キールSide:期待と不安の朝(1)
「――あれ、先輩?」
翌朝。
いつもより少し早めの時刻に、軍の統帥本部へ現れたキールは、入口近くにある、オープンスペースのカフェテリアに、書類整理の傍ら居座っている、自らの上官・本多天樹の姿を見つけた。
士官学校生時代に起きた、学長殺害事件で関わってよりこちら、成り行きで呼び始めた「先輩」の呼称が、今ではすっかり定着してしまっている。
そして既に両者共、それを不自然な事だと思ってはいなかった。
「朝から何で、こんな所で仕事をしてるんですか? このうえなく目立ってますけど」
「ああ……」
このカフェテリアで朝食を済ませる若手士官の多い中、周囲のテーブルだけ、潮が引いたように、空席になっている。
そんな天樹の向かいに、キールは遠慮なく腰を下ろした。
「ただの気分転換だよ、キール。深い意味はないから」
「手伝いましょうか、俺で出来る事なら」
「そうだな……いや、この書類の束に少し嫌気がさしていたところだったんだ。話し相手になってくれるだけで、今は充分だよ」
片手にサンドイッチを持ち、片手に書類を持って、なおかつ書類に目を通しながら、会話を成り立たせようとしている――それも、朝から。
どこが気分転換なのか、とキールは内心で思わざるを得ない。
「ああ、いや……こんな『ながら』状態じゃ、不愉快か。俺はまだしばらくここにいるつもりだから、自分の仕事に行ってくれて構わないよ」
「……先輩」
机に積まれた書類の束を無造作に何枚かめくり、自分もコーヒーを1杯注文しながら、キールはふと、思いついた事を口にしてみた。
「ひょっとして……ここで若宮女史を待つつもりだったりします?」
「……っ」
意外にも、それが図星だったと見えて、天樹の手から書類が滑り落ちる。
思わぬ上官の反応に、キールはまじまじと、書類と天樹とを見比べた。
「……少し、先輩の意外な一面を見た気がする」
「忘れてくれないか。俺だって、はったりのきかない時くらいは、あるよ」
「どうしようかな」
「頼むよ」
落ちた書類を拾いながら、困惑した表情を見せている天樹に、キールはガヴィエラさながらの、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ、一つ『貸し』にしておきますから、いつか返して下さい。ところで、話を元に戻しますけど、本当に女史を待っているんですね?」
今度は、天樹も動揺を見せなかった。
「頭を下げて頼んでいる側の人間が、司令官室でふんぞり返っている訳にもいかないだろう? 見え透いたパフォーマンスかも知れないけど、彼女は他人の『本気』が見抜けるからね。俺が本当に、俺に出来る全ての事をやっているのかどうか――その目は、恐らくカーウィンやロバートよりも、厳しいと思うよ」
「……手塚さん並みですか?」
「そうだな。手塚と、若宮さんと俺と――高校時代は、結局ずっと首席の座を争ってたから……まぁ、そうなるか」
「ホント、どんな高校だったのか、この前から、めちゃくちゃ気になってますよ。怖すぎですよ、そんな高校。一度じっくり高校時代の話も聞いてみたくなるくらい――怖くて、興味深い」
「……相変わらず変なところに喰いつくな、キール。まぁ、反政府組織並みの、ブラックリストに載っていてもおかしくない学校だった
のかな――今にして思うと」
遠くを懐かしむ表情で、くすくすと笑う天樹に、どこまでが冗談なのか判断のつかないキールは、眉をひそめながらも、その話題からは撤退するしかない。
「そう言えば先輩……こっちに戻ってから、手塚さんや若宮女史とは結局会えたんですか?」
「ああ、手塚は昨日、軍病院に着いた後に、少しね。言っただろう、一度飲みたがってるって。ただ、手塚自身はまだ、医学課程を残す身だから、これから一年と少しをかけて、ゆっくりと身の振り方は考えると、以前は言ってたんだが……何か、事情が変わったとか言ってたな。『人生最大の岐路に立たされる羽目になった。覚えてろよ』――って、言われても意味が分からないんだが……まぁでも正直、手塚も家の都合に振り回されて、医者を目指しているようなところがあったから、俺はち
ょっと、ほっとしてるところもあるよ」
