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抜け殻

 黄泉戸喫(よもつへぐい)。黄泉の国の食べ物を口にすることで、生者の世界には戻れなくなるという古来からの信仰が生み出した言葉。伊邪那美命も黄泉で振る舞われた食事を口にしたがため、元の姿を失ってあの世の住人に成り果てた。こう言った話は妖精たちにまつわる話でも散見されるので、食事――その土地の物を口にすることが昔の人々にとって如何に重要視されていたかがわかる。そしてこの概念はギリシア神話でも同じだった。


「正解だ。ペルセポネ。豊穣を司る女神は冥府を統べるハデスを夫に持つが、それは誘拐と騙し打ちから始まった婚姻関係だ。何も知らずに柘榴(ざくろ)を口にした彼女は冥府の者となり、母デメテルの抗議とゼウスの裁定――まあこのあたりは諸説あるが、それがなければ一生をそこで過ごしただろう。海外版黄泉戸喫(よもつへぐい)の話だ」

「それが何の関係っ」

「僕はこのお茶が柘榴じゃないかって疑ってるんだ」

「――――――」


 ぴたりと萌葱の動きが止まった。半端に開いた口元を眺めながら、常盤は畳み掛けるために気を引き締める。


「あの世の食べ物は命ある者ですらその世界の住人にする効果がある。此方(こちら)に持ち出せるかは不明だが――萌葱。君はみっつ、ミスを犯した」

「………………何さ」


 不意に萌葱の口調が変わる。普段から少年めいた口ぶりをしている彼女のそれが、皮肉と雑味を帯びたものへ変化する。豹変(ひょうへん)と言うには些細な、しかし明らかに違う存在の色に常盤は息を詰めた。


 あまりにもあっさりと、擬態(ぎたい)を諦められた。


 最早隠しもせずふてぶてしい居住まいで座り直した萌葱に常盤の方が動揺してしまう。

 ごくりと生唾を嚥下(えんか)する。暑くもないのに滲んだ汗が目に沁みる。


 恐怖はない。誠司の不在に覚えた不安もない。眼前にいるモノの正体が何であっても良かった。


 ただ傷つけるかもしれない。その可能性だけが常盤の肝を冷やす。

 傷つけたくないんだが、と心中で吐露しながら常盤は腹を括った。


「ひとつめ。祖父の部屋に行かせない理由が雑すぎる。あれで僕は、君のことをおかしいなって思った」

「次」

「ふたつめ。確かに萌葱は若葉が心配でも空元気を出されたくはないだろうからあからさまな心配を向けたりはしない。でも、彼が寝ているところでまでそうする理由がない。()してや廊下に響き渡る声量で僕を呼ぶはずがない」

「…………次」

「最後。君には視えていないみたいだが、僕にはずっと気をつけろって忠告してくれる存在がいた」


 ふんっと真白が鼻を鳴らした。窺わずとも得意げな表情をしているのが想像できて笑いそうになる。


 萌葱の姿をしたそれが常盤の手元を見やる。じっと見つめるその瞳を覗き込んでも常盤の手とマグカップが映るだけで真白の姿は像を結んでいない。


「僕に視えなくてあんたに視えるってことは、あんたのその全身に(まと)わりつく()()()の恩恵だね」

「え」


 それが面倒くさそうに言った思わぬ分析に常盤の口から素っ頓狂な声が出た。期待で心臓が高鳴る。


 一瞬、本気で若葉たちに対する心配が吹っ飛んで、気分が高揚する。


「その残り香について何かわかるかっ!?」

「…………今目の前にいる僕への質問がそれでいいのかい?」


 冷ややかに突っ込まれた。絶対零度の眼差しが突き刺さる。


 ごほんと咳払いをした常盤は泣く泣く私欲を封じ込めることにした。知りたいことは山ほどあるが、その答えは他所(よそ)から与えられるものではない。


「君の目的は?」


 それの目が細められる。遠い記憶に想いを馳せるように伏せられた睫毛が震え、人工的な光の雫を受け止める。


 話すか、話さないか。迷いに揺れた目が常盤を射抜いた。常盤は静かにそれの決断を待つ。


 静寂の中、秒針が時を刻む。次第に空が明るくなっていくのがカーテン越しにわかる。朝が訪れようとしていた。


「姫様の願いを成就(じょうじゅ)すること。ま、君に見破られちゃったからここまでだね」


 その光を(いと)うようにそれは椅子から立ち上がると廊下側の壁に(もた)れかかった。紫苑の話にも出てこなかった単語に常盤は面食らう。


「姫様?」

「そう。生贄(いけにえ)に存在を乗っ取られた哀れな存在だよ」

「いけにえ」

「そ。まあ()()()()()()()()()()から答えられるのはひとつだけだ。何を一番知りたい?」


 試すように挑発的な笑みが閃く。

 常盤は直感を信じることにした。


「萌葱と姫様の関係を」

「……ちっ」


 それが壁を後ろ手に殴った。


「正解だ」


 忌々しげな呟きに耳をそよがせた真白が常盤の肩に登ってきた。全身に漲っていた警戒はなくなっている。むしろ、どことなく悲しげというか居た堪れ無さそうな雰囲気が感じられるのは常盤の思い過ごしだろうか。


 それから視線を逸らさないまま常盤は慰めるために小さな頭に頬を寄せた。

 苛立たしげにそれが自らを、萌葱を指し示す。


「この子の真名を知っているかい?」

「……萌葱が新橋になる前なら知らないな」


 若葉も萌葱も当時のことを詳しく話したがらない。触れるにしても縁があったから家族になったのだとそのぐらいのもので、萌葱が新橋家に引き取られる以前の生活が口に上ったことはなかった。


 ふたりは兄妹である。その真実さえあれば、血のつながりがあろうがなかろうが常盤も誠司もどうでもよかったのだ。


「この子はトウビョウ――蛇の憑き物で繁栄した一族の末裔なのさ。本人はその事実を知らないし元の家を失った時にトウビョウは死んだみたいだけど、()()()()()()()()()()()()()()。だから体質的に相性のいい蛇には憑かれやすい」


 萌葱の胸に手を当てたまま、それは皮肉な笑みを浮かべた。

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