ガヴィSide1:追跡2日目(16)
――その頃のガヴィエラは、かつて現役の航宙艦所属軍医だったという、ロッティ・ルグランジェ中佐の指示を受けて、いろいろな医療器具を、手塚と共に用意させられているところだった。
「すみません、中佐。詳しい事情は、後でしかるべき士官が説明に来ますから」
まだ、医大でのカリキュラムをあと1年残している手塚ではあるが、ガヴィエラの見るところ、その動きは下手な現役の軍医よりも機敏だ。
「正直、中佐に解除のご経験があるのは、有難いです」
そう言いながらも、その手は次々と必要な医療器具を揃えている。
地球軍の、現副本部長の艦隊司令官時代を支えた医者だと言うのだから、医局におけるルグランジェの地位は、想像するに難くない。
その下で学ぶ手塚もまた、その能力を嘱望されていると言う事なのだろう。
「まるで野戦病院だな。こういった事は本来、きちんとした設備のある所ですべき事なんだが……最前線にいた頃の事を思い出すよ」
戦場という最前線からは退いたとは言え、ルグランジェも現役の外科医である。言葉とは裏腹に、表情も、動作も冷静だった。
「簡易器具しか、ここにはない以上、多少の痛みは止むを得ないだろうな……備えつけのタオルがあるな?何かを噛み締めていないと、奥歯が砕けてもおかしくない」
洗面台にタオルを取りに行きかけた、ガヴィエラの足が、そこで急停止した。
「……麻酔使えないんですか?」
「この〝束縛の手枷〟は、局部麻酔を吸収してしまうように設計されていてね。じゃあ、全身麻酔はどうかと言えば、そもそも、カルヴァンにある病院の設備では無理だ。そして正規の解除設備のない場所で、同じ解除操作をしようと思えば、レーザーメスでその機能を一気に焼き切ってしまうか、液体窒素による急速冷凍で、破壊して取り出すの、どちらかしか方法はない。疑似生物兵器だからね。痛みに耐えるか、〝束縛の手枷〟が神経を蝕むのに耐えるかと言う話にもなるが……鍛えられた軍人の基準で考える訳にはいかないんだから、取れる選択肢は一つしかあるまい」
「……レーザーメス、ですよね……」
人間相手に「液体窒素」とか、そもそもありえない。
うわぁ、と顔をしかめたガヴィエラに、それまで目を閉じて、一言も言葉を発しなかった水杜が、さすがにくすりと笑った。
「今からそれをやってもらうのって、私なんだけど……」
「………あ」
「まったく、それが天然なら大したもんだ」
いつの間にか、ガヴィエラに代わってタオルを持って来た手塚も、呆れたように笑っている。
その手には、乾いたタオル、濡れたタオル、そしてホテル備え付けの寝間着があった。
「悪いがもう少し、付き合ってくれ。俺と一緒に、若宮さんの手足を押さえるのを手伝って欲しい。何かの拍子で、中佐の手元が狂ったりしたら怖いからな。とりあえず、こっちの濡らしたタオルで身体を拭いて――着替えられるか?」
「……っ」
手塚に他意があった訳ではもちろんないが、その瞬間、水杜は目を瞠り――手のひらを握りしめて、身体をこわばらせた。
「若宮さん?」
「……私は……出来ればこのままが……」
揺らいだ声色に気が付いたのは、ルグランジェで、用意をしていた手をふと止めて、水杜の方へと視線を投げた。
頭からつま先までを一瞥して――彼女の躊躇の理由に、思い当たってしまった。
「手塚君」
「はい」
「悪いがランドリーサービスまで行って、追加のタオルを多めに取ってきてくれるか?その間の事は、リーン少佐に協力して貰う」
「……分かりました」
逆らい難い空気をそこに感じた手塚は、ルグランジェ、水杜両方に気遣わしげな視線を向けながらも、いったん部屋を後にする。
扉が閉まる音を確認したルグランジェは、なるべく穏やかに、水杜へと話しかけた。
「私は確かに軍属だが、医者としての守秘義務は、軍規よりも優先される。ここでの会話は、君が望むなら、墓場まで秘匿しておこう」
ルグランジェ中佐、と言いかけたガヴィエラを片手で制しながら、車椅子の水杜に視線を合わせるように、片膝をつく。
「君が負った傷は〝束縛の手枷〟だけではない――と言う事で、合っているかな」
「!」
水杜が息をのむ音が、ルグランジェにまで聞こえた。
顔を顰めたガヴィエラの表情からするに、彼女も予想はしていたのだろうと察する。
「残念な事に、軍も聖人君子の集まりではないからね…君を見ていると、ある種の想像がついてしまう。……後で、階下でスカーフでも買ってきて貰った方が良いだろうね……」
静かに呟いたルグランジェは、水杜を怯えさせないように、そっと、ブラウスの襟を持ち上げた。
「……っ!」
僅かに覗く、首筋から鎖骨にかけて――見えるのは、幾つもの小さな赤い跡。
水杜はルグランジェの手を振り払うように俯いて、ブラウスの襟元をギュッと握りしめた。
「お願いします。どうかこれは、墓場まで――」
「承知した。君が血を流しているのが、身体ではなく精神だけで、秘匿を是とするのであれば――私は口を噤むよ。医者の守秘義務に則ってね。だからもう一度だけ聞いておくよ。……それで良いんだね?」
はい、と水杜は小さく頷いた。
「私が……本当に嫌だったんだとしても、多分それは、誰にとっても重要じゃないんです。重要なのは、私が〝使徒〟と繋がっていると、指摘が可能な、この状況だけ。それは確実に、本多く—―本多少将を、不利な立場に追いやってしまう。彼は、現在の軍に必要な人です。例え私が、裏で何を言われようと――この話は、死ぬまで外には出しません。どうか、ご協力下さい」
「——そうか」
ざわり、とルグランジェの身体が総毛だった。
正直、地球国立図書館の保護を受け、兵役を忌避してきた、深窓の御令嬢――程度の知識しかなかったルグランジェにとって、見せつけられた、彼女の「覚悟」の重さは、衝撃的だった。
決して盲目的ではなく、上官のために、己が受けた仕打ちを、胸にしまいこめる士官は、はたして現役軍人の中でも、どれほどいる事か。
「本多少将には、君が忠義を尽くす価値があると……?」
「そうですね……ただ、今は、私が、私に価値を見いだせていないので…忠義を尽くす日なんて、もしかしたら来ないのかも―――」
「っ、水杜さん!!」
僅かに震えている水杜の手と、涙よりも辛く見える微苦笑を目にしたところで、ガヴィエラの中の、何かが切れた。