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プロローグ 年上好きの足フェチです

   プロローグ  年上好きの足フェチです



 桜舞う四月。七日を過ぎたというのに、上着なしではまだ肌寒い年度初めの八日。児童、生徒、学生にとっては、入学式にあたる日だった。

 その日、登校時刻よりずいぶんと早く学校に来てしまった須賀将志は、校内の散策ついでに、教室のある本棟とは違う別棟に足を運んでいた。

 将志が足を止めたのは、音楽室の前。

 壁越しに聞こえてくるショパンの『木枯らしのエチュード』に誘われて、将志は音楽室の扉を開けた。

 木枯らしのエチュード――演奏家の姉の影響でクラシックの知識がある将志なら一部分でそれだとわかる、ショパンの名曲。そして、難曲のひとつでもある。

「失礼します」

 将志が扉を開けて音楽室内に入ると、一人の女性が瞬きひとずせずにピアノに長い黒髪を垂らしていた。

 立派なグランドピアノ。普段は閉じている上蓋が、埃まみれのクロスを脱いでその内側をさらけ出している。

 艶やかな黒髪がその白い肌に映える細身の女性は、まるで木の葉を散らすように指で連符を弾きだし、強弱とは言い難い強打ちの連打を繰り返し、曲にひたすらうねりを加えながらその小さな頭を上下左右に揺らせている。

 将志は、趣味でこそギターを少しばかり嗜んでいるが、鍵盤に関する知識は浅い。音楽大学を出ている一番上の姉はピアニストなので、ピアノ楽曲そのものには関心もあるし、ある程度の知識もある。

 だが、誰のピアノが上手いとか、どんなピアノが良い音色だとか、こと演奏技術や芸術性に対する感受性に関してはそのへんの素人と変わらない。

 それでも。

 それでも将志は、このとき、この人の弾き出す『木枯らし』に全身を打ち抜かれた。

 この人は、ショパンを演奏するつもりなんてさらさらない。音楽という表現以外のところで感じるストレスを、ただ鍵盤にぶつけているだけ。だがそれは、既存の曲を表現する時に必要な要素ではない。それは、多少なりとも音楽を愛している将志にはよく分かることだ。

 でも、どうだろう。

 この木枯らしは、木枯らしなんてものじゃない。この人は、ピアノの音を使って『自分』という人間に吹きすさぶ風を演奏している。

 もちろん、木枯らしのエチュードがちょっとやそっとの技術で演奏できるものではない難曲であるということは知っている。将志の姉玲子も、ラフマニノフやショパンの難曲を好むが、この『木枯らし』のような激しい楽曲を演奏する時は、何度も繰り返し同じ練習を重ねては、ああでもないこうでもないと首をかしげていたものだ。

「……」

 将志が何も言えずにその場に立ち尽くしていると、木枯らしの女性は曲の途中で演奏をやめた。

 木枯らしの女性は、将志の存在に気づいたが、ひとまずは大きく深呼吸をした。

 ふう、と息を吐き、女性は長い黒髪を白いシュシュで一つに束ね、同時に顔を上げた。

 茶色の縁が落ち着いた印象を与える眼鏡を、小さく細い鼻に乗せて。

 目と目が合い、女性と将志はほんの数秒その場に硬直する。

 なぜ将志の時が止まったのか、分からない。

 ただ、その女性が目を合わせたまま、眼鏡を外し、譜面代の上にコトリと置いた瞬間に、将志の時は再び動き出した。

 だが、まだ木枯らしさん(仮名)の強烈な印象は将志の言の葉を奪ったまま。

 鍵盤を仕舞い、上蓋を閉じ、丁寧にクロスを掛けながら、まず女性が口を開いた。

「視姦されてる気がする」

 目を細め、ブラウスの襟から大きくはみ出している食べ頃のメロンのような胸を肘で押さえながら、木枯らしさん(仮名)は言った。

「シカンて何ですか?」

「目で犯すこと」

「具体的に言うと?」

「あたしのような美女の、胸やお尻を見つめることよ」

 一瞬言葉を失った将志。

 胸……胸か。

 言われてみれば確かに凝視したくなる攻撃的な胸であるが、将志は別にこの人の胸を見ていたわけではなく、腕の動きを見ていたのであって。そりゃ、自然と視線は上半身に集中するわけだ。

