山吹常盤
紫苑の言葉を常盤は沈黙で受け止めた。
常盤が性別を偽ったことは一度もない。髪は少年のように短く、一人称は僕で、着用する服も男性ものだというだけだ。別に性自認が男なわけではない。
ただ、兄を忘れないための真似事を始めた結果そうなってしまっただけだ。
故に、常盤の振る舞いや身形には男性になりたいと切実に願う人たちを侮辱する意図や周囲に気遣いを求める身勝手さなどは一抹も孕んでいない。
新橋兄妹はその察しの良さと善良さから世間一般の良識を跨がない限りは常盤を男友達のように扱った。萌葱などは常盤に憧れたのだと笑って口調を真似するようになった。彼等が女性扱いしてくるのは部屋割りや異性の部屋に訪問する際の時間など、そうしなければならない場面でのみである。
頭から非難したのは誠司だけだ。皆一様に腫れ物扱いをする中で、彼は常盤の有り様が繊細な問題に抵触しないと見抜くなり悪癖だと言い放った。常盤の事情など一切知ろうとせず、そのままでは君が壊れるだろうと自己利益を優先して干渉してきた。
意見の相違なら我慢が利いた。些細な非難なら受け流せた。怪異を危険視する誠司と彼等にも慈愛があると擁護する常盤の激しい論争は日常の一部と化していて、疲弊していく心や精神に目を瞑ればありふれた一幕に過ぎなかったからだ。
あの日、常盤と誠司が衝突するのは必然だった。扱った論点が常盤の繊細な部分に根ざす問題だったというだけで、誰もが――常盤ですら、いつものことだと認識していた。
忘れろ、と。禁句であるその言葉が誠司の口から放たれるまでは。
「どうして女だってわかったんだ?」
余計なことを思い出しかけた常盤は紫苑に問いかける。
今日も昨日も常盤は男性物を着ていた。肘から先は出ていたとはいえ、ボディラインは完全に潰れていたはずだ。化粧っ気もない上に元々ハスキーな声質なのもあって常盤を女性と断じられる要素は残っていない。
しかし、思い返せば昨日、紫苑は常盤にだけ荷物を持たなくてもいいと気遣いを見せていた。
あの時点で気づいていたのかと驚愕の目を向ければ、とん、と紫苑が己の喉を指す。
「男性でも目立たない人や出にくい人はいるけど、まずはここが一点」
なるほど、と頷く常盤に紫苑が笑う。
「後はまあ、お兄さんの挙動かな。あの人かなりマイペースだったけど、たぶん女性と男性の力の差とかそういう点での不平等を寛容できないんだろうね。年下の僕には何も言わなかったのに、階段の途中で荷物を代わりに運ぼうかってあなたには提案してたでしょ」
事実を元に組み立てられた説明に得心がいった。あれは親切心だったらしい。てっきり醜態を晒した常盤に呆れているのかと勘違いしてしまった。
自分よりも誠司のことを理解しているらしい紫苑の発言に常盤は感心しきりに唸る。その心中を見透かしているだろう萌葱が天を仰いだ。紫苑が手を下ろして苦笑する。
「あなたが偶々器を間違えて生まれてきちゃった人なのかなとか思ってたから、これでもどう忠告したらいいか悩んだんだ」
「……ひとつ疑問なんだが、神隠しは男性にだけ起きるものなのか?」
「たぶんね。生贄も、ご先祖様も、若葉も。神が求めたのは皆男性だったから」
そもそも、と。紫苑が嫌悪を瞳に乗せる。
「昔の人は血の穢れを帯びる女性を神聖な場に置くことを厭うた。相撲とかは今でもその節が残ってる。とにかく、穢れは気枯れだという思想も生まれた。親族を亡くす以外でも産後直後や月経期間の参拝は許されていなかったりしたんだ。蛇神が神格を保つための贄にそういう思想を汲んだのかは知らないしもしかしたら伴侶を娶るために男を選んでいたのかもしれないけど、とにかく今まで攫われたのは全員男性だった」
その推測が的を射ているなら、常盤は神隠しの条件からは外れる。幾ら真似事で男性的に振る舞おうとも、女性である事実は覆せない。
「とは言え、心が男性の場合はどうだろうって心配がなかったわけじゃない。でも、あなたは平気だと思った。加護があったから」
どくりと心臓が跳ねる。高鳴る鼓動が振動となって全身を駆け抜ける。
「加護、って」
「オーラみたいなものだよ。あなたのは特に強い。今も………………って、何か、いる?」
不意に紫苑の目が鋭く尖る。あっと常盤は短く叫んだ。真白の存在を忘れていた。
後ろ手に慌ててフードを探った常盤は丸くなっていたそれを掴んで紫苑の眼前に差し出す。視えるかどうかなど考えなかった。視える側だと断言した彼の言葉を信じた。
「探し物はこの子だろう?」
絶句。固いものが床に落ちる音が響いた。萩原家の家宝が強かに打ち付けられている。年季の入った恐ろしく値打ち物になっていそうなあの綺麗な箱がである。
別の意味で絶句した常盤だったが、紫苑が震える指を伸ばすのを視界に捉えて目を見開く。
泣いている。紫苑が声もなく、ほとほとと涙を流している。
「も、みじ?」
「ええと、真白ってつけました……」
知らない名前に小声で返事を返せば、真白、と紫苑が繰り返す。
「…………真白?」
真白が鳴いた。もぞりと動く体に応えて持つ手の力を緩めれば、勢いよく後ろ足で常盤の手首を蹴って真白が紫苑に向かって跳躍する。
「うわっ」
顔面めがけて跳んでくる真っ白い体を紫苑が受け止める。彼の目が大きく揺れた。
「真白、真白……っ」
決壊した縁からとめどなく溢れる雫が艶やかな体毛を濡らす。ずるりと紫苑の体が崩れ落ちた。膝をつき、声をあげてしゃくりあげるその頬に真白が頭を寄せる。
探し物はこの兎であっていたらしい。一人と一匹の関係性が気になるところではあったが、泣いている紫苑にそれを問うのは酷だろう。
とりあえず、と視線を床に投じた常盤は紫苑が落とした箱を拾う。予想より軽いそれの蓋を開けると、ぼろぼろになった一冊の和綴じ本が出てきた。
「それ……」
「ああ」
ちらりと紫苑を窺う。真白を抱き締めて啜り泣く彼は常盤たちの様子に気づいていない。無断で赤の他人の遺品を読み漁るのは気が引けるが、読むなら今しかないだろう。
今にも崩れそうな、乾燥した葉のような頁をぱらりと捲る。幼い字が視界に飛び込んできた。