水杜Side1:追跡2日目(8)
「一面の葡萄畑が広がって、美味しい料理を出してくれる所だったのに……残念だな」
その頃、アルシオーネ・ディシスと若宮水杜は、町のはずれにある、廃業したワイナリーの跡地へと来ていた。
併設されていたオーベルジュは、かつてはシビラ大の陸上部の常宿として、二人も幾度か訪れた所である。
今はただ、廃墟の洋館と、枯れた葡萄の木々が周りに広がるばかりだ。
広がる景色に目をやるアルシオーネの言葉は、どちらかと言えば独白に近いものだった。
“束縛の手枷”の影響なのか、水杜は時折、辛そうに顔をしかめる事があり、恐らく、眼前の景色は目に入っていない。
「………ごめん」
そんな水杜の右手を、静かに持ち上げたアルシオーネは、“腕輪”から手のひらにかけて、静かに口づける。
ビクリ、と水杜の身体がこわばった。
「ここには、前の持ち主が収集していた、作家ヘレネ・フレッサのコレクションが、まだそのまま、本棚に残っていると聞いたんだ。来月取り壊すまで、置いておけるところが他になかったと言ってね。だから、何冊か拝借して、ホテルで読もうと思って、君を連れて来た。昼間から、何度も君を抱くような事はしないよ……あと少し、あと少しで良い。僕は以前のように、君と過ごしたい――」
ここに来る前に、周囲は十分に確認した筈だった。
だがわずかに、洋館の前の砂利道を踏みしめた足音が聞こえ、アルシオーネはそこで、弾かれたように後ろを振り返った。
「シオン様」
ネクタイもなく、くだけた紺色のスーツ姿でそこに立つ、一人の男。
「カート……っ」
カテリーナ・ディシスが、アルシオーネの側近にと付けた、カート・ジェンキンスが、たった一人で、そこに佇んでいた。
スーツと同系色の髪と瞳が、全体的に冷やかな印象を強く与えている。
「私にもご相談いただけなかったとは……残念 に思いますよ、シオン様」
男は水杜を一瞥し、臆す事なくアルシオーネの厳しい視線を受け止めていた。
「君は姉さんに命じられた、僕の事実上の監視役だ。彼女を殺してしまえと、そんな回答の分かりきった相談を、誰が持ちかける?」
「事と次第にはよりますよ。私は組織に忠誠を誓う者であって、あなた様にも、カテリーナ様個人にも、無条件に従うものではありません。だからこその『監視役』なのですよ。そこのところを、あなた様はまだお分かりではない」
「だが君は、手分けをしているんだろうが、姉さんと共にここへ来た筈だ。違うか?」
「否定はしません。ですがあなた様を追う過程で、軍の人間には阻まれ、軍警察には拠点を幾つか潰されてしまいました。カテリーナ様も、今は組織の存続を優先させなくてはと、個人的感情をねじ伏せておいでですよ」
「⁉」
何気に告げられたジェンキンスの言葉に、アルシオーネが目を瞠った。
「軍が……動いたと言うのか?彼女はまだ、軍属の身分ですらないと言うのに」
「私はあなた様ほど機器に詳しくはありませんが、誰かが、どこからか情報を得て、我々を追い詰めようと画策している事は確かです。我々はもとより、軍警察や保安情報部の一斉検挙で今、軍内部も蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていますよ。ただ同時に、あなた様の動きも掴む事が出来たのは、思わぬ副産物ではありましたが」
「……っ!それでは意味がない!それでは“アステル法”諮問会の本筋は、外れたも同じだ……っ」
それどころか下手をすれば、諮問会そのものものが延期となり、若宮水杜を捜すだけの時間をまた、軍側に与えてしまう――。
アルシオーネは唇を噛みしめて天を仰いだ。
「優位だったリバーシの駒を、いきなり引っくり返された気分だよ、カート……!」
怒りよりも、自嘲をこめて呟くアルシオーネに、ジェンキンスは敢えて感想を差し挟む事はしなかった。
「『ホテル・ヴィクトリア』にて、カテリーナ様がお待ちです。ご同行願えますか」
「……分かった」
一瞬の瞑目のあと、アルシオーネが諦めたように頭を振った。
「ただし僕だけだ。彼女を、姉さんの前には連れていかない。それから君もだ、カート。彼女の護衛として、ここにいてくれ。僕は……いや、姉さんと僕は、少し二人だけで、話をしなくてはならないようだ」
「護衛、ですか」
「君が僕にも姉さんにも無条件では従わないと言うなら、今はまだ、彼女を誰にも引き渡さないと言う選択肢は取れる筈だ。違うか?」
「……承知いたしました」
アルシオーネの論法に、どこまで納得したのかは定かではないが、ジェンキンスは恭しく頭を下げて、アルシオーネに恭順の意を示した。
「……シオン……」
引きとめようと思った訳でも、何かを伝えたかった訳でもなかったが、それでも水杜は、立ち去りかけたアルシオーネに、声をかけずにはいられなかった。
一瞬、アルシオーネの足が止まる。
「君には謝らないよ、水杜」
――その口元に、哀しげな笑みを浮かべて。
「誰の為でもない。僕が、君を留めておきたかったんだ。……もっと早く、強引に、君を連れ去っておけばよかったよ」
「それだと、私たちが死ぬまで、時代は何も変わらない。シオン、少なくとも10年後、未来が変わるための努力を、あなたは認めないの……?」
「時代、か……僕は何度もそれに裏切られてきたよ。少なくとも今、僕はその言葉を信じようとは思わない」
「――――」
もはや埋めようのない、深い溝がある事を、二人ともが自覚した瞬間だった。