水中花
「そなたも年頃ゆえ、嫁ぎ先を見つけておいた。挙式は来月。支度を進めよ」
「はい、お父様」
父に頭を下げる。父は内裏の方々とお話があるのだと屋敷を出て行った。残された私の元に母がやってくる。
「話はお父様から聞きましたね。あなたの嫁ぎ先はお父様の上役に当たる方のご子息です。くれぐれも粗相の無いように」
「はい、お母様」
その後一月はひたすら嫁入り修行に明け暮れた。洗濯、掃除に料理。もちろん前から母から習ってはいたけれど、今後は先方のお義母様から習うことになる。一月通い、ダメ出しばかりで涙が止まらない日も多かった。
「あなたの母君はあなたに何を教えたのでしょうね」
「申し訳ございません」
「口ではなく手を動かしなさい」
「はい」
そんな日々を過ごすも、私は嫁ぐ相手の顔すら知らない。一体どのような方なのか。一応話だけは聞いている。……彼の弟に。
「兄上は父の後を継いでしっかりお役目を果たされています。ええ、そうですね。お役目は……なされていますよ」
「それは、どういう意味でしょう?」
両親は知らないだろうが、私と彼の付き合いは長い。以前、詩の会で知り合って以降、時々こうして会っている。もちろん秘密裏に。けどその時間は私にとってかけがえが無く、何よりも大切なものだ。彼の顔を見て、彼とたわいもない話をしているだけで地震が生きているのだと思える。
彼は困った様な顔をして私の顔を覗き込んだ。目の前には大きな湖があり、風が水面を揺らしている。少し離れた水辺では花が揺れている。
「茂平兄様は……わたしからすれば恋敵ですからね。良い評価はしにくいことをおわかりください」
「健平様……」
私は。私の思いは。言ってしまいたい。けど、言ったところでどうなるというのか。私の父も健平様のお父上も代理に努める官職である。彼らが決めたことを子供である私に覆す力など無い。
「透子様」
健平様はまっすぐに私の瞳を見つめる。
「透子様がわたくしを選んでくださると言うのなら、家もこの身も全てを貴女様に投げ打ちましょう。その覚悟はとうの昔、貴女様と初めて出会った時から出来てございます」
「健平様。私は」
貴方様をお慕い申し上げているのだと言いたいのに。父と母の顔が浮かんでそれ以上言葉に出来ない。
「透子様。申し訳ございません。なにもあなたを急かすつもりはないのです。ですが時間はありません。我が家でもあなたを迎え入れる準備は整っています」
「……はい」
顔を上げられない。健平様がどんな顔をしているか見たくない。
「もし、わたしを受け入れてくださるのなら、明日の早朝にまたここに来て下さいませんか」
我慢できずに顔を上げる。健平様は優しい顔をしていた。
「わかり、ました」
健平様はその穏やかな笑みのまま去って行った。一人残された私は水面を覗く。そこにはやつれた顔の子供が映っている。
帰宅し夕餉を済ませると父に呼ばれる。
「透子、最近お前は臼井の倅……それも次男とよく会っているそうだな」
「なぜ、それを」
「お前は結婚を控えた身。明日以降、挙式までは屋敷の中で過ごすように」
それだけ言って父は出て行ってしまった。私は正座のまま動けない。このままで良いの? 昼間の別れ際の健平様の顔を思い出す。あの顔を曇らせたくない。
翌朝、まだ日も昇る前に私は家を出た。寝間着に軽く羽織っただけなので寒いけど、そんなことにかまってはいられない。
「透子様!」
湖の畔に健平様が立っていた。
「来て、いただけたのですね」
「はい。健平様となら地獄へでも参りましょう」
健平様の手を取る。昨日と同じ、穏やかで優しい笑顔だ。私がずっとずっと大好きだった笑顔だ。最期にそれを見られたのなら言うことはない。
「では、共に地獄へ参りましょうか」
手をつないだまま、ゆっくりと湖へ入る。途中で浮かないように石を懐に入れるのを忘れずに。腰まで浸かったところで帯で互いの手をくくりつける。
「透子様とであれば、それがどこであれわたしにとっては天国です」
「私も。健平様が隣にいてくだされば、それで良いのです」
湖の中央に向かって歩く。体が浮くけど、懐に入れた石が私が逃げることを許さない。隣の健平様の着物が水中に広がる。
ぽちゃんと最後の髪の毛までが水中に浸かる。広がる二人分の着物が、まるで水中花のようだった。




