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虚空のシンフォニア――序奏・黎明の迷宮――  作者: 渡邊 香梨
第九章 奇術師と隠者の再臨
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水杜Side:諮問会前日(6)

 諸々の検査が終わった頃には、日はかなり傾きかけており、帰り支度を進めている病室にいるのは、水杜と貴子の母娘(おやこ)二人だけだった。


「気分はどう、水杜(みと)?」


「少し身体がだるいのと、傷が痛むのと……でも、そう言えるくらいだから、大丈夫なんじゃないかな」


 包帯の巻かれた手首に視線をやりながら、水杜はそう言って苦笑を閃かせた。


「……ごめんなさい」

「あら、何が?」

あの人(シオン)の事……」


 さすがに言い辛そうにしている水杜に、ああ……と貴子も表情を和らげた。


「私は『少しの間、彼女をお借りします』と聞いていたから、そう心配はしていなかったわよ。むしろ、()()()()()()がどう出るのかと思っていたんだけど、そこは本多君達が、上手く立ち回ってくれたみたいだしね」


「あ……そう、なんだ?初耳……」


「そんな事、あなたに言ってどうなるって言うのよ。彼は彼で、あなたを招こうとしている自分が、全部悪いって思い込んでるんだから、堂々巡りじゃないの。あなたがこの先も彼とやっていくつもりなら、お互い多少の罪悪感くらい、持っておかないと、やっていけないわよ?どちらかが図に乗り始めたら、あっという間に崩壊するわよ、今のあなたたちの関係」


「……っ」


 本多天樹の性格からして、「図に乗る」などと、それもないと思うのだが、そのくらい、薄氷の上を歩いていると言う事なのだろう。


 何せ今の自分(みと)の立場は、天樹を不利にしかねない、危ういものでしかない。


「罪悪感があって、お互いが、お互いのために何が出来るのかを考えて、それを実行に移していけるくらいの関係で良いのよ。与えすぎも、与えられ過ぎも、毒になるわよ?それとも、なあに?今更、明日どうしよう……なんて、悩んでいたとでも?」


 敢えて明るく、「今更」を強調した貴子だったが、予想に反してそこで、水杜の表情が微かに歪んだ。


「今だけ……今だけ。辛い、って…言っちゃ…ダメ、かな……」


「…辛い?」


「彼は……シオンは、自分達でこの軍事政権を変えなきゃダメなんだって……でも本多君は、十年後の未来を変えるための努力をしてみないかって、そう言って……どちらも、今の軍部が正しくないと思っている事には変わりはないのに……ならどうして、私はあの時シオンの手をとらなかったのか……今回の事は、本当は全部、そこから――」


 そこまでが、水杜の限界だった。一筋の涙が、すうっと頬を流れ落ちていったのである。


「水杜……」


 貴子がゆっくりと、目を瞠った。


「違う……後悔じゃない。たとえ〝使徒(ディシス)〟が軍にとって代わろうと、父さんや愛を亡くした、私たちのような家族が減る訳じゃない。その事を最後まで、(シオン)は聞き入れてくれなかった。だからついて行かなかった。そう納得もした筈だった! だけど今……こんなにも自分の気持ちが中途半端なままだったなんて……私……」


 少しずつ、言葉が途切れがちになる水杜を、貴子は痛々しげに見つめていた。


 病院に着いて、検査室への移動や着替えを手伝った時点で、水杜とアルシオーネとの間に、()()なかった訳ではないのだと――貴子も、気が付いていた。


 果たして、アルシオーネの()()だと、それを笑って見過ごして良いのか。


 水杜が無言を貫き通し、本来は担当外であるらしいのに、手塚玲人(アキト)の知り合いならばと、検査も今後のカウンセリングも引き受けてくれると言う、手塚の上司・ルグランジェと二人、示し合わせて、母親(タカコ)には何も言わないと決めたのなら――見過ごす、べきなのかと。


 貴子なりに、苦悩していたのだ。


 手塚やガヴィエラから、少し遅れて水杜を訪ねて来た、本多天樹さえ、中に入れなかった程に。


「あなたって子は……やっぱり年々、透さんに似てくるのね……」


 しっかりした子だ、あの子がいてくれただけ、まだ良かった……などと言った周囲の声に囲まれて、父と妹を一度に亡くしてから以降、一度も感情を高ぶらせる事がなかった、水杜の初めての「声」に、気が付かない貴子ではない。


(ダメだわ。これ充分、()()()()案件よ、シオン君)


 貴子はこの時、天樹から伝えられた、〝使(ディ)(シス)〟幹部が揃っていなくなってしまった件を、(みと)には告げない事に決めた。


 いずれ知る話ではあっても、今、(わずら)いの種を増やす必要はない。

 悩むなら、本多天樹と共に、悩めば良い。


 少なくとも、水杜を軍へ招こうとする天樹には、その覚悟がある――貴子には、そう見えた。


「透さんも不器用な人で、弱音や本音を滅多にぶつけられない人だったけど…泣かない事が美徳じゃないのよ、水杜。それに、完全な人間だっていないもの。中途半端、結構じゃないの。――全部、これからの糧になさいな」


「……お母さん……」


 泣けばいい時にさえ、泣く事の出来ない不器用さ故に、全ての傷口を、癒す事も出来ずに抱え込んでしまう。


 自分たちのような家族を、これ以上増やしたくないと水杜は言ったが、見たくない、というのが本音だと、貴子には分かっていた。

 

 結局無意識の内に、水杜はアルシオーネよりも父親を、家族を選んでいたのだろう。


「もう一度最初から、あなたはどうしたいのかよく考えなさいね、水杜」


 そんな水杜をそっと抱き寄せて、貴子は静かに、繰り返した。


「誰のためでもなく、あなたがどうしたいのか、考えるのよ。どう結論を出そうと、私はその意見を、ちゃんと尊重するから。いいわね?」


 貴子の腕の中で、水杜は無言で頷いている。


 ――感傷は、一瞬。


 全ての「傷」を抱えてでも、水杜は未来(さき)を歩いていかねばならなかった。

 何故ならそれこそが、父・若宮透の生き方でもあったのだから。


「家に帰ったら……朝まで独りにしてくれる、お母さん?」



 今は亡き夫の顔を、少しだけ思い起こしながら、貴子は微笑して、頷いた。


「電話も訪問者も、全てシャットアウトしてあげるわ。安心なさい」

「……ありがとう……」

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