憐憫の忠①
昔。数十年しか生きられない生命体にとって気の遠くなるほど遥かな昔。
科学技術に汚染されていない自然豊かな野山にひとりの老人が分け入った。背に竹籠を背負ったその翁は麓に田畑を持っていたが、連日続く旱で農作物が枯れ果てるという憂き目に遭っていた。仕方なく山に山菜を摘みに訪れたが、山に棲む住人――猪や熊に始まり鳥類など――があらかた食い尽くした後である。探せども見つかるのは毒性の高いものばかり。ほとほと疲れ果てた翁は大木のそばで疲弊した身体を休めることにした。
「そこに一匹の蛇が横切ったんだよ」
その蛇は本当に偶々通りかかっただけだった。餌がありはしないかと腹を空かせていたらうっかり人前に出てしまっただけだ。翁の姿に気づくなり慌てて藪に逃げ込んだが、その姿は翁の眼にしっかりと焼きついた。
蛇は血管が透けるほど真っ白な姿をしていた。土まみれになった腹の鱗すら陽に煌めく様に翁は蛇肉だと浮かれる間も無く魂消てしまった。そしてこの世のものとは思えない美しき姿に、これは天啓を伝えにきた使者か神そのものに違いないと誤解をした。翁は曲がった背を更に折り曲げて、茂みに逃げ込んだ蛇を必死の形相で拝み倒した。
――どうかどうか、雨をお恵みくだされ。
一心に傾けられる祈りを蛇は困り果てながら聞いていた。蛇は蛇である。神の御使いでもなければ神聖な力も持ち合わせていない、況してや神などそのような高尚な存在ではない。少し色が白いだけでそこらにいる同胞と変わったところなどなかった。なんの変哲もない、ごくごく普通の爬虫類でしかなかった。
ついにはなけなしの乾飯まで差し出して祈願しだした翁に蛇は怯んだ。乾飯などよりも肉の方が良いし、たとえ肉を献上されたところでその祈りを聞き届けることなどできやしない。
しかし、蛇はそれを伝える術を持たなかった。舌がチロチロと出る口は人語を繰ることができない。
予想外の事態に度肝を抜かれる蛇を尻目に、一通り拝み倒して満足した翁は乾飯を置いて山を降り――そうしてその晩、久方ぶりの雨が降った。天上から降り注ぐそれに麓に住む者たちは皆感謝して、翁から興奮気味にもたらされた話を頭から信じた。
そして、話は伝播した。人から人へ、大人から子へ、世代や時代を超えて流布していった。
曰く、あの山には神が住む。蛇の姿をした水神だ。捧げ物と真心、信心を以て誠心誠意祈りを捧げれば必ず応えてくださる神がいる、と。
祠が作られ、供物が捧げられ、拝む人が増え、それが子々孫々続いていく。
偶然によって崇められることになった蛇は狼狽えた。馬鹿な人間だと嘲笑うことを知らなかった蛇は、祀られるままに祀りあげられて、いつしか人を愛するようになった。
「それが始まりさ。誰もが忘れ去った名もなき蛇――姫様が神格を得て、裏切られ、堕ちることになった原初だ」
日が昇り、朝日が夜のヴェールを焼き尽くした余韻の届く部屋の片隅で、その憑物は唐突に語り出した昔話を切り上げた。
朝焼けに目と脳を灼かれながら常盤は頭の中で乱舞する疑問符のひとつを取り上げる。
「それと萌葱に何の関係が?」
「わからないかい?裏切られた姫様は傷心の身で人への恨みつらみを抱えながら、それでも最後に捧げられた生贄からの信仰で今日まで生き永らえた。それでも終わりはやってくる。さあどうしようかと途方に暮れていたらちょうどいいタイミングで館に兄妹が住み出したんだ。しかも片方は憑き物を失った抜け殻ときた。まさに天の巡り合わせ、千載一遇の好奇だ」
「それはおかしい。若葉と萌葱は小さな頃からここに来ていたと言っていた。姫様とやらに干渉の意思があったのなら、とうに何かしら起こっていたはずだ」
「起こらないよ。姫様は生贄を可愛がっていたから、成り代わられた後も冷酷になれなかった」
ふわふわとした、どこか大切な部分を省略した違和の残る穴だらけの説明に常盤は口を噤んだ。
気になる点は幾つかある。否。端折られすぎていて、気になる点しかない。
例えば、なぜ生贄が信仰し続けたのか、とか。
例えば、姫様が裏切られたのはなぜなのか、とか。
例えば、姫様はなぜ萌葱に憑いていないのか、とか。
例えば、今喋っている君は何者なのか、とか。
それ以外にも、目の前の憑物の話だけでは不透明なことが多すぎる。
「時間がないから要点だけ。生贄は姫様に負い目があった。姫様は僕にこの子へ憑くよう命じた。そして、どちらの獲物にもなれない君を怪異と化すよう誘導したのは……僕の独断だ」
凭れかかっていた壁から背を離して憑物が笑った。萌葱の笑みが花だとするなら、それは月のように静かな笑みだった。
「三者三様、思惑は違うのさ。姫様は萌葱――神蛇の娘が欲しかった。信仰を失い消え失せるぐらいなら、憑物筋に使役される方がよかったんだろう。だから、この子に憑いていたトウビョウの空白に棲めるかどうか僕に試させた」
ああそうそう、と憑物が付け足す。
「神蛇の名を冠する家が全て憑物筋なわけじゃあない。寧ろこの子の家はトウビョウと縁を結ぶためにわざわざ姓を変えたのさ。言葉には魂が籠るからね。おかげでその歪さが姫様の目に止まったってわけ」
薄っぺらでありながら赤裸々な告白がそこで途切れた。理解の範疇を超えた説明に混乱する常盤を見兼ねたようにその頬が引き攣る。