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虚空のシンフォニア――序奏・黎明の迷宮――  作者: 渡邊 香梨
第三章 再会の波紋
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水杜Side:レイニーデイ3

 古書の香りが漂うその部屋は、もはや水杜にとっては、第二の我が家と言っても過言ではない。

   

 あらゆる時代の、あらゆる人間の、生きた証がそこにあるのだ。


 この先、そんな文献の1ページに、己の名が載ることもあるのだろうかと…考えなかったと言えば、嘘になる。


「人生なんて、予測のつかないものよね……」


 幾つ歴史書をめくったところで、自分や本多天樹の生き方が、一般的でない事を思い知らされただけであった。


 戦争と歴史が、いつの時代も、絡み合ったまま時を重ねている事を、認識していなかった訳ではない。


 ただそれを、普遍的なものと位置づけてしまっては、あまりにも自分達の存在が愚かであるように思えて、足掻いてみたかったのである。


 結果的に、それが後世の議論の的になったとしても、だ。


「戦争を終わらせるため、私に出来る事……か」


 ほとんど無意識のうちに、本多天樹の言葉を繰り返しながら、水杜の手は、本棚の一番高い棚にあった本へと伸びていた。


 書籍名を「歴史の肖像」というその本は、そこから見える人間の愚かさとを、痛烈に書き記した、古代の著書だ。


 この著者は、生きていれば、今のこの時代をどんな風に捉えたのであろうか――かつての自分であれば、反発を覚えずにはいられなない本だったのだが、環境の一変した現在、自分はこの本を、改めてどう読むのだろうか。 


 水杜は、そんな衝動にかられたのである。            


「!」 


 だが、まさかそれを遮る手があろうとは思いもせず、不意を突かれた水杜は、凍り

ついたように、そこで手を止めてしまった。


「……君はこの本が嫌いだと思っていたよ」

  

 気品に満ちた、柔らかな声。


 顔に浮かんだ驚愕の色を、完全に消し去る事が出来ずに、水杜はその場に立ち尽くした。


 それはこの時間に、図書館に、警備以外の人間がいると言う驚きではない。


 本多天樹が訪ねて来た時の驚きとも、少し違っていた。

  

 ――何故なら、この声には天樹ほどの懐かしさを感じさせない程の、聞き覚えがあった。


 目を見開いたまま、ゆっくりと、水杜は背後を振り返る。


「シオン……先輩」


 濃い紫の髪は、長く無造作に、襟元で束ねられていたが、かもしだす優雅さと気品は、少しも損なわれてはいない。


 シオン、は愛称であり、正式な名前はアルシオーネ・ディシス、水杜の大学時代の、2年先輩。


 兵役を拒否して大学に進学し、在学中から地球(テラ)国立図書館の援助を受け、そのまま卒業後、図書館に就職したという点では、水杜と非常に似た立場(スタンス)を取っていた青年であった。


 いや、どちらかと言えば、水杜が彼の影響を少なからず受けたと言った方がいいのだろう。母と移住してよりこちら、彼はこの首都(アルファード)での、数少ない知己の一人だったのである。


「……先輩、か」


 ただしそれは、今現在にまで該当する話ではない。


 彼は二年前に、突如として図書館を辞めて、巷で名だたる反戦組織へと、身を投じていたのだ。


 アルシオーネが複雑な呟きを漏らしたのも、そんな経緯に自分でも思い至ったからだろう。


 回想を断ち切るように、ゆっくりと首を横に振った。


「そう長く勤めていた訳じゃないが、とりあえず、デフォーさんには忘れられていなかったようで、少しほっとしたよ。もしそこで止められていたら、君は会ってくれたかどうか、分からないものな」 


「それは……そんなことは……」 


 まともに視線を合わす事が出来ない以上、その言葉に説得力がないのは、水杜自身よく分かっていた。


 アルシオーネの視線が、じっと自分に向けられているのが分かる。


「本当は、今朝ここに着いていたんだ。だけどまあ、この地を離れて長い僕にしても、いろいろとやる事はあって、こんな時間になってしまった。もっとも、君ならば帰宅している筈はないと、思ってはいたけどね」


「先輩、やっぱりまだ“使徒(ディシス)”に――」


()()はよさないか、()()


「……っ」


 その言葉は、静か過ぎるが故に、水杜の心へと深く突き刺さった。


「僕は僕なりに、この国を憂いているつもりだった。だけど、どうやら僕では、君の心を動かす事は出来なかったみたいだ」


 そのアルシオーネの、意味ありげな言い回しの真意を、水杜が察したのは、一瞬の事である。


 どうして、と小さな呟きが口から漏れた。


 本多天樹が“アステル法”をもって、水杜を軍へと招聘した事は、まだ軍内部でさえも、ほとんど知る者はいない筈なのだ。


 だが、彼は知っていた――水杜がイエスと答えた事、それさえも。


 その事実は、水杜に驚愕よりも悪寒を与えた。


 アルシオーネは、そんな水杜を、表情を殺して、見つめている。


「確かに本多天樹という人間は、軍においても良識派だと、もっぱらの噂だ。だが彼は、軍の全てを掌握している訳じゃない。それどころか、内部争いで己の側近を奪われたとも聞いている。そんな彼に、いったい何が出来ると君は思ったんだ?君の情報が、こうやって軍の内部から早々にリークされてくる事自体、軍という組織の救いのなさを示していると思わないか?僕には、君の軍隊入りは、到底看過できた事じゃない」


「違う!全ての人に理解される事だとは思わないけど、でも私……は……」


 ――水杜の言葉は、そこで、ふいに途切れた。


「……え……?」 


 何が起こったのか、水杜自身にも、すぐに理解が出来なかった。

 

「な……に?」


 くらり、と視界が傾いたのだ。

 そして、己の意志で、指一本身体を動かせない事に、彼女は愕然としたのである。


(君はこの本が嫌いだと思っていたよ)


その時重ねられた手に、小さな刺し傷がついているのを、水杜は確かに目にした。


「あまり威力のあるものだと、後々、君に後遺症が残っても困るからね」


 だが、そう言ったアルシオーネの表情を窺い知る事までは、水杜には出来なかった。


「……シ……オン……」


 ゆっくりと崩れ落ちる身体を、アルシオーネが静かに抱き止める。


「変わらないな、水杜」


 囁いた声は、もう水杜の耳に届いてはいなかった。


「ここにいると、君は狙われる。僕が“使徒(ディシス)”を押さえておけるのにも、限界がある。僕は君がみすみす彼らに狙われるのも、看過出来ないんだよ……」


 水杜の身体を軽く抱き上げたアルシオーネは、一瞬だけ、部屋の中の古書の山に、懐かしげな視線を投げた。


「こんな風になる前に、もっと強引に、君を攫っておけば良かったのかも知れないな……」


 現在の警備責任者であるデフォーとは、もとより知らない間柄ではない。

   

 そして何より、水杜の日頃の行動・生活パターンを思えば「過労で倒れたようだから、家まで送り届ける」と言ったところで、疑問には思われない。


「それじゃデフォーさん、お元気で。また来ます」

  

 その後、車が水杜の自宅とは、全く逆の方向に走り去った事にさえ、誰も気付いてはいなかった。 


 ――その日、雨は降り止まなかった――

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