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第一章 ■犬を追いかけて始まる青春

 ■ 犬を追いかけて始まる青春


 

 放課後。

 結花先生の言いつけ通り音楽室へと足を運んだ将志は、ドアの前で立ち尽くし、とある天才ピアニストの演奏に聴き惚れていた。

「すげぇ……」

 ショパン『幻想即興曲』

 冷えた指で背筋を直接なぞられるような感覚におそわれる、残響を残したまま音が繋がり続ける冒頭部分。だんだん早くなり、勢いが途絶えそうになったところで力強い旋律がさらなる残響の連鎖を生む。

 まっすぐに、このピアノが奏でられる限界のところまでショパンを楽譜から引き出したのは、本職の音楽科教諭・忍鳥屋奏子先生だった。

「ああん、幻想即興曲って、弾いててなんだか濡れそうになっちゃう」

「濡れるって、どこかですか?」

「それを言わせたら、色々とアウトよ将志くん」

「すいません悪ノリです。言っても言われてもアウトですね」

「そうね。お互い立場的に。うふふふふ」

 午後四時十五分。

 音楽室には奏子先生と将志の二人以外誰もいない。音楽部や軽音楽部の活動は同じ棟内の器楽室と声楽室で行われるため、少し小さめのこの音楽室は、放課後は解放されている事が多い。

 奏子先生は演奏家としても活動しているので、授業以外はこうしてピアノを弾いている。放課後はいつも結花先生とともに音楽室でダラダラと過ごしているらしいのだが……

「あの、それで結花先生は?」

 そうなのだ。将志は没収されたスマホを返して貰うためにここまで来たのだ。それなのに、来てみればそこには奏子先生しかいない。奏子先生に聞いてみても、結花先生の所在は未だ不明のままであった。

「私、六時間目は授業入っていなくて、一時間フライングでここにいたから職員室行ってないのよ。でも、結花がおいしいカステラ持ってるっていうから、ここに持ってきてもらおうと思って、ラインしたの。そしたら『分かった』って返事は来たのよ。いや、授業中だけど」

「生徒のスマホ没収しておいて授業中にラインするなよ。教師が」

「私たちは教師だから何やってもいいのよ」

 奏子先生はどこからか取り出した大福をもぐもぐと頬張りながら、「ところが、よ」近所のおばさんみたいに手招きして数十分前の出来事を語る。きれいなグランドピアノの上に大福の粉が降りかかっている。ちなみに、音楽室は飲食禁止だ。

