水杜Side4:母と娘
「あらおかえり。毎日飽きもせず、こんな時間まで図書館にこもって。我が娘ながら、色気のないこと」
将官として、広い敷地を持つ本多天樹の居住区に比べれば、より首都の中心地にほど近い地区に、若宮水杜の自宅はある。
その規模は、二人住まいながら、本多天樹の住居よりも小さい。
要はごく一般的な、普通の平屋の一軒家だ。
そして一人娘の、夜更けの帰宅ざまにそんなセリフを言ってのけたのは、誰あろう母親の、若宮貴子だった。
どちらかと言えば、常に落ち着き払った印象を周囲に与えがちな水杜と違い、貴子を包む空気は、常に活気に満ち溢れている。
若宮水杜が父親似であるというのは、衆目の一致するところだった。
「……ただいま」
色気があろうがなかろうが、水杜の日々が自宅と図書館との往復で費やされていることは事実であるため、彼女としては非個性的な返事をするしかない。
「シチュー温めなおすわ。食べるでしょ?」
「……うん」
軽快な足音をさせて、キッチンへと消えていく貴子を見やりながら、水杜は微かにため息を吐き出した。
(まいったなぁ……何て言おう)
本多天樹の来訪と、それに付随する話をどう切り出すべきか。
一人で帰路についた事で、遠回りまでしてあれこれ悩んではみたものの、結局妙案が思い浮かばず、帰宅してしまったのだ。
(だから、買い被りだっていうのよ)
自宅の外では「女史」とまで呼称される立場でありながら、いざとなればこの体たらくである。
これまででも、親孝行をしていないという自覚は充分にあった。兵役金などという、言わば無駄金を払ってまで、軍に背を向け続けているのは、あまり利口な世渡り術であるとは言えない。
法の「抜け道」はもう一つ――義務兵役は、兵役時点で既婚となっている女性には適用しないという規定があったのだから、母親の事を思うなら、さっさと誰かと結婚して、兵役対象からは抜ければ良かったのである。
『好きにすればいいわ。あとでこっちに泣きつくような真似さえしてくれなきゃね』
たとえ貴子がそうやって、水杜の進路に一度も異を唱えなかったとしても、である。
一見して非常識ととれる娘の行動に、何ら制約を設けないというのは、並大抵の度量ではない。戦争の終らない世の中で、父親さえいない家庭にあっては、尚更である。
水杜の知る限り、母・貴子が軍を誹謗したり、世の中を憂いて見せたりした事は一度もない。
それ故に、水杜は母親の反応を全く予測する事が出来ず、途方に暮れていたのである。
「あぁ、そうそう」
そんな水杜の心中を、知ってか知らずか、いたって陽気な声が、その時キッチンから投げかけられた。
「さっき、本多君から電話あったわよ。ほらあなたが中学・高校と一緒だった」
「…………え?」
水杜はこの日、本多天樹の言葉に続いて、二度目の絶句をさせられる事になった。
上着を脱ぐ手を止めて、キッチンの方へとゆっくり足を向けた。
「お……母さん?」
「5年ぶりくらいになるのかしら?真面目が服着て歩いてるような印象は相変わらずだけど、今や軍の少将閣下なんですってね?驚いたわぁ」
食事を並べながら、あっけらかんと貴子は言ってのける。
「…………」
つまりは既に全部、伝わっていると言う事なのだろう。
水杜はしばし、己の徒労を思いやるように天井を仰いで、それから再度深々とため息をついた。
「信じらんない……」
「相変わらず、あちこちで買い被られてるわねぇ、あなたも。しかも昔、ほんのちょっと、人より良く出来たってだけでしょ?後でその反動が大きく来ないか、そっちの方が心配になっちゃったわよ」
明るく笑い飛ばしてのける貴子に、水杜の中にたゆっていた、深刻と言う名の感情にヒビが入る。
昔ほんのちょっと、は余計じゃない⁉と、ついカッとなって言い返してしまった。
「それじゃ、私の人生の絶頂が、学生時代で終っちゃったみたいじゃない!だいたい、何で私が今日遅くなったと――」
「あら、なに。私のためとでも言うの?半人前の娘に心配されるいわれなんてないわよ。そんな余裕があるんなら、もっと己を磨く努力をしてほしいわね」
「……っ」
しかし過去、水杜が母親を言い負かした例は、皆無に近い。
水杜は力が抜けたように、キッチンのテーブルに、がっくりと手をついてしまった。
「ほんっと、信じらんない……」
「修行が足りないのよ」
もう一度、深い溜め息とともに吐き出された水杜の言葉を、貴子は一蹴した。
「それで?あなた、どうしたいの?」
だがふと、その声から冗談の要素が消えた事に気付いた水杜が、顔を上げた。
「どう、って……」
「本気で受けるつもりなのね?その、本多君が言った“アステル法”を」
――母娘の視線が、交錯する。
だが沈黙を嫌ってか、水杜の方が先に、貴子に対して口を開いた。
「受ける……つもり。『金星軍を打倒するんじゃない、戦争を終らせる為に協力してほしい』なんて言われたら、断る理由に困るもの。理想論だ、なんて科白は、図書館にこもっている私だけは、言っちゃいけない科白だから」
「……そう……」
答える貴子の目が、わずかに見開かれた。
やはり本多天樹の発想は、軍人の発想としては、意表を突くものなのだろう。
「それで水杜も……その考え方に魅かれたのね」
「本多君以外の人が言ったなら、確かに一笑に付したかも知れない。でも、本を出す事より、巷の反戦運動に加わる事より、よほど建設的だと思ったのも確か。少なくとも、私が望んだ途が――拡げられる、気がした。だから後悔して泣きつく事はしない……と、思う」
一語一語を、かみしめるようにゆっくりと呟いた水杜に、むしろその意志の固さを見せられた思いで、貴子は微苦笑を浮かべた。
口数は少ないが、実は意外と頑固だった若宮透に、ますます似てきたと、思ったのかも知れない。
「そう。それさえ分かっているならいいのよ」
貴子はそれだけを言って鷹揚に頷いて見せると、おもむろにシチュー鍋を手に取った。
「さ、邪魔だからさっさと退いて、着替えてきて」
「お母さん……」
「何、結局食べるの、食べないの、どっちなの?」
「……食べます……」
やられた、と水杜は心の中で思った。
事前に本多天樹から電話があったというのだから、さほどの驚きがなかったのは当然だとしても、水杜の性格からして、自分から話を切り出しにくいだろう事、貴子の返答次第では、ためらいながらも、断りかねないだろう事を察して、わざと今みたいな言い方をしたのだと、気が付いたのだ。
自分が、水杜の進路の妨げとならないようにと。
これ以上は貴子を怒らせるだけだと察して口をつぐんだのは、母娘関係のなせる業だろう。
(ありがとう……そして、行ってきます)
父の夢をなぞり、父と同じ途を征く。
その生き方を笑って認めてくれた貴子に、水杜は黙ってキッチンの方に向かって、頭を下げた。
口にせずとも伝わったと信じて――。