ガヴィSide1:第九艦隊の事情1
人事部のグレッグ・ディーン大佐から提出された一通の書面は、その日地球軍の上層部に、金星軍が攻め込んで来たにも等しい衝撃を与えた。
通常“アステル法”は、諮問会を経て公式発表の手続きがとられるその日まで、全くの非公開である。「アステル法の諮問会が行われるらしい」という噂は出ても、「誰が」という話になると、公式発表までは明らかにならない。まして下士官以下ともなると、その噂さえ、伝わらないのが普通である。
ところが今回は、上層部の動揺がどこからともなく伝染したのだろう。憶測の嵐が、軍全体をあっという間に包み込んだ。特に本多天樹少将の麾下にある士官・兵士たちの間で、その「嵐」は吹き荒れた。
“アステル法”を行使出来る権限を持つ将官の中で、急務に優秀な部下を欲しているのは、参謀を失った自分たちの上官以外には有り得ないと分かっていたからだ。
どうせ十日もすれば分かる事ではあるのだが、湧き上がる好奇心は止めようもない。兵士達は、自分達の上官に対し徒党を組んで質問攻めを始め、分からないとなると、更にその上官を当たるという行為を繰り返し始めた。
そうして、話が尉官級から佐官級へと辿り着く頃には、その数はねずみ算式で膨れ上がっていたのである。
「リーン少佐、本当なんですか?デュカキス大佐の後任が、今度“アステル法”の諮問会で承認される民間人だっていうのは」
「本多少将や、カーウィン准将から何か聞いてらっしゃるんでしょう?」
「どんな人なんですか?」
「上層部が、いつにもまして慌ただし過ぎますよ。そんなに大物なんですか?」
「少佐――」
「う・る・さぁーいっ!」
宇宙局の事務連絡オフィスが並ぶ廊下を、あからさまに両手で耳を塞いで歩いていた金髪碧眼の美少女が、ついに耐え切れなくなってか、後ろを振り返って、一喝した。
廊下が一瞬にして、静まりかえる。
「そんな昨日今日の噂、誰が知ってるって言うのよ!三流事件記者みたいな真似しないで、時間の無駄!うわっ、エノー大尉まで……さっさと持ち場に戻るっ、もうっ!」
「リーン少佐、そこをなんとか」
「少佐ぁ」
「却下っ!」
頭の高い位置にあるポニーテールを翻した美少女は、踵を返して歩き出した。
さすがにそれ以上、徒党を組んで食い下がれなくなった兵たちは、不承不承各々の所属部署に戻り始める。
知るも知らぬも、彼女が関心を示さない以上は、その先には進めないのだ。
見た目にも若い彼女だが、21歳にしての少佐職は、もちろん軍の最年少記録であった。
本多天樹の旗艦〝アビタシオン〟に所属する空戦隊〈ジュノー〉隊の隊長として、艦載戦闘機を駆使するガヴィエラ・リーンの腕は、間違いなく軍の内部で一、二を争う。
その彼女の気迫に押されたためか、彼女が実にさりげなく、佐官級士官の為に与えられているオフィスの前を通り過ぎていった事に、この時は誰も気が付いていなかった。
――ましてや第九艦隊の副司令官、リカルド・カーウィン准将のオフィスに足を踏み入れていた、などとは。
「カーウィン!」
階級と氏名を名乗り、扉の開閉システムが作動するのもそこそこに、ガヴィエラは通りの良い声で、勢いよく部屋の主の名を叫んだ。
「ガヴィ……」
少佐が准将のオフィスを訪れるにしては、尋常な訪ね方ではないのだが、どちらもその事には、あまり頓着していない。
椅子に座り、机に向かっていた(はっきり言えば仕事中だった)青年が、ふと口もとに笑みを覗かせつつ、顔を上げた。
部屋の主リカルド・カーウィンも、まだ29歳と、ガヴィエラや天樹ほどではないにしても、若い。
もともとは第一艦隊に所属する艦隊の艦長を務めていたのだが、その艦隊運
用能力の高さから、第九艦隊の副司令官としての抜擢を受けて、今日に至っている。
だが初対面の人間は、銀髪にサファイアの瞳という、およそ全軍を見渡しても、二人といないであろう、その容貌に、まず目を奪われる。
ガヴィエラは第九艦隊発足以前からの知己であり、今更そんな驚きを見せる事はしないのだが、そうでなくても日頃から、この年下の友人は、他人の容貌には無頓着であった。
「まあ……来るだろう、とは思っていた」
この時も、カーウィンの苦笑未満の表情の意味を、読み取る事の方に熱心である。
「やっぱり将官クラスは聞いてるんだ?今回の“アステル法”の諮問会に誰が来るのか――」
「カーウィン!」
その時、オフィスのドアはまたしても予告なく開いて、カーウィンの副官である、ゲイリー・バークレー大尉を呆れさせた。
確かに、彼にとってそれは既に珍しい光景ではないのだが、それにしても、こうも傍若無人に、准将のオフィスに人が出入りして良いものかとも、思うのである。
バークレーの青みががった黒髪が、予告なき訪問者の登場に揺れて、そして同じ色の瞳が、ゆっくりと、その訪問者の姿を捉えた。
一方の、会話を中断された格好のガヴィエラも、恨めしげな視線を背後へと投げたものの、それは訪問者の正体を既に予期していたが故の、一種親しみのこもった視線でもあった。
「キール……」
お前もか、と小さく呟いたのは、カーウィンである。
キール・ドワイト・レインバーグ少佐は、本多天樹旗艦〝アビタシオン〟に所属する空戦隊〈ジュピター〉隊の隊長であり、ガヴィエラ・リーンと、軍の一、二を争うパイロットの一対として、その名を知られている。
ガヴィエラ・リーンと全くの同期である彼もまた、最年少の少佐であり、カーウィンにとっては、こちらは弟にも等しい存在であった。
「もう、朝から周りがうるさいのなんのって。ただ実際、俺も気にはなるし、当の少将閣下殿は、まだ来てないみたいだし。これはもう、カーウィンを当たるしかないと思ってさ」
あちこちで質問攻めにあった事を思い返したのか、キールは煩わしげに、乱れていた琥珀色の髪をかきあげた。
そうそう、と我が意を得たりといった風に、ガヴィエラも頷いている。
カーウィンはわざと一息つきながらも、そんな二人をしばらく見比べていた。
その特異な容貌から、どちらかと言えば他人には敬遠されがちなのだが、だからこそ、二人の気安さが心地よく思えるのかも知れない。
「……そして結局、おまえたちも外の下士官たちと同じ事をしに、私の所へ来た、と」
ガヴィエラが怯み、キールが表情の選択に困ったのを楽しむかのように、カーウィンは形の良い指を、机の上でリズミカルにタップさせた。




