水杜Side:諮問会前日(6)
諸々の検査が終わった頃には、日はかなり傾きかけており、帰り支度を進めている病室にいるのは、水杜と貴子の母娘二人だけだった。
「気分はどう、水杜?」
「少し身体がだるいのと、傷が痛むのと……でも、そう言えるくらいだから、大丈夫なんじゃないかな」
包帯の巻かれた手首に視線をやりながら、水杜はそう言って苦笑を閃かせた。
「……ごめんなさい」
「あら、何が?」
「あの人の事……」
さすがに言い辛そうにしている水杜に、ああ……と貴子も表情を和らげた。
「私は『少しの間、彼女をお借りします』と聞いていたから、そう心配はしていなかったわよ。むしろ、あのお姉さんがどう出るのかと思っていたんだけど、そこは本多君達が、上手く立ち回ってくれたみたいだしね」
「あ……そう、なんだ?初耳……」
「そんな事、あなたに言ってどうなるって言うのよ。彼は彼で、あなたを招こうとしている自分が、全部悪いって思い込んでるんだから、堂々巡りじゃないの。あなたがこの先も彼とやっていくつもりなら、お互い多少の罪悪感くらい、持っておかないと、やっていけないわよ?どちらかが図に乗り始めたら、あっという間に崩壊するわよ、今のあなたたちの関係」
「……っ」
本多天樹の性格からして、「図に乗る」などと、それもないと思うのだが、そのくらい、薄氷の上を歩いていると言う事なのだろう。
何せ今の自分の立場は、天樹を不利にしかねない、危ういものでしかない。
「罪悪感があって、お互いが、お互いのために何が出来るのかを考えて、それを実行に移していけるくらいの関係で良いのよ。与えすぎも、与えられ過ぎも、毒になるわよ?それとも、なあに?今更、明日どうしよう……なんて、悩んでいたとでも?」
敢えて明るく、「今更」を強調した貴子だったが、予想に反してそこで、水杜の表情が微かに歪んだ。
「今だけ……今だけ。辛い、って…言っちゃ…ダメ、かな……」
「…辛い?」
「彼は……シオンは、自分達でこの軍事政権を変えなきゃダメなんだって……でも本多君は、十年後の未来を変えるための努力をしてみないかって、そう言って……どちらも、今の軍部が正しくないと思っている事には変わりはないのに……ならどうして、私はあの時シオンの手をとらなかったのか……今回の事は、本当は全部、そこから――」
そこまでが、水杜の限界だった。一筋の涙が、すうっと頬を流れ落ちていったのである。
「水杜……」
貴子がゆっくりと、目を瞠った。
「違う……後悔じゃない。たとえ〝使徒〟が軍にとって代わろうと、父さんや愛を亡くした、私たちのような家族が減る訳じゃない。その事を最後まで、彼は聞き入れてくれなかった。だからついて行かなかった。そう納得もした筈だった! だけど今……こんなにも自分の気持ちが中途半端なままだったなんて……私……」
少しずつ、言葉が途切れがちになる水杜を、貴子は痛々しげに見つめていた。
病院に着いて、検査室への移動や着替えを手伝った時点で、水杜とアルシオーネとの間に、何もなかった訳ではないのだと――貴子も、気が付いていた。
果たして、アルシオーネの未練だと、それを笑って見過ごして良いのか。
水杜が無言を貫き通し、本来は担当外であるらしいのに、手塚玲人の知り合いならばと、検査も今後のカウンセリングも引き受けてくれると言う、手塚の上司・ルグランジェと二人、示し合わせて、母親には何も言わないと決めたのなら――見過ごす、べきなのかと。
貴子なりに、苦悩していたのだ。
手塚やガヴィエラから、少し遅れて水杜を訪ねて来た、本多天樹さえ、中に入れなかった程に。
「あなたって子は……やっぱり年々、透さんに似てくるのね……」
しっかりした子だ、あの子がいてくれただけ、まだ良かった……などと言った周囲の声に囲まれて、父と妹を一度に亡くしてから以降、一度も感情を高ぶらせる事がなかった、水杜の初めての「声」に、気が付かない貴子ではない。
(ダメだわ。これ充分、ぶん殴り案件よ、シオン君)
貴子はこの時、天樹から伝えられた、〝使徒〟幹部が揃っていなくなってしまった件を、娘には告げない事に決めた。
いずれ知る話ではあっても、今、煩いの種を増やす必要はない。
悩むなら、本多天樹と共に、悩めば良い。
少なくとも、水杜を軍へ招こうとする天樹には、その覚悟がある――貴子には、そう見えた。
「透さんも不器用な人で、弱音や本音を滅多にぶつけられない人だったけど…泣かない事が美徳じゃないのよ、水杜。それに、完全な人間だっていないもの。中途半端、結構じゃないの。――全部、これからの糧になさいな」
「……お母さん……」
泣けばいい時にさえ、泣く事の出来ない不器用さ故に、全ての傷口を、癒す事も出来ずに抱え込んでしまう。
自分たちのような家族を、これ以上増やしたくないと水杜は言ったが、見たくない、というのが本音だと、貴子には分かっていた。
結局無意識の内に、水杜はアルシオーネよりも父親を、家族を選んでいたのだろう。
「もう一度最初から、あなたはどうしたいのかよく考えなさいね、水杜」
そんな水杜をそっと抱き寄せて、貴子は静かに、繰り返した。
「誰のためでもなく、あなたがどうしたいのか、考えるのよ。どう結論を出そうと、私はその意見を、ちゃんと尊重するから。いいわね?」
貴子の腕の中で、水杜は無言で頷いている。
――感傷は、一瞬。
全ての「傷」を抱えてでも、水杜は未来を歩いていかねばならなかった。
何故ならそれこそが、父・若宮透の生き方でもあったのだから。
「家に帰ったら……朝まで独りにしてくれる、お母さん?」
今は亡き夫の顔を、少しだけ思い起こしながら、貴子は微笑して、頷いた。
「電話も訪問者も、全てシャットアウトしてあげるわ。安心なさい」
「……ありがとう……」