「いや、見ていたのはピアノですね。上半身しか見えないし、視線が集中するのは当たり前じゃないですか」

「ごめんなさい自意識過剰でした。ちょっと言ってみただけですほんとすいません」

「いや、謝られても……」

「ショパンにもごめんなさいだなこりゃ」

「まあ、ピアノ弾いてる人は下半身は見られませんから、たとえ自意識過剰でなくともそこは気にしてしまうもんじゃないでしょうか」

「そんなの分かってるわよ。子供の頃からピアノやってんだから」

「す、すいません」

 なぜだか将志が謝ることになってしまった。

 この人、とても美人なのになんだかんだで性格はキツそうだ。

「はあ、それにしても、生徒に対して性的な意識をするなんて、あたしったら教師失格だわ」

「え? お姉さん、先生なんですか?」

「ああ、もう鬱だわ。学校来たくない」

「聞いちゃいねー。つーか教師が学校来たくないとか言うなよ」

「教師だって学校来たくて来てるわけじゃないのよ」

 なんとも教師とは思えない言葉を口にしながら、本人いわく「先生」は、ゆっくりと立ち上がった。

 ピアノの蓋をパタムとエレガントに締め――ようとしたが失敗してバッタァン! と勢いよく手を放してしまい、「痛ッてッ! いって超いたいもうヤダこのクソピアノ!」と一人でキレてどこかに挟んだ指をブンブン振り回して痛みに悶えた。

(なんだこの人……情緒不安定なのか?)

 とりあえず外見と性格のギャップが激しすぎる(そのせいで教師かどうかも疑わしい)木枯らしさん改め「先生」は、少し高めのヒールをカツカツ鳴らして将志に歩み寄った。

 間近で見ると、やはりとてもきれいな人だ。

 何度も果物にたとえて農家の方に申し訳ないが、大きくなりすぎてしまったグレープフルーツのように豊満な胸、そして、長ネギのような……いや、ネギに例えるには少し無理があった。とにかく白くて細長い、すらりと伸びた足が何よりその先生の体の部位で言うなら最も魅力的なところである。

 トドメの一撃に、腰ほどまで伸びた毛量の少ない艶やかな黒髪だ。シュシュで束ねられているので、せっかくの大きな胸が髪に隠されずに済んでいる。ラッキー。アイムアラッキーボーイ!

 あと少し手を伸ばせば、まぁるい果実に手が届きそうな距離で先生の全身を凝視し続け、その結果、将志はある結論に至った。

(あの足になら、蹴られてもいいかもしれない)

 最低なやつだと自分で思った。将志はそれでも、もう一度心の中でつぶやいた。

 あんな足に蹴られたい。

 いや、一回目と少し変わっているが、そんなことはどうでもいい。

 須賀将志は、年上好き、メガネ好き、その上『足フェチ』である。

「高等部進学おめでとう」と近所の人から祝福され、卒業生である姉からも「進学試験難しいのにがんばったわね」といい子いい子されたのに、そんな十五歳の夢あふれる高校一年生が入学式の日に「あの足に蹴られたい」は無い。

(だが、これだけは言わせてくれ……)

 将志にとって、この出会いはまさしく「蹴られたい」としかいいようのない完璧な足だ。

 いや、この先生の顔は、もちろんいい。

 でも足だ。

 いやいや、俺はそこまでストレートな欲望に満ちた男ではない。将志は自分に言い聞かせ、改めて木枯らし先生(仮)のつま先から頭のてっぺんまで眺め回した。今日何度目だよ。という突っ込みはお控え願いたい。

 そしてもう一度つま先まで視線を戻し、太ももまで上り、またつま先まで見やった。足を、足を三回も見た。

(やはり……足だ)