「さっき生徒の子にこっそりラインしてみたら、もう帰ったっていうの。おかしいでしょう? 荷物も無いらしいから、本当に直帰したみたいで」

「カステラの為に生徒にスマホ使わせないでください」

「いーのよ。バレなきゃ。将志くんはスマホ見てるの結花にバレたから没収されたんでしょ」

「教育者として失格です。ちょっと粉! 粉かかってますよピアノに!」

「ちゃんと拭くって。んもう、将志くんたら、結花みたい」

「どういう意味ですか」

「おかーさんー」

 むうーと目を閉じて両手を股の間に挟む奏子先生。ガッコンガッコンと椅子を揺らせてまるで子供みたいだ。

「にしても、結花ったら本当にどうしちゃったのかしら。電話にも出ないし」

「試しに俺のスマホにかけてみたらどうです?」

「そう? んじゃあそうするー」

 将志は奏子先生に番号を告げた。簡単な番号なのに、奏子先生は三回もかけ間違えたが、四回目にはようやく将志のスマホに発信できた。

 プルルルルル……プルルル……

 もちろん、出ない。

「出るわけないかぁ……結花、ゲーセンにでもいるのかな?」

「結花先生てゲーセンいくんですか?」

「いくよー。あの子、麻雀好きだから。ほら、オンライン対戦っていうの? よく百円玉積み上げてるわよ。舌打ちしながら麻雀する姿はとても生徒には見せられないけど」

「へえ、麻雀を……」

「ほら、学生の時は私も結花もすごくモテたから、男友達に教わってハマるっていう王道パターンね」

 プルルルル……プルルルル……

 雑談を交えながらしばらく待つが、やっぱり将志のスマホは呼びっぱなし。

 プルルルルルル………

「ってさ、将志くん」

「はい?」

「この『プルルルル……』ってコール音、なんか、聞こえるよね? すぐ近くから」

「先生の聴覚がおかしいんじゃないですか? ……と言いたい所ですけど、本当に鳴ってるな。けっこう近いところで」

「でしょう?」

 そう。ここで不可解な現象が起きたのだ。奏子先生のスマホを使って電話しているのに、受話器に耳を当てていない将志にも、コール音が聞こえてくるのである。

「廊下に誰かいる?」

「いえ」

「結花の荷物もないよ?」

「じゃあどこから……」

「やーだー、なんかリアルに学校の怪談みたい」

 きゃあ。と可愛い子ぶって肘で胸を挟む奏子先生。楽しいのか怖いのか微妙な気分なのだろうが、買ってもらったばかりのスマホの在処が不明な将志にとってはそれどころじゃない。入学祝いにと姉が一括で買ってくれた最新機種は十二万円くらいする高級品だ。結花先生が持っているならいいけれど、この音の正体が万が一にも将志のスマホだとしたら不安だ。誰かが拾ってくれているのならまだいいが、最悪の場合パクられたということも考えられる。

「ねえ将志くん、この音、外から聞こえてきてるみたい」

「外?」

「うん。ちょっと窓開けてみて。社会の窓は開けずにね」

 後半の台詞は無視して、将志は奏子先生に言われるがまま、、窓を開けた。

 ガラガラ。

 開けると同時、心地よい風が将志の前髪を揺らし、食い意地の張った奏子先生が広げた大福の粉をピアノの上にまき散らした。

「いやーん、悪戯な風、そしてパウダースノウーッ♪」

「あとでちゃんと片付けてくださいよ。その粉」

 音楽室は専門棟の二階だ。すぐ下の広場で誰かがスマホを鳴らしたら、すぐ近くに聞こえるだろう。この窓から結花先生が落っことしたとは考えたくないが、それはそれで何とかなる問題ではある。下がコンクリートなら絶望的だが、柔らかい土と芝の上に落ちたのなら生存率は高い。たぶん、人間の足首よりは頑丈なはずだ。

 将志は窓から身を乗り出して、音のするほう、すぐ真下の芝生の上を見下ろした。

「誰かいた? それとも、落ちてた? スマホ」

「…………」

 芝生。青々としたきれいな芝生。

 春の日差し。そこまで高い位置にはない太陽光が夕焼けのオレンジと混ざり合って、まぶしい光を放っている。

 芝生の上には誰もいなかった。

 代わりに、犬がいた。

「誰っていうか……犬がいる」

「あらぁ、学校に迷い犬なんて、最近じゃ珍しいわねぇ」

 芝生の上には、一匹の犬がカサカサと音を立てて、この事態をどう収集すれば良いかその場に立ち往生していた。滑稽な姿である。

 しかも、こちらを見ている。完全に将志の目を見ている。目と目が合っている。もうこれでもかというくらいの円らな瞳で、将志を見ていた。

 だが犬は落ち着かない。お座りも、伏せも教わったことがないのだろうか。とりあえずその場をクルクル回って、人間で言い表すとこの「テンパってる」を絶妙なまでに動きで表現しているのだ。

 問題なのは、その犬の首に……

「犬の首に、俺のスマホがぶら下がってる……」

「あっはっはっは! 将志くんおもろーっ! 何を言うかと思えば……いや、なかなか面白かった。レベルの高いギャグだわ」

「いや、マジなんすけど」

「ええ……?」

「しかもデカい」

「あら、大きいわんちゃん☆ 私も見たい見たい♪ なに? ゴールデンレトリバー?」

「いや、めっちゃデカい柴犬」

「あーそれたぶん秋田犬だよ。どれどれぇ?」

 ずいっ。奏子先生は将志の腕に自分の腕を絡ませて、窓の下にその小さな身を乗り出した。むにゅうっという感触が将志の右腕と股間に宣戦布告する。ブラをつけているのか付けていないのか分からないほどに柔らかいおっぱいを無理矢理押し当てられているというこの状況。犬と奏子先生の「むにゅう」、どちらに集中するかと問われたら迷うことなく奏子先生のおっぱいだろう。

