ステッキ
公園のベンチで休んでいると、ステッキを持った男性が私の前で立ち止まった。
「今回は出会うのがずいぶん遅くなってしまいました」
「えっと……どちら様ですか?」
見た目は紳士の彼は、たぶん知らない人だ。紳士は私の疑問に笑顔を返す。
「おっと失礼。わたくしは臼井健介と申します。木原透子さんでいらっしゃいますね」
恐る恐る頷くと紳士はお隣に座っても? と首を傾ける。
「どうぞ」
「ありがとう」
腰を下ろした彼は遠くの方を眺めながら穏やかな笑顔のまま話し始めた。
「わたくしの家は戦前から続く貿易商でしてね。祖父が徳川の終わりの際に始めたと聞いています。そしてかれこれ三代、わたくしまで続きました。しかし家業の発展のためにしたくないこともしなくてはならなかった。その一つが結婚です。わたくしにはずっと探し求めている女性がいましたが、家業にそんなことは関係ありません。父が決めた結婚相手と二十歳になる前には結婚させられました」
そこまで話して紳士は一息つく。
「木原さんはご結婚は?」
「はい。私も父の決めたお相手と結婚して……なので今は木原ではなく大木です」
「やはり、そうなのですね」
紳士は少し寂しそうに言う。
「でも夫はすぐに亡くなってしまいまして。その後は再婚もせずなんとか親元で子供を育てて……気付いたらしわくちゃのおばあちゃんです」
そう言うと、何故か紳士は声を出して笑った。
「それを言ったらわたくしもしわくちゃのおじいちゃんですよ。ええ、はい。こちらの家内も子を三人産んで亡くなりました。こどもたちはほとんど母に任せきりでしたが、とてもいい子に育ってくれたと思います。先日長男に家業を譲り渡しました」
紳士は目をつぶり、何かを思いだしているようだ。しかし初対面の私にそんなにあれこれ話すのはどうしてだろう。それは私もかもしれないけれど。
「そう言うわけで、透子さん。よろしければデートをしてくださいませんか?」
「どういう訳です?」
びっくりして思わず聞き返してしまった。紳士は目をぱちくりさせて笑い出す。
「本当に! すみません。どうも探し求めていた女性にようやく出会えて、年甲斐もなく浮かれてしまっているようです」
こつんと紳士はステッキを鳴らす。ベンチの周りにいたハトが一瞬顔を上げるが、すぐに首を振りながら元に戻った。
「突然のことで驚かしてしまって申し訳ない。それに話が性急に過ぎました。ですがわたくしがあなたを求めていることは、間違いのない事実です。よろしければ、明日の同じ時間に、またここでおしゃべりなどしませんか? まずはお友達から、というやつです」
「はあ」
「もちろん不快であればいらっしゃらなくてもかまいません。あなたにはそれを選ぶ権利がある。だとしても、わたくしは何日でもここであなたをお待ちします」
そう言って紳士は立ち上がり再びステッキを鳴らして去って行ってしまった。
一体なんだったのだろうか。私はぽかんとしたまましばらく動けなかった。そもそも私はただの散歩の途中で、喉が渇いたからお茶を買って飲んでいただけなのだ。代々続く商人に見初められるためにここに腰を下ろしていたわけではない。
目の前では多くの人が忙しそうに歩いている。散歩のために整備された遊歩道のはずなのに、歩きゆく人々はみな急いていて、時代がそうなのかもしれないけれどついて行ける気がしない。
「おばあちゃんだしねえ」
年寄りはそんな早足では歩けないのだ。臼井と名乗った紳士は私と共にゆっくり歩いてくれるのだろうか。それともかつての夫のように早足で一人でどこかへ行ってしまうのだろうか。
遠くで車が煙を上げて走っている。数年前に公害を防ぐ法律が制定され、徐々にではあるが規制が進んでいる。でもまだ、大事にされるのは経済であり勢いであり、進化だ。なにも推し進めることがなく、ただ漫然と時に身を任せるだけの年寄りに居場所はない。
「それなら、私も何をしてもかまわないのではないかしら」
ゆっくりと立ち上がり歩き出す。時計は昼前を指していて、紳士が去ってから長くぼんやりしてしまっていたらしい。帰って昼ごはんを食べて少し休もう。今夜は早めに寝て明日に備えなくては。
「それとも、新しいスカーフでも買おうかしら」
年甲斐もなく新しい出会いにワクワクしていることに気付いて、なんだか楽しくなってきた。