 足、足、足。高校に入りたての男子にしては、なかなか見所のある性癖である。

 胸よりも足に感心がいくあたり、将志は立派な変態の予備軍であること間違いないのだろう。

 どストライク。まさに直球勝負のド真ん中であった。

 しかし、今までこんなにも異性の足に惹かれた事があっただろうか。

 否。足は好きだが、男は誰しも基本おっぱい星人。この人ほどの胸があるなら、ここまで足ばかりに執着しないはず。

 これはつまり、この先生の足には何か特殊な魅力が隠されているということ。

 この人、足に何かあるな……。

 と、文庫本換算にすると2ページ以上「足」について語った後にうまくまとめてみる。

「なんという足だ……」

「こら。やっぱへんなコト考えてるんじゃないか」

 ゴッ、と良い音を立てて、先生の拳が将志の額に直撃する。

 指と指の間に、ジッポライターが挟まってる。

「いってェ! ライターをナックル代わりにすんなよ!」

「ごめん、ジッポはやりすぎだった。でも今しかないんだよ」

「なにがです?」

「タバコ吸える時間」

 シュボッ。先生は胸の谷間から取り出した一本のタバコを口にくわえ、将志の額に痕を付けたジッポで火を付ける。

「なんでそんなトコに隠してるんですか? タバコ」

「谷間に一本ずつ隠すのが一番バレないし、取り出しやすいし、発見された時に逆に訴えられるから」

(発想がひどい)

 念のため確認するが、学園敷地内は喫煙室以外全面禁煙である。

「あ、先生が音楽室でタバコ吸ってたなんて、言いふらすんじゃないぞ?」

「えっ、は……はい」

 ずいっと顔を寄せてくる先生。とても顔が近い。ブラコン全開の姉の影響で女性との接近戦にはなれているはずの将志だが、このときばかりは胸がどきりとした。

 ヤニくさいが、ぷるんと潤った唇がすぐ近くにあって、思わずその柔らかな感触を想像してしまう。

(とりあえず落ち着こう)

 先生の、薄桃色の唇に視線を奪われながら、将志は急上昇する体温をクールダウンさせるべく、昨日の晩覚えた『鼻炎のツボ』を一所懸命に親指の付け根で押した。グリリ。すごく痛い。っていうか尋常じゃなく痛い。ギタリストの将志は指の力がめっちゃ強いのだ。

「大丈夫? 鼻血でてるよ?」

 鼻血。

 まさか。将志は伸びきっているであろう鼻の下を指でこする。

 赤い。

 これは……血!

「ぐはぁぁッ!? げっ、ホントだ! マジで鼻血だ!」

「ちょっとちょっと、なんで鼻血? なに、あたしの近さに興奮した?」

「いや、そういうわけでは……ただ、少し妄想が過ぎたというか、ツボを間違えたというか、いや、ある意味ツボにズッポシハマったんですけど……」

「?」

 いけない。先生の頭上に早くも疑問符が浮かび上がっている。

「君、新入生だよね?」

「あっ……えっと……彼女はいませんけど」

「いや、そんなことは聞いてないけど」

 将志は早とちりした。それも、かなり自分本位な妄想によりフライング勘違いである。

 どんだけ図々しいんだろうか。

「いくらあたしでも、生徒でもいいや、なんてアホなこと考えたりしないわよ。まあ、友達に一人そういう教師がいるけど」

「すみません……新入生の須賀です。須賀将志。少し早めについたので、入学式まで校内を見学しようと思って」

「そうなんだ。あたしは檜野。檜野結花。去年まで非常勤だったけど、今年から常勤の担任デビューなんだ。だからタバコのこと、言うなよ? まあ、ここにいるんだから君は音楽科の生徒でしょ? ならそこまで心配することないか」

「檜野先生は、音楽科の先生じゃないんですか?」

「いいえ、普通科よ」

「俺も普通科ですよ。ただ、ピアノの音につられてこっちの校舎まで来ただけです」

「げっ、マジで?」

「大丈夫。タバコのことは言いませんよ」

 将志がそう言うと、檜野先生は心底安心したというため息をついて、「いいやつ」と将志の頭を撫でた。

「でも俺、あまりにもピアノが上手いから、てっきり音楽科の先生かと思いましたよ」

「あー、違う違う。高校入るまではちゃんとピアノは習ってたんだけど、途中でレッスンやめちゃったんだ。だからちゃんと勉強してないの。今は普通のセンセイよ。普通科一年六組の担任なの。担当科目は国語表現と現代文」