「あっはっは! まっ……マジでスマホぶら下げてるっ! 何あのワンちゃん! シュールすぎんだけど!」

 奏子先生は視界に問題の犬が入るなり、大声で笑い出した。気持ちは分からなくもない。

「ちょっと、笑ってないで何とかしてくださいよ先生」

「いや、私、音担だし……動物はちょっと専門外……くくく……あっははぁッ!」

 首からスマホをぶら下げた秋田犬というシュールな光景がツボにハマったらしく、奏子先生は窓際から離脱。ピアノをバンバン叩いて、見るに堪えない顔で涙を拭いている。

 ダメだ。自分で何とかしないと。あの犬が全速力で逃亡でもしたらマジでシャレにならん。

 将志は焦った。

 何か行動を起こさなければ、スマホが危ない。

 悔しいが、物がモノだけに、たかだか犬ごときに弱みを握られているに等しい。

「さて、どうするか……」

 将志は戦略を練った。が。

 先に仕掛けたのは犬だった。

「わんっ!」

 犬が、吠えた。

「……先生、俺、犬に『わん』って言われた」

「ええっ!? くくく……よっ、呼んでるんじゃないの?」

「そんなバカな」

 将志はもう一度、あの変な犬を見やる。

 すると、「わん」と一言つぶやいた犬は踵を返し、そのままチャッチャッチャッ……と可愛い足音を立てて広場から校門へ向かって歩き出した。

「おいおい……オイオイオイ! 待てよ! マジで!?」

「やったじゃん将志くん、大冒険の始まりだねぇ……ブッ! あははは! あははは!」

「もういいやこのダメ大人は放っておこう。先生、もし結花先生から連絡あったら家に電話しておいて!」

「うん……がんばれ。頑張れ少年! 夏休みアニメの冒頭か何かだと思って!」

 もし実際にそうならここらでオープニングテーマが流れるのだろうか。

 いや、そんなことはどうでもいい。今は一刻も早くあの犬を捕まえてスマホを奪取しなくては。

 将志は上着と学生鞄を引っ掴み、音楽室を飛び出した。奏子先生の声援に背中を押されて、廊下を走る。教師なのに、奏子先生はそれを注意しない。が、あのテキトーな教師がこの状況下でそんな事を気にするわけがない。

 幸い、この専門棟から一年生の下駄箱までは近い。非常階段を使えば、すぐに一年六組の下駄箱が見えてくる。将志は大急ぎで靴を履き替えて、昇降口を飛び出した。芝生の広場を横目で見やり、専門棟二階、音楽室の窓から手を振る奏子先生を一瞥し、グラウンド脇の銀杏並木を駆け抜けた。

 犬はどこだ。

「いた!」

 将志が銀杏並木を駆けていると、校門の前で鎮座する犬を見つけた。

 まるで、将志が到着するのを待っていたかのように。

「よし、そこを動くなよワン公」

 残り十メートル。十分に捕らえられる。

 だが、この距離で追いかけたのでは、犬がびっくりして逃げてしまう。将志は冷静だった。ひとまず足を止め、間合いを保ちながら犬とにらめっこ。

 きつね色の毛皮をまとったそいつは、相変わらず将志を見つめている。スマホをぶら下げたまま。

(よし、イケる!)

 将志は決意した。二十秒は保っていたであろう犬との間合いを、ここで詰めに行った。

 が。

「わふッ!」

 将志が一歩を踏み出したとたん、犬がもの凄い勢いで駆けだしたのだ。

 ありえないスピードだった。

「嘘だろうッ!? なんでここに来て……って待てこらァ!」

 広場と音楽室の窓というロミオとジュリエット的な出会いから、あえて校門から校外へという謀られた逃走劇。あの犬、ただものじゃない。

 将志はなりふり構わず走り出した。

 犬が本気を出せば人間より速いのは知っているが、将志が追っているあの秋田犬の速さは尋常じゃない。小学生なら背中に乗っけられそうなデカい図体が、レジェンド学園通りを全速力で駆け抜ける。

 下校ラッシュのこの時間、多くの生徒がその通りを歩いているが、そんなこと犬はお構いなし。前足を使って、人と人の間をジグザグに切り込んで走り抜けていく。将志はそれを追いかける。

「すいません! 道を空けてください!」

 マジ顔で叫びながら逃走する犬を追いかける高校生。

 端から見たら爆笑もののコントである。みんなが笑っている。中には同じクラスの人もいる。高等部に進学して、外部の生徒も多数入学してきたというのに、そんな子たちとはまだろくに自己紹介もしていないのに、いきなり犬を追いかけているところを笑われてしまっている。ちくしょう。女の子の視線が痛い。

「なにアレ、犬?」

「スマホ首にかけてるッ!!」

「それを追いかける一年生」

『ウケるーっ!』

 くそが。なんとで言えや!

