紙飛行機
「フライトは予定通りに行われており、当機は定時に着陸予定です」
機内アナウンスは穏やかな声で告げた。私はシートを僅かに倒して目をつぶる。まだしばらくかかりそうだし、到着までできるだけ寝ておこう。到着したらすぐに現場に向かわなくてはいけないのだ。ありがたいことに隣は空席で手荷物を置かせてもらっている。キャビンアテンダントは先程飲み物を置いていったから誰にも何も邪魔はされまい。
「静かにしろ」
「⁉」
突然の声に機内がどよめき、そしてすぐに静かになる。後ろの方の窓際の席で何が起きたかわからない私は混乱しつつも体を起こし、通路を覗こうとするが、やってきた男性に制止された。
「座れ。不審な動きをこちらが認めた場合はその場で死んでもらう」
小銃を額に押しつけられる。その冷たさで意識が遠のきかけるが、ともかく座り直す。
これは、一体なんなのか。考えがまとまらず、頭の中はぐちゃぐちゃと迷走する。
「全員シートベルトを装着しろ。抵抗はしないように。弾を無駄にしたくないし、ナイフを汚したくもない。乗務員も席に着け」
低く無感情な声が淡々と指示を出す。まるで地響きのような声で、胃がぐらぐらする。吐きそうになるのを堪えて指示通りにシートベルトを装着した。
その後しばらくは指示がなく、静かな時間が過ぎる。どうやら少なくとも三人の男性が客室を占拠しているらしい。一番前に一人いて、時折ぼそぼそと指示を出していて、あと二人はうろうろと客室内の見回りをしている。全員が真っ黒の目出し帽に全身黒ずくめの装備で小銃を持っている。わかることはそれだけだ。きっと機長室や荷台なんかにも仲間が何人かいるのだろう。今は機長室で要求を突きつけたり拒否されたりしているのかもしれない。
彼らの目的はなんだろう。暇だから……というのはあまりに暢気だけど、あまりにあんまりな状況に感情が高ぶっているから、それを沈めるためにも、なにか考え事をしていたかった。
(例えば、政治的なことが目的だとして)
まあ、おそらくそうなのだろう。政治的でないその他の理由で行われるハイジャックとは? 逃亡や亡命? それならハイジャックをすることで逆に目立ちそうだ。
思考を戻そう。政治的なことが目的だとして。この後予想される動きはなんだろう?いつかの事件のように某国の自爆テロへの道連れにでもされるのだろうか。冗談じゃない。
「そろそろだな」
見回りをしていたうちの一人が、私の横に立ち止まって呟いた。彼はキョロキョロと辺りを見回してから、素早く私の隣に腰を下ろした。
「今回はこんな出会いで残念だよ、透子」
「⁉」
なぜ、私の名前を。私にはハイジャックするような知り合いはいない。しかし彼は押し殺した声で続ける。
「静かに。俺と君は知り合いではない。しかし俺は君を知っている。もっとも思い出したのは乗客名簿を確認したときだけど」
言っていることの意味がわからない。思い出した? 彼は、何を言っているのか。しかし私が口を挟む隙がないまま、話は続く。
「もうすぐこの飛行機は落ちる。紙飛行機のようにね。こんなとこで自爆なんてどうかしてるが仕方ない。今回はそうなんだ。最期に会えて良かった」
目出し帽が外され、短い髪と浅黒い肌があらわになる。真っ黒な瞳がまっすぐ私を見つめた。
「俺の名前は臼井健介。次は……もうちょっとマシな出会いになるといいな。それじゃあ」
さようなら、透子。そう言って彼は目出し帽を被り直し立ち上がった。同時に機体が大きく揺れる。後方で爆発音が聞こえて、振り向く前に左右からも大きな音がするけど、それはもう音というより振動で、直接体を揺さぶられているようで気持ちが悪い。
気付けば客室内は阿鼻叫喚で、女性の悲鳴や男性の助けを求める怒鳴り声が渦巻いていた。反対の窓側に座っていた家族連れの内、母親が顔を蒼白にして赤子を抱きしめ、赤子は泣きもせずに母親にしがみついている。父親は必死にどこかへ電話をかけ、空いている手で妻の手を握っていた。
……私は一人で彼らを眺め、それから外を見る。翼から煙が上がっているのが見えた。きっと混乱しているから気付いていないだけで、この飛行機は彼が言ったように紙飛行機のように落ちつつあるのだろう。それが私、木原透子が考えた最後のことだった。