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4:44 君は

 有明の月が美しい夜だった。満点の星空を充分に堪能して就寝した常盤は、しかし心地よい微睡(まどろ)みを大して(むさぼ)ることができなかった。

 唐突に、何の前触れもなく、ふっと意識が浮上した。


 ()()()()()()()


 肌で感じた気配に理性が囁いた。一気に眠気が吹き飛び、どくどくと心臓が全力疾走する。


 寝る前、常盤は誠司が泊まる部屋へと続く扉に鍵をかけた。廊下に面した扉もしっかり施錠した。寝るにはうるさすぎる月明かりを遮断するためにカーテンも引いた。その時に窓の鍵をかけた記憶もある。だから、この部屋へ侵入する方法ない。身を潜められるクローゼットの(たぐい)も置かれていない。常盤以外の誰かが存在できるはずがないのだ。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()


 身の内から投げかけられる(とい)に常盤の体から汗が吹き出す。乱れそうになる呼吸を懸命に律して、五感を研ぎ澄ます。

 息継ぎの音が聞こえる。匂いはない。視線と気配だけが、そこにある。


「……………………っ」


 努めて寝たふりをする。何も気づいていない愚か者を演じて、それが立ち去るのを待つ。

 気配が揺らいだ。空気が動く。何かが常盤の顔の前ににじり寄ってくる。枕カバーが気配の質量に耐えられず僅かに沈む。


 そうして顔面に当たった柔らかな感触に、常盤は思わず目を見開いた。


「…………………………兎?」


 闇の中、ぼんやりと浮かび上がる白く丸っこい物体。ふわふわと、ふさふさと、滑らかな毛が肌をくすぐる。ぴょこんと伸びた耳とつぶらな目が愛らしい可愛いの権化がじっと常盤を覗き込んでいる。ひくひくと動く湿った鼻が頬を掠めた。


 常盤は寸前まで感じていた恐怖を忘れて身を起こす。ころりと物体が転がった。


「………………兎、だよな?」


 手を伸ばして鼻先に触れてみる。ふんふんと匂いを嗅がれた。可愛い。可愛いが、しかしいったい何処からこの兎は現れたのだろう。


「っていうか兎!?」


 今度こそ意識が覚醒する。目の前の生き物の目の色を確かめようと常盤は寝具から転がり起きると窓際に向かいカーテンを開ける。


 空に細く浮かぶ月が、室内を照らす。月明かりを受けて、シーツに溺れていた兎が顔を上げる。


 暗闇では深く濃い黒真珠に見えた双眸が、神秘的な赤を散らす。


「アルビノの、兎」


 応えるように兎が跳ねた。そのまま寝具から飛び降りて、誠司の部屋に続く扉を前足で掻く。


「開けてほしいのか?」


 驚かせないように忍び足で近づき、そっと抱き上げる。柔らかくて暖かい生命(いのち)が常盤の胸で居心地悪そうに身じろぐ。


 何処からどう見ても普通の兎だった。学校の飼育小屋にいるような――それにしては小柄な気もするが――ごく普通の品種。


 妖怪や幽霊と疑うには生気に満ちた温もりに常盤の頬が緩んだ。可愛いものは癒される。恐怖を解き、安らぎをもたらしてくれる。たとえ何処から来たのかわからなくとも、愛らしい姿に敵愾心てきがいしんがないのであれば警戒を保つのは難しい。


「……お前の考えていることが僕にはわからないけど、まあ、誠司にも教えてやるか。兎がいたって言ったら驚くかな」


 兎に話しかけるが、当然返事は返ってこない。つぶらな目できらきらと見上げてくるだけだ。


 常盤は兎の背中を指先で撫でてから鍵に手を伸ばした。ガチャリ、夜の静寂を切り裂くような音とともに鍵が開く。ドアノブを握って引くと、昼間と違ってぎぃっと軋んだ音が鳴った。


「誠司、失礼するよ」


 一言形ばかりの断りを入れて半分ほど扉を開く。


 ――足が竦んだ。


 風が、吹いている。窓が開けられ、そこから吹き込んだ風で踊るカーテンの端が視界を奪う。


 人の気配が、息遣いが、感じられない。


「せい、じ?」


 兎が常盤の腕から抜け出した。危なげなく軽やかに着地すると跳ねるように寝具に近づき、大きく跳躍する。常盤はもつれる足を必死で動かした。緩慢な動きで後を追い、寝具の上を確認する。


「――――――っの、ばか」


 顔が歪んだ。悪態が口をついて出る。

 寝具はもぬけの殻だった。そもそも寝た形跡がない。眼鏡と懐中時計が枕元に置かれている以外、夏の夜気に冷やされたシーツに乱れはなかった。


 兎が跳ねる。常盤の横をすり抜けて、絵画の前で動きを止める。その背中に哀愁が漂っているように見えるのは、常盤の気のせいだろうか。


 わからない。わかっているのは、ひとつだけ。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「……しょ、さい。いや、日記を読みに行ったのかもしれない」


 萌葱に念押しをされていたのだからそんなことはあるまいと思いつつも、そう思い込んでいなければ一歩も動けなくなってしまいそうで、暗示をかけるように自分に言い聞かせる。


 絵を見飽きたらしい兎が常盤に近づき、右足に擦り寄った。手を伸ばすと大人しく抱き上げられてくれる。


 じんわりと、熱が伝わる。命の重みが、腕にある。


 涙が出るほど心強い存在感に常盤は肺が空になるほど息を吐き出して、一度だけ寝具を見ると廊下に出た。

 廊下と誠司の部屋を隔てる扉に、鍵はされていなかった。


 

 4:44。誠司も常盤もいなくなった部屋で、残された懐中時計が月明かりに晒されて、指針(ししん)を止めていた。

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