「おらぁ! 待てや犬!」

「わうッ!?」

 将志の猛追が犬を焦らせたのか、スピードに乗った犬は丁字路で足を滑らせて転倒。レジェンド生徒に人気の怪しげな駄菓子店『ストレイドッグス』のガシャポンめがけてクラッシュした。どんがらがっしゃーん! 音にびっくりして軒先へ現れたおばちゃんがその健闘を称えてカニパンを放り投げる。

 倒壊したガシャポンの下から這い出た犬は、ちゃっかりカニパンをくわえて再びダッシュ。将志はおばちゃんに「すいません緊急なんです!」とだけ告げて、走るスピードを上げる。

「最近じゃ、見ない光景だねぇ……」

 おばちゃんは将志に「絶対に捕まえるんだよぉ!」という声援を送り、店の中に戻っていった。いや、ガシャポン直せよ。と突っ込みたいところだが、予想外のアクシデントに救われた将志は、ここで余計な事を考えてはいけない。

 百メートルほど走った犬は、意外にも足の速い将志の追走から逃れるべく、知能的な作戦に出た。

「のわッ!?」

 猛スピードで駆けていた犬は、突然急ブレーキをかけ立ち止まったのだ。

 もちろん将志は止まれない。おっとっとと慣性の法則に負けて、ホップステップ前のめり。このままでは犬にやり過ごされる。

「が、人間をナメんなーッ!」

 将志は、楽しかったのかもしれない。

 このままでは転ぶ。だが、どうにかしてあの犬を捕まえたい。ならば、なりふり構わずこのまま犬にタックルを決めてやろうじゃないか。そう思って、将志はホップステップの後にジャンプを加えて、犬に飛びかかったのだ。

(もらった!)

 が。

 ヒュオンッ! 

 超犬的な速さで、犬は九十度の切り返し。

 なんと、将志のジャンプ中に、すぐ脇の細道、ビルとビルの隙間に逃げ込んだのだ。

 やられた。将志はそのまま倒れ込み、空を仰いだ。

 久しぶりの運動。その余韻に浸りたいところだったが、ここは通学路。

 ドゴォッ! 一台の自転車が、将志を轢いた。

 しかも電動自転車。

「ギャアアアアアッ!」

「キャアァァァッ!」

 見事なまでに将志を縦断したエレクトリックバイシクルの持ち主は、将志の悲鳴に悲鳴を上げた。

「大丈夫ですか!? これ電動、しかも改造車だから、スピード出過ぎちゃって……って、須賀くん!?」

「いやいや大丈夫じゃねーよ! 俺は全力でダッシュしてたんだぞ。ついさっきまで後ろには誰もいなかったのに、何キロ出してんだ……って、弥刀さん!?」

 将志を轢いた危険な女子生徒は、今朝、殺人級の頭突きを将志に食らわした弥刀麻美子だった。

「ご、ごめんなさいごめんなさい! 轢くつもりは無かったの! なんていうか、前髪のせいで前が見えないの、私」

「ダメだろそれ!」

「全力でごめんなさいっ! 示談金でいいかな……いいよね……三十万円くらいだよね」

「何リアルな話してんだよ……ん、そうだ!」

「ふえっ!?」

 これまた致命傷になりかねない事故を引き起こした弥刀さん。将志は朝の頭突きの分と併せていろいろともの申したかったが、今はそれよりも優先されるべき選択がある。

「弥刀、このチャリ、貸して!」

「え……でも……」

「今、大切なモン追ってんだよ! 明日返すから、いいから貸してくれ!」

「えっと……その……」

「必要なんだ!(この速そうなチャリが)」

「は……はいっ! ……どーぞ」

 強気な発言が功を奏した。弥刀は将志の迫力に圧倒され、ドぴんくな電動自転車から降りて将志に譲ってくれた。にしても、このチャリに乗って町中を走る度胸は見上げたものである。ボディ全体に施されたラメ入りピンクの装飾。

