傷ひとつなさそうだが、この可愛くない後輩は何をしでかしてくれたのだろうか。
心当たりを吐けと睨めば、斜に構えられた。この男、まさかとは思うが命の危機にあってもなおこの態度を貫いたのだろうか。いっそ天晴れとも言える不遜の振る舞いを運悪く見てしまったのか、常盤の影に隠れながら萌葱が「誠司さん……」と半笑いで天を仰いだ。
紅葉が息を吐き出す。己を鼓舞するように胸元に手を置いてから、その手を凍りつく天海御子に差し出した。
「だから、逝きましょう。俺と、貴女と。ふたりで手を取り合って、奈落の底へ堕ちましょう」
「嫌じゃ、嫌じゃ!主となら妾は死にとうない!吾子を腕に抱いて、それで……!」
「蛇神様。俺も、貴女も、永く生きすぎたんです。元々神ではないからこそ、矜持を守るためにも人を害してはいけない。貴女が俺を此処へ連れてきてくれた時、最初に告げた言葉です。覚えていますか?」
「………………それ、は」
「貴女はご自分で敷かれた道理を違えました。降り積もった寂しさのせいだと知っています。俺が鉄に心を許しすぎたせいだとわかっています。貴女の所有物でありながら、俺はあの時、鉄の話に、生きる時代に興味を持ち過ぎてしまった。全部俺のせいだ。それでも俺は、俺は貴女が貴女でなくなっていくのが、一番つらかった……!」
不意に、泣くように、吐き出すように、紅葉が声を荒げる。絶叫に近い音で、思いの丈を叩きつける。
「だから、もう終わりにしましょう…?招かれざる者の言葉に心動かされたのでしょう?――俺がいます。貴女と同じく人を害した、貴女だけの生贄がいます。簒奪者を赦せとは言いません。裏切り者に応えろと強要することはできません。それでも、それでも、貴女は優しい神だったから!だから!」
また、わらってほしいだけなんです。
かそけき願いが、夢境に溶ける。
感情に突き動かされて飛躍した訴えは支離滅裂と言ってよかった。それほどまでに無様で、みっともなくて、優しいからどうしたと怒鳴り返されても仕方のないものだった。今でも笑っていると言われたら反論のしようもなかっただろう。
それでも、天海御子に響くものはあったらしい。
「其方はずるい……!」
彼女の涙腺が決壊した。ほろほろと瞼の淵から雫が落ちる。
真白が床を蹴った。短い距離を詰めて、崩れ落ちた天海御子の肩まで器用に駆け上がっていく。両手で顔を覆って肩を震わせる彼女の頬に、必死で擦り寄っている。
抱きしめるように。愛するように。
……自分も同じ気持ちだと、伝えるように。
常盤は、ただ呆然と紅葉たちを見据えた。彼らの会話を咀嚼して、飲み込んで、動揺を隠せなかった。
知っている。あなたがいれば堕ちるのも怖くないと思えるようなその愛の形を、自分は知っている。
泣き笑いが脳裏に閃く。止めないでと願った声が心を荒れさせる。忘れてほしくないと希う彼の人を、常盤は生涯忘れることはない。
あの日、常盤は引き金を引けなかった。
だから、共に堕ちるそのために、同じ罪を犯した紅葉の気持ちが痛いほど理解できてしまう。代償を支払う日を待ち侘びている常盤には、その言葉は響きすぎる。
「嘘だ」
羨望すら抱える常盤の横で、紫苑の口から譫語が漏れる。はっとしたように口元を手で覆っているが、一度放たれた言葉は取り消せない。
誠司の冷ややかな視線が紫苑に飛んだ。やや逸れているのは、ぼんやりとしか見えない視界で声の出所を捉えようとしているからだろう。
眼鏡を手渡すべきだろうかと常盤は無意識に懐を探った。だが、持ってきた覚えのない物があるはずもなく、常盤は湧き上がる羞恥心によって赤面するのを回避するべく素知らぬ顔でそっと手をポケットから出した。
「嘘だ。嘘でしょ、紅葉。真白」
紫苑が一歩二歩と足を踏み出す。
悲願を抱えた彼の心が奏でる盛大な悲鳴に真白が面をあげた。惑うようにゆらゆらと赤が揺れる。
紅葉が冷たく笑った。