手塚Side:諮問会前日(7)
若宮水杜と、彼女の母親が車に乗り込み、自宅へと帰って行くのを、病院の医局室の中から、ルグランジェと手塚が見ていた。
「色々……有難うございました」
複雑そうな表情を浮かべながらも、色々と、ルグランジェの腕と伝手を利用した事は間違いないので、手塚としても、ルグンランジェに頭を下げざるを得ない。
「中佐が川に浮く事もなさそうで、良かったです」
とはいえ、いきなり無茶を強行するのは、勘弁して欲しい。
川に浮かばずに良かった……は、間違いなく手塚の本心だった。
ふふ……と、ルグランジェが緩やかに笑った。
「君が声をかけてくれた事は、あくまできっかけの1つに過ぎないよ、手塚君。あまり気にしなくて良い」
「いや、俺の寝覚めが悪いんで」
間髪入れずに、そう返す手塚に、ルグランジェは一瞬目を見開いてから、今度ははっきりと、声を上げて笑った。
「……5年生になってから、色々と教えて頂いてますけど、中佐がこんなに愉快な方だったとは、知りませんでした」
〝孤高の隠者〟
それが、ルグランジェに付けられていた、渾名だ。
第一艦隊旗艦軍医を退き、軍病院に配属されてからこちら、一切の講義も教授会も欠席――と言うより、無視。それでも、戦傷を負って帰って来る兵士や、国内の警察関係のトラブルで運ばれて来る患者の緊急手術には、類希なる能力を発揮するため、救急センターの奥で、薬や器具の開発に注力する事と引き換えに、どの派閥にも属さない、何もしない自由を保証された、異色の存在。
彼が手塚の指導医になったのは、5年生になった手塚の面倒を見きれるだけの医師が院内に他におらず、多方面から拝み倒された、異例の成り行きであった。
天樹が「貴重希少」と揶揄した事は、あながち間違ってはいないのだ。
「娘が亡くなってから、正直、全てがどうでも良かったからね…。まぁ皆、私を置物とでも思っていたのか、色々と情報を駄々漏れにしていたね――救急センターで。最も、今回の事がなければ、活かそうとも思わなかったが……」
唖然とする手塚に手渡されたのは、使用前の〝束縛の手枷〟が、2つ。
「左は既製品、右が、私が開発中だった、より本物の神経に近いベーレ素材を利用した、流通前の治験品。今回、若宮さんに使われたのは、この治験品。もしかすると、使用効果の実験、報告も兼ねて、使われていたのかも知れない」
「なっ……⁉」
一見すると、同じに見える。だが改めて言われると、右の治験品は、やや、管の部分が細いようにも思える。
2つをまじまじと見比べる手塚を見る、ルグランジェの目は、厳しかった。
「いずれ治験は必要だったが、こんな風に、一般市民を巻き込むために開発をしていた訳じゃない。兵器転用の功罪を、まざまざと見せつけられたよ。私が今回、関わり過ぎるくらいに、君たちに関わっているのも、ひとつには、自分で巻いた種を刈り取っていると言うのもあるよ。こんな結果を招いた『横流し』をした連中を、許すつもりもないしね」
「中佐……」
「まぁただ、結果は原因に依存すると言うか、そう遠くないうちに、私は病院の長になるか、軍本体に復帰するかの二択を迫られる事になると思う。それで改めて――君の進路希望を聞かせて貰えるかな、手塚君?」
「……はい?」
「私としては、君を手放すのが惜しいんでね。軍本体に復帰する事になったらなったで、実習の続きを、艦橋で行うのも良いかと思っているんだよ。何、実習先が現役軍医な医学生も皆無じゃない。そう不自然な事でもない筈だよ」
「……あの」
「うん?」
「俺に兵役に就け、と……?」
医大の学生ではなく、軍本体に属する実習生になれ――とは、そう言う事だ。
正直に、顔を顰めた手塚に、ルグランジェは穏やかに微笑った。
「君がどう言う経緯で、医大にいるのかは聞いているよ。ただこれまでは、君もただ、敷かれた道の上を歩いているだけのようだったから、敢えて他の選択肢を与える事はしなかった。だけど今は、私同様、少し――違うんじゃないかと思ってね」
「……っ」
「数日中に、病院長と、第五、第九、第十三艦隊の主任軍医の座が空く。だから私は言っておいたんだ。『アステル法諮問会』の決着次第で、軍医に戻るか、病院の長となるか、判断させて欲しい――とね」
誰に言っておいたのかは、言わないルグランジェだが、絶句している手塚は、それどころではない。
口もとの笑みは残したまま、ルグランジェは更に畳みかける。
「私と来れば、君が、君の大切な友人たちに、胸を張れる生き方が出来るかも知れない。ただ君には、君が過去、〝アステル法〟の適用ではなく、医大預かりになった、家の事情もある筈だ。そこを踏まえた上で、聞くよ? ――君は、どうしたい?」
「――――」
あくまで穏やかに、ルグランジェは言った。
「なるべく〝アステル法〟諮問会までに、考えておいてくれるかな」
――そうして、それぞれの未来への分岐点となるであろう、一夜は過ぎた。