 前に一つ、後ろに一つ、サイドに二つ。合計四つのカゴ。ハンドル部分にはラッパ。アレだ。パフパフー♪ って鳴るやつだ。

「須賀くん、ハンドルについてるアクセル回すと、速いよ……」

「おうコレか。サンキュ!」

 このビルの向こうには、国道が走っている。見通しが良く、抜け道も少ない。逃亡した犬がどんなに体力のあるタフドッグでも、あの一本道を地平線の彼方まで駆け抜けることは無理だろうし、そんな事したらあの犬はバカだ。

 このチャリで追い上げるのだから、視界にとらえられれば追いつくことが可能なのだ。

「いくぜ!」

 将志は、ドキドキしながら見守る弥刀に親指を立て、

「アクセルオン!」

 アクセルを回した。

「のわぁぁぁっっ!?」

 ずどぉぉぉぉン! 電動自転車のマフラーから、爆熱。

「な、なぜチャリにマフラーがぁぁぁぁ!」

「知り合いに自転車屋さんががいて……」

「ばばば、バカかお前は! こんなの違法だ違法!」

 と、文句を言ってる間にも超サイクルはぐんぐん弥刀を突き放していく。

「あ、明日ちゃんと返すからぁぁぁぁっっ!」

 ゴゴゴゴ! 言葉が弥刀に届く前に、将志を乗せた『ぴんくブースト号』(と書いてある)はビルを迂回し、国道に飛び出した。さすがに他人のチャリで警察に捕まりたくはないので、将志はアクセル機能を一時停止。歩行者の安全を考慮して車道に出る。

「な、なんつーチャリだ……ニトロでも積んでんのか?」

 周囲の視線が痛かった。だが、ここで萎縮して物陰に隠れたりしたらこれまでの苦労が水の泡だ。将志は気合いを入れ直す。

 さあ、犬はまだこの道にいるか。将志は目をこらして、あの目立つ秋田犬を探した。

 ……いた。

 さすがに疲れたのか、犬は将志の追走が無いと思い込んでいるようで、ゆっくりと横断歩道を渡り、裏路地に入るとこだった。

「よし、もう逃がさないぞ」

 将志は犬に気取られぬよう、ある程度の距離を詰めてからはぴんくブースト号を降りて、コンビニの前に止めた。犬は路地に入った。入る寸前、周囲をきょろきょろと見回しているあたり、人の目を警戒している事は確かだった。犬のくせに。っつーかバレたくないならスマホぶら下げてんじゃねーよ。理不尽な犬の行動に将志は苛立った。

(入った)

 犬は、周囲にだれもいないことを確認すると、人気の無い裏路地に入った。ゴミ箱を漁ることすら適わないような狭い路地だ。またダッシュされたら今度こそ捕まえようがないが、隙を突くことができれば逃げられる心配もない狭さだ。

 まずは、様子を見る。いきなり待ち伏せされてやり過ごされたら大変だ。将志は慎重に、ビルの壁にへばりついて路地の中の様子をうかがった。

 すると、将志の目に飛び込んできたのは驚くべき光景だった。

「おう、待たせたな」

 ……………。

 え?

「遅いよアキタ。で? 下駄箱にちゃんと返してきた? スマホ」

「いやそれがよ……」

 将志は、目をこすって数メートル先で起こっている、人知を超えた現象を、それが現実なのかどうか何度も自分の五感に確認させた。

 まず、「おう、待たせたな」。

 少しハスキーかつクールな声で「おう、待たせたな」。この格好いい台詞を吐いたのは、なんと今さっき将志が追跡していた犬だった。

 そんなバカな。犬が日本語を話している? いや、無茶すんなって。体の構造上ありえないだろう。っていうか、将志の前では「わん」とか「わふ」とか犬らしいこと言っていたじゃないか。

 これだけで将志の頭はオーバーヒート寸前だった。

 今この瞬間、将志がビデオカメラを回していたら世界びっくり動物奇想天外で大賞を取れるだろう。

 だが、目の前で繰り広げられている珍事。言葉を話す犬の前には、その……犬と会話する人間が、腕組みをしてビルの壁面にもたれかかっていたのである。

 背の高い女性が、平然と犬と会話をしているのだ。


 ――その女性とは、なんと結花先生だったのである。



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