「家の都合?」
「あそこは、両親も、医療関係者なんだ。しかも、一代や二代で済む話じゃないから、あいつ自身にかかっている期待も大きくて、確か……写真でしか顔を知らない婚約者だか、何だかもいた筈だ」
何代も続く、エリート医師の血族――言いたい事を言って、ストレスとは無縁に生きていそうな手塚の思わぬ背景に、キールは正直に、意外だと、呟いた。
「押し付けられた婚約者とか、笑顔で蹴飛ばしそうなのに……って言うか先輩、婚約者だか、何だかって……」
「まぁ……これまでは取り立てて、周囲の期待に背いてまで、やりたい事も、手に入れたいものもなかったんだろう。それならば、最も無難に、カドが立たない生き方を選ぶだろうさ。ははっ……俺と手塚は、時期は違っても、お互いを鏡で見ているんだよ。出会った頃、手塚の目に映っていた俺は、今、俺の目に映っている手塚なんだよ。多分ね」
「本多財閥――ですか?」
いい機会だとばかりに、切り込んでみたキールに、天樹はにこやか――と言うには凄みがあり過ぎる微笑を浮かべた。
「まさか、シストールにまで、乗り込んで来
るとは思わなかったからなぁ……あぁ、マーリィが二人に感謝していたよ。おかげでギルティエの独占市場を崩せそうだ、と。広告塔を引き受けたんだって?」
「引き受けたって言うか……昨日、あの後、ルグランジェ中佐の官舎前で、ガヴィ共々、ヒューズ中将に捕まったんですよ。中将なのにフットワーク軽すぎですよ、あの人。近いうちに模擬戦やるぞ、って脅され……んんっ、まぁそれは、今は良いです。ともかく、クレイトン大将の所に売り込みに来た、シストール社の製品を試せる部署と言うか、人を探してるって事で、先輩に、何人か紹介させろって、クレイトン大将から言われたみたいで……先輩が、また捕まらないって、クレイトン大将のこめかみに青筋浮かんでたって、ヒューズ中将言ってましたよ」
「……その頃は軍病院だった、かな」
フットワークの軽い人はここにもいた、と、キールは笑った。
「まぁそれで、マーリィ技術部長なら、知らない訳ではないので、引き受けても良いですよって、言ったんですよ。社員証とかネットワークの拝借に関しては、ちょっと俺たちも、後ろめたいところもありましたし」
「何か……色々すまない」
「そこは連帯責任として、心得てますから大丈夫です」
しれっと「連帯責任」を主張するキールに、天樹は苦笑を誘われる。
「マーリィになら、色々細かく注文を付けてくれても構わないよ。むしろ、俄然張り切ると思うから、今、出来そうにない事でも、どんどん言ってしまって良い。10年先を見越した開発、市場の開拓は、マーリィの上司である支部長、倉科の考え方の根本でもあるから、マーリィの才能が、上層部から潰されるような事もない。あの支部は上下が統一されていて、優秀なんだよ」
「10年……ですか」
「キール?」
もはや完全に、自分とシストール社との繋がりを否定しない天樹に、かえってキールは、細かに聞く気力を削がれた。
「そう言えば、若宮女史にも『10年後の未来を変えるための努力』をどう思うかと、聞かれた事がありましたけど……おおもとは、先輩ですね? ご実家の影響ですか?」
「……そんなに、人生観よろしく、あちこちで吹聴したつもりはないんだが……。実家? いや、ファイザード先生の影響じゃなかったかな……どうだろう……?」
思わぬ事を聞かれた、と言った態で、天樹が小首を傾げた。
ファイザードの呼称が、学生時代の「先生」になっているうえに、実家=本多財閥の中枢関係者であろうと、キールが誘導をかけた事に気が付いていない。
「ちなみにキールは、若宮さんにその時、何か答えたのか?」
「現在進行形で、そのための努力は惜しんでいない、とだけ」
「――――」
天樹が、わずかに書類から視線を投げて、キールを見やった。
「……変えたい現在がある、と?」
「否定はしませんが……厳密には違うでしょうね。俺の場合は、手に入れたい未来がある――が、正しい」
そう言って微笑ったキールは、運ばれてきたコーヒーに口をつけ、ひと息ついた。
まるで、それ以上語るつもりがないとでも言いたげに。
天樹も諦めたように、話題を変えた。