神か怪異か
神は人に祀られ、信仰を糧に永らえる。神秘の薄れた現代においても、無宗教を謳いながら参詣する人々の祈りを受けて神はその存在を保っている。
では、信仰を失った神はどうだろうか。社を、祠を失った神は。
たとえ御神体が残っていようとも、住まいを失い坐を奪われ祀られなくなったばかりか、誰からも見送られることなく忘れ去られてしまった神は。
そんなの、殺されたと同義だ。たとえ荒御魂に転じて本や紅葉から霞の如き信仰を得ていようとも、人々がかつて敬愛した神はその人によって死んだのだ。
《人の子の分際で妾を憐れむか……!》
常盤の憐憫は予想通り白蛇の逆鱗に触れたようだった。殺気だった目が爛々と輝きを帯び、ぐにゃりと体の輪郭が歪んだかと思うと何倍にも体積が膨れ上がっていく。優に三メートルは超えるであろう胴回りに圧迫された壁が嫌な音を立てて軋む。
《それも妾を葬り去りたいと!なんと浅はかな!願いなどと甘言を繰れば妾を弑逆できると思うたか!》
見上げるほど大きな巨躯をうねらせて、白蛇が声を張り上げる。声圧などという生温いものではない。実際に質量を伴う声が、全身に圧し掛かってきた。びりびりと走った尋常ではない電撃のような殺気が痛い。紫苑が緊縛法で牽制しているから良いが、それがなかったら頭から丸呑みされていてもおかしくなかった。
圧に屈して折れそうになる膝を根性で伸ばしながら、常盤は巨躯を見上げた。怒らせる覚悟を決めていたとはいえ、猛り狂ったモノの怒りを真正面から受け止めるのは想像以上の負担だ。あまり長くは持たないだろう。
水面に石を投げたからには迅速に事を治める必要がある。
「蛇神様。僕は敬意を示すために貴女を神と扱うが、神と呼ばれた貴女は既に死んでいる」
だから常盤は恐れをおくびにも出さず、白蛇が作り出した流れを切った。萎縮しそうな体を叱咤して、信奉など欠片も滲まない目で感じ取ったことを叩きつける。
「荒御魂。単純に貴女が信仰を失わず勇猛さを誇るだけなら問題はなかった。英雄視される偉業を残し、災禍と無縁であるならばそれは神の範疇だ。崇め、祀られ、相応の対応をされるべきだ」
でも、と。緊張で乾く唇を舌で湿らせる。
「萌葱に害を成そうとした。いいや、それよりも、ずっと以前、紫苑の先祖に手を出した。具体的にどうされたとは書いていなかったが、人の願いもなく祟るならば享楽に耽るのが好きで欲に忠実な妖怪と変わらない。――貴女はとうの昔に怪異なんだ」
引き金を引いたのは紫苑の祖先だ。彼が神社を別の場所へ建て直して白蛇の代わりに紅葉を祀り上げたことで、蛇神は神である権利を失った。咲き返ろうにも参拝客からの信仰は横取りされていて力は衰えるばかり。
神でなくなった彼女は、最早只の蛇だった。そして紅葉のためという免罪符を得て我欲に塗れ溺れた今、人の体を奪おうといたいけな少女を付け狙う、そう言う類の怪異と成り果てた。
哀れだ。勝手に祀られ、勝手に捨てられ、恨めば祓いの対象となる。
世界の理はどこまでも人間に都合がよくて、裏で生きるモノたちに厳しい。
《……妾を愚弄するか》
「いいや。言っただろう。僕は野辺送りをしたいだけだ。慈雨をもたらすと信仰された貴女に誰からも手向けられなかった別れを告げて、その御霊が正しい場所へ導かれるまで見守らせてほしい」
《戯言を》
にべもなくすげない返事を紡ぐ白蛇に常盤は笑った。いつの間にか肌を刺すような殺気は消え失せている。
そも、憑物の語りをそのままに受け止めるなら、白蛇は誰かを恨めるような性格ではなかった。寂しかっただけだ。たったひとり同族と違う時間で生きて、ようやく共に在れる存在を見つけたと思ったらその人間は存外愛に飢えていて、その弧弱を憐れめば他所に現を抜かされた。
白蛇にはその人間だけだったのに、人にとってはそうではなかった。
寂しさは嫉妬の炎に変わって白蛇を焼いた。焼いて、焼いて、焼き尽くして、とうとう人間たちにまで飛び火した。ふたりの友情を裂いて、己のために人間を囲い込んだ。そして人間を雁字搦めに縛り付けるため、子どもを産むための母体を望んだ。
自己本位で、身勝手で、だけども根底にあるのは寂しいという感情とどこまでも純真な愛だった。忘れられた怨嗟ではない。神の坐を奪った者への怨恨でもない。当てつけでも八つ当たりでもない。人ではないモノを人の尺度で測ること自体が間違っている。
「貴女はきっと、高天原には行けないだろうけれど。地獄も存外悪い場所じゃないよ」
閑に言い切ってから固唾を呑む紫苑たちを振り返る。うっすら目を開けて成り行きを見守っていた萌葱の泣きそうな顔も、いつ白蛇が牙を剥いても対処できるように身構えている紫苑の強張った顔も、どこか遠い物語のようだ。そんな顔をせずとも問題はないのにと、不思議がる常盤がずれているだけなのだろうが。
「僕を待っている案内人が、心を砕いてくれるはずだから」
《………………………………ほう?》
興味深そうに白蛇が声を上げる。言葉の意味を理解した萌葱と紫苑が茫然と常盤を見つめてくる。真白が足元に寄ってきて、いけない、と言いたげに首を振った。そのもどかしそうな様子がおかしくて、常盤は笑う。笑うしかできない。
だから、常盤は白蛇に向き直ると二歩前に出た。差し伸ばした手の指先に頤が触れる。
「大丈夫。寂しくない。僕が貴女を送る。未練も、執着も、置いて逝くといい」
きっとそう簡単なことではない。それでも、死後の世界へ旅立つ貴女は寂しくないのだと一瞬でも信じてもらえたなら、彼女を黄泉へ送ることができる。誰も傷つかず、犠牲を払わず、最も難しいであろう蛇神を斃すという目的を果たせる。
白蛇の目と常盤の目が真っ向からぶつかる。静かな炎が煮え滾る赤目は底のない深淵だ。怪異と成った神の目に、理性の火は灯らない。じりじりと夏日に似た熱――緊張感が常盤の肌を焼いた。
もう一押しするべきか。躊躇いながら口を開きかけた常盤は、しかし一音も発することができなかった。きぃっと言う小さな音が、耳に届く。
「天海御子。死出の同伴者は他にいる」
ひどくなつかしい声が、鼓膜を打った。