「一年六組……って! お、俺、一年六組ですよ! さっきクラス割みたから間違いないです!」

「ええっ!? そうだっけ……ごめん、あたしまだ自分のクラスの名前とかあんま覚えてないや」

「いえ……」

「じゃあこれからもよろしくだ。須賀くん」

「はいっ! こちらこそ!」

「?」

 思わずテンションが上がる。

 将志の心を奪った足の持ち主、檜野結花先生は、なんと将志の担任。これはまさしく運命の出会い。将志は高ぶる胸の音を聞かれないように慎重に息を吸って、檜野先生に握手を求めた。

「結花ー、もう部屋閉めていいー?」

 と、ここで、舌っ足らずな声の主が、檜野先生を「ゆか」と呼んだ。

 将志が声のしたほうを振り返ると、ドアの前で小柄な女性教師が鍵束を手に立っていた。

 この人は……知っている。中等部の頃からすでに男子の間で人気者だった、音楽科の音楽教諭・忍鳥屋奏子{おしとやかなこ}先生だ。

 艶やかな栗色の巻き毛が真っ白なセーターから突き出た胸にかかっていて、女性特有の柔らかさを立ち姿だけで匂わせる。舌っ足らずな口調が体躯に似合わない幼い印象をも与えるので、学年、クラス、男女を問わず人気がある、ちょっとした有名人だ。

「ちょっと忍鳥屋先生、学校では『檜野先生』でしょう?」

「あら、ごめんごめん。ひーのーきーの・セ・ン・セ?」

 むにゅう。檜野先生に「ひーのーきーの……」とテンポよく歩み寄った奏子先生はそのまま檜野先生の胸に人差し指を押し当て、それを振り払う彼女に愛護欲が沸いたのか、「かわよー」と頭をなでなでして悪ふざけ。

 ぐはっ。これはエロい。高等部入学初日から、いきなり良いものを見せてもらった。

「ちょっとちょっと、生徒の前なんだからやめなさいよ」

「いいじゃなーい。どうせ結花は普通科なんだし」

「この子、普通科らしいよ」

「あら、そうなの?」

「は、はい。普通科一年六組の、須賀将志です」

「あららぁ、結花のクラスなんだぁ? ごめぇん……あ、私は忍鳥屋奏子。音楽科の教員」

「はい、知ってます。俺、中等部からの進学組なんで、その……噂で」

「あらら、そうなんだ。うふふ、私も罪作りなオ・ン・ナ」

 忍鳥屋先生はにっこりと微笑んで、「ごほーび」と将志の手をきゅっと握った。ピアニストの、細くて長い指が姉の手にそっくりだった。

「さあ、もうすぐ入学式が始まるわ。結花も将志くんも、体育館に移動して」

「はい」

「あ、私たちのことは『かなこ先生』と『ゆか先生』って呼んでね。二人とも名字が長いから」

「は、はぁ……」

「忍鳥屋先生はね、最近自分より若い先生が増えてきたから、意地でも譲りたくないのよ。ほら、学園のアイドル。ってやつ?」

「そういうこと。新任の生娘なんかファーストネームで呼ばせなぁい」

 奏子先生に、結花先生。

 なんだか、先生を名前で呼ぶのって小学校以来だ。親しみがあって、すぐに打ち解けられそうな感じがする。

「じゃ、入学式いこー」

 奏子先生は女神のような笑みの中にドス黒い何かを織り交ぜて、将志と結花先生の一歩先を行く。

 キーコーンカーンコーン。

普段はこんな時間にチャイムなどなるはずないのに、入学式仕様の電子音は、教師にも生徒にも、新たな生活の幕開けを、やや煽り気味に告げた。

 私立レジェンド学園。気持ち新たに、とはなかなか言い難いエスカレーター式の高校入学だが、将志にとっては他の生徒よりもやや心躍る入学式となった。

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