天樹Side1:追跡1日目(15)
「……っ」
コンピュータ作業に没頭していた天樹の頭を、突然軽い衝撃が襲った。
「……?」
パソコン画面から、視線を引き剥がすように振り返ると、そこには一冊の本を片手にした、若宮貴子が立っている。
「貴子さん?」
「力加減はしたつもりなんだけど。何度呼んでも、あなた聞いてくれないんだもの」
「……すみません」
「あなたに電話……と言うと、少し語弊があるのかしらね?多分、私よりもあなたと話をする方が良いと思ったから、代わってくれるかしら?カーウィン……准将って言ったと思うんだけど」
「――カーウィン?」
天樹には読めない言語の本を、手近な「山」の上に戻して、貴子はさっと部屋を出て行く。
その背中と、置かれた本に一瞬だけ複雑そうな視線を投げたものの、天樹が彼女に反論出来よう筈もなく、黙ってその後に従う。
『閣下――?』
TV電話越しのカーウィンの声は、明らかに天樹がそこにいる事を知らなかった、戸惑いの声だった。
「よく、ここの番号が分かったな、准将」
『国立図書館の事務員に番号を聞きました。回線も、現在は将官専用のA回線を使用しています。ある程度までの侵入の心配はありません。……いえ、それよりも私は……』
カーウィンは手短に、天樹が倒れた件と、ガルシア副局長の来訪、そしてガヴィエラ率いる空戦隊〈ジュノー〉隊副長、アンリ・エノー大尉の「身代わり」の件とを説明した。
はは……と、天樹が小さく笑った。
「ウチの幕僚は、いろいろと、俺の思いつかない事を考えつくんだな」
『閣下の通常業務は私が預かります。空戦隊の業務は、ハインツァー中佐が預かるでしょう。それでエノー大尉を含め、ランドール大尉やマーテル少佐らが、そちらに出入りさせていただいてもいいものかどうか、若宮女史に伺えればと思ったのですが――ガヴィらの言う3日の間、閣下がそちらに留まられるおつもりだったであれば、自ずと別の対処法も出てきますが、どうなさいますか?』
天樹は一瞬、考え込むように目を閉じた。
「俺は今日の夜か、明日の朝にはここを出て行くよ、カーウィン」
『では、閣下………』
「若宮さん本人にも、騒ぎを避けるために、地区内のあるホテルへ無理やり移って貰っている。多くの軍人をここへ出入りさせたところで、小細工が目立つ気もするが……」
若宮水杜が、現在行方不明である事を、今ここでカーウィンに告げるつもりは、天樹にはなかった。
もちろん、それを悟られるような事もしない。
『ではいっそ、ご家族にもお移りいただいたらいかがですか。そうすれば、閣下にとって後顧の憂いもなくなるでしょう』
「…………」
カーウィンに、少しだけ待つよう天樹は言い、電話回線を繋いだままの状態で、台所で昼食の用意をしていた貴子に、声をかけた。
「仮に今から、俺が用意するホテルに移って下さいとお願いしても、首肯しては貰えないんでしょうね、貴子さん?」
始めから諦めた風の声色の天樹に、苦笑しつつも、貴子が振り返った。
「敢えて答えを聞きたい?」
そう答えると分かっていた天樹も、二度は言わず、カーウィンに聞こえない程度に、声を落とす。
「いえ……ただ若宮さんと俺は、3日後の諮問会まで、騒ぎを避けるために、地区内のあるホテルに避難している事になっています。その不在を取り繕うために、部下の何人かをここに置いておきたいという話になっているんですが……」
「あなたは軍の将校ですものね。今、ここにこうしていてくれるために、どれほどの労を割いてくれているのかは、私なりに理解しているつもりよ」
「この期に及んでも、若宮さんの事を公に出来ない軍の事情を、責めて貰った方がいっそ有難いんですが…俺の我儘ですね、きっと」
「もう、あなたはどうしても、こういう話を嫌味と取ってしまうのね。仕方のない性分ね、ホント」
「……すみません」
「あなたは、水杜の不利になる事はしない。そうでしょう?」
「もちろんです」
「私にはそれだけで、充分よ。あの子の帰る場所がここである以上は、私はここを動く事はしないけれど、それ以外の事にまで口を挟みはしないわ」
「……貴子さん……」
天樹は深々と一礼すると、電話の向こうで待つ、カーウィンの元へと戻った。
「この家を、空けておくわけにはいかないと言われたよ。俺以外は、初対面の赤の他人になる訳だから、当然の反応だろう」
『承知しました。では当初の計画通りエノー大尉らをそちらへ向かわせます』
「准将、成り行きによっては、全員が前線送りになるかも知れないとは、考えなかったのか?おおかた、グリースデイド大佐あたりの発案だろうという想像はつくが、准将がそれを止めなかったのは、意外だったよ」
『下手に止めて、後で暴走されるよりも、私の苦労は少なくてすみますから』
「――――」
真顔で答えたカーウィンに、天樹は一瞬目を瞠り、そして微笑った
。
「短い時間の間に、随分と大佐の性格を把握したらしい」
『閣下のおかげをもちまして』
「キツイな」
『何もせずにいれば、閣下の身のみが危うくなる。逆に行動を起こせば、その危うさが、閣下独りでなく、自分たちの身にも振りかかる――どちらを取るかと問われて、前者を取る者はいないでしょう。少なくとも、一年前の〝サン・クレメンテの戦い〟を、共に戦い抜いた者の中にあっては』
「……そう言われて、俺が喜ぶと思うかい、准将?」
『いえ。それにグリースデイド大佐以下、彼らの忠誠心が、行き過ぎて、第九艦隊の軍閥化の印象を加速させないように、緩衝役としての私が配された事も分かっています。それでも今回は、私は彼らを止める事はしません』
「何故?」
『私は何度も上官を失う気はありませんので』
常人なら圧倒されたに違いない、それは口調と表情だった。
およそ六年前、当時第七艦隊の副司令官だった、ボブ・ウッドワード准将の副官として、順調な昇進を重ねていたカーウィンは、一度、所属艦隊の全面敗走という、生死の境を経験していた。
ウッドワードの最後の機転によって、命を永らえたカーウィンだったが、その後の冷遇は思いのほか長く、一時ガヴィエラやキールの入学していた時代には、士官学校の教鞭をとっていた程だったのである。
そこから現在の地位になるまでの経緯を、天樹は詳しく知る訳ではない。ただ、第七艦隊は、司令官個人の能力によって敗れたのではなく、幾つかの艦隊を束ねていた総司令官の意向で、先陣つまり「囮」として死地に置かれたが故の敗走であったのだ、とは幾つかの筋から耳にしている。
――その「総司令官」が「誰」であったのかも。
自分自身の意地とプライドによって、譲れない「何か」を抱えて、カーウィンは現在の地位まで再び昇りつめてきたに違いなかった。