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水の

 無事に引っ越しを終えて家の片付けも済み、ようやく散歩に出てくる余裕が出来た。

「わ、大きい」

 家から少し歩いたところに大きな河があった。川辺には看板が立っていて、隣の県との境になっている河だそうだ。川辺はきちんと整備された堤防があり、その上がランニングとサイクリングのコースになっている。今は平日の昼間なので自転車もランナーもほとんどいない。ときおりおしゃべりをしながら歩くご婦人とか、子供と散歩する女性がいるくらいだ。その穏やかな雰囲気に安心できた。

「あ」

「え?」

 後ろで声がして振り向くと、背の高い男性が私を見て目を丸くしている。なんだろう。ちょっと怖いな。そもそも引っ越しをすることになった原因が職場のセクハラだったこともあり、警戒してしまう。それに気付いたのか相手は僅かに身を引いた。

「すみません、急に。えっと……知っている人に似ていたので。あ、俺は臼井健介って言います。この辺に住んでて、今日は有給でせっかくなんで散歩してました。三十歳です」

 男性、臼井さんは丁寧にそう言って頭を下げた。なんだかお見合いみたいだ。

「えっと、私もこの辺りに住んでて散歩に……あ、ていうか引っ越してきたばかりで。やっと片付けが終わったので出てきました。木原透子です。二十八なので近いですね」

 そう言うと、臼井さんは嬉しそうに笑った。知り合い……ではないはずだけど、なんだか懐かしい雰囲気の人だ。顔を見ていると安心する。最初の怖かった気持ちは既にどこかに消えてしまっていた。

「そうなんですね。散歩、ご一緒してもいいですか?」

「……はい」

 臼井さんと並んで川辺を歩く。少し行くと潮の匂いがしてきた。

「もしかして海が近いんですか」

「そうですね。あと一キロくらい行くと海ですよ。海の辺りは大きな公園になっていて、バーベキューやキャンプも出来ますし、釣りやバードウォッチングをしている人も多いですね」

「へー。そこまで行くのは……大変かなあ」

 せっかくだから行ってみたいけど、行っても帰りが大変そうだ。悩んでいると臼井さんが「どうかな」と一緒に考えてくれる。

「家の場所にもよりますけど、この辺りはバスがたくさん走ってるからバスで帰ってもいいんじゃないかな。公園の入り口にバスロータリーがありますよ」

「そうなんですね。じゃあ、歩いてみようかな」

「ご一緒します」

 そして二人で更に歩く。歩きながらこの辺りのことを教えてもらう。

「そういえば、なんで引っ越しを? 職場が近いの?」

「そういう……わけではなく……。ちょといろいろあって仕事を辞めたんです。それで、心機一転と言いますか全然違うところに行きたくて越して来ました。なので仕事も明日から探します」

 そう言うと臼井さんは考え込んだ。どうしよう。余計なこと言っちゃったかな。でも別に今後も付き合いがあるわけでもなし、帰りに手を振って別れればそれっきりだ。

「つかぬ事を伺いますが、前職はどういったことを?」

「え? えっと、IT系の事務です。プロジェクト管理の補佐ですとか、テスターとか」

「であれば、うちの会社どうでしょう」

「え? ええ?」

 臼井さんはニコッと笑って事情を説明してくれる。臼井さんはIT系の会社に勤めているけど、万年人不足で困っている。最近部下の一人が産休に入ってのっぴきならない状態になり、上の人に増員の要請を出しているがなかなか人を入れてもらえず困っていた、ということだ。

「もちろん面接はしてもらうし、木原さんの技術というか知識の確認はさせてもらうから確約とは言えないけど」

 どうかなと臼井さんが言った。

 ……話としては、ありがたいと思う。一人暮らしで実家は遠く、しかも祖父が入退院を繰り返しているので両親を頼ることは出来ない。明日からハロワに通い始めても、いつ仕事にありつけるかわかったものではない。それでも、戸惑うのは。

「……元の職場を辞めた理由が……セクハラなんです。この業界って、やっぱり男社会じゃないですか」

 社会人として最低限の愛想ある対応をしていたつもりだった。それが、舐められて何をしてもいいと思われるようになった原因になったのはどうしてか。だから、また同じような業界で働くのは怖い。また、また同じ事が起きたら。

「可能性としてないとは言わないけど」

 臼井さんはそれまでとは違った、真剣な顔でこちらを見る。

「弊社、女性の割合がすごく高いんだ。アプリ開発がメインだからってのもあるけど、社長が女性でね」

「そう……なんですか?」

「うん。部下が産休でって言ったろ? 半数から七割くらいは女性だし、ご存じだと思うけどこの業界で長続きする女性は強いからね。社内で継続したセクハラは聞かないよ。もちろん酒の席や中途で入って来てセクハラになるようなことを言う奴はいる。けど返り討ちにあってすぐ止めるか、反省して大人しくなるかどっちかだね」

 弊社女子、アマゾネスだから。臼井さんがボソッと呟いたのがおかしくて、ちょっと笑ってしまった。アマゾネス。アマゾネスか。私も強くなれるだろうか。

「でも確かに急にまったく知らない会社で働くって言うのも困るよね。ごめん、焦っちゃったみたいで。会社の名前○○って言います。良かったら調べてみてください。気になったら会社の求人ページに応募してもらえばいいし、そこに俺の名前を書いてもらえれば話は通るよ。小さな会社だからね」

「ありがとう、ございます」

 ふと気付くと川幅がかなり広くなっていた。もう河口なのだろう。潮の匂いも強いし、風が音を立てて吹いている。

「木原さんは、きっといろいろあってここに流れて来たんだと思うけど」

 臼井さんが河を見ながら言った。

「嫌なことも良いことも、全部全部、水みたいに流れていつかは塗り変わっていくと思うんだ。だから退職して引っ越しをして、違う流れに飛び込むことの出来た木原さんは、そのことは誇ってもいいと思うよ」

 そう、なのかな。顔を上げられなくて、臼井さんがどんな顔をしているのかはよくわからなかった。でも私はその言葉が嬉しかった。逃げではないと、退職も引っ越しも悪いことでは無かったのだと、私は誰かに言ってほしかった。

 俯いた私を、初対面のはずのその人はきちんと立ち止まって待っていてくれる。この人を信じてもいいのだろうか。

 潮の匂いが背中を押してくれている気がした。



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