第一話 日本で死して、転生へ
「行ってきます」
「…………」
その言葉に返事はない。
――いつも通りだった。
ネクタイを締め直し、家の扉を開ける。
家を出てすぐにある大通りを歩く。人が左右を横断する。
点滅していた信号が赤になり、点字ブロックの前で立ち止まる。
暑い。
太陽が燦々と照りつける――うざったらしいくらいに。
ラッシュ時間から逸れていたせいか、人通りが少なくなっていた車道沿いの道を歩いていく。
しばらく歩くと、異質な音が鳴り響いた。
――上空から。
(あ、死んだんだな)
空を見上げながら――ただ思う。
頭上にあるのは、一本の綺麗な鉄骨。
それは、何にも遮られずに地球へ差し込む陽の光を、眩しく反射させて、まっすぐと垂直に落ちてくる。
そして――。
頭から突き刺さる感覚とともに、視界が真っ暗になった。
◇◇◇
鳥の囀りが鼓膜を震わせる。
もう少し寝ていたい。もう少し目を閉じていたい。
そんな我儘を無視するように、大きな鳥の鳴き声が目を冴えさせる。
仕方なく軽くなった瞼を持ち上げ、仰向けになっていた身体の上半身を徐に起こした。
「ここは?」
死したせいか気力――というよりかは、力がなかったために、立ち上がることができず、近くに生えていた木を背もたれにして、座り込んだまま周囲を見渡す。
森。
木々に囲まれているという事以外、一切の情報が得られない。
強いて得られる情報があるとするならば――普通に明るい。
不規則に聳え立つ木々であるが、一本一本の間隔は広く、そのおかげで、葉々の隙間に十分な余裕があった。
富士の樹海のような、迷い込んだら最後、死ぬまで出られない、というような森ではなさそうだった。
(…………あ、もう死んでた)
美しく森の中を照らす木漏れ日と撫でるような穏やかな風に紛れるように、左手に不思議な感触が伝わってくる。
刺激の正体を確かめようと視線をずらすと、そこにいたのは、真っ白な毛皮を持った一匹の小動物だった。
「……可愛い」
足も手も確認できない程柔らかな毛皮に包まれていたその動物は、潤いに満たされた愛くるしい黒い瞳でこちらの方をじっと見つめていた。
その愛くるしさに心奪われて、無意識のうちに小動物に対して声をかける。
「こっち……来る?」
右腕を広げて、胸の中に飛び込むようにすすめてみるが、小動物は軽く跳ねながら移動して、森の中に消えていった。
逃げたのか、それとも何かをしに行ったのか――どちらにせよ、どこかへ行ってしまった小動物に気持ちを残したまま、木々の隙間越しに空を見上げる。
「――歩こう」
それだけの力は戻っていると実感していたからこそ、重たい腰を持ち上げることができた。
そして、現状を把握しに行くために、自然が優しさでつくりあげた道を使って、緩やかな坂を下っていく。
――歩くたびに成長痛のような感覚を足に覚えながら。
◇◇◇
数分あるいは数十分歩いたところに、木々が開けた場所に大きな湖があった。
全てを見透かすような澄んだ水が、周囲に聳える木々の葉が落ちてくることで、水面を生みだし、真っすぐに差し込む陽光を万華鏡のように反射させた。
湖は随分と奥まで続いているらしいが、途中で木々の枝が地面に垂れて水に浸かっており、奥を見えなくしていた。
――それより先は行くことなかれと警告するかのように。
喉も乾いていない、空腹感もない――それでも、何かを求めるようにただまっすぐと湖に向かっていく。
そして、顔を覗かせる。
「…………」
そこに映し出された光景に違和感しか覚えられず、一度湖から視線をそらした。
そして再度――。
「……………………」
やはりそこに映し出された光景におかしな点があり、湖からまた目をそらす。
三度目の正直で視線を戻して――。
………………………………。
「ななな、な、なんじゃこりゃああああああ!!」
取りあえず叫ぶことにした。
湖に己の姿を映し出したことで覚えた違和感――それは単純に、自分の服装と顔つきに大きな変化が生じているということだった。
黒髪は僅かに伸びた程度だったが、目つきが釣り目気味となっている。
服装も現代日本では決して切ることのない、白と黒を基調とした――中世ヨーロッパの平民が着用していたとされている、シンプルな服装に変わっていた。
少女漫画に出てくる男主人公の親友ポジション――これが最も適切な気がした。
それは生を全うしたご褒美か、無慈悲な死を誰かが哀れんだのか――しかし、どちらであっても、元の姿に対する侮辱ともとれる状況ではあった。
――いや、自分で自分の容姿を呪ったことがあるのだから、侮辱ではないだろうか。
兎にも角にも、この姿になったことが嬉しいのか、辛いのか――感情の整理がつかない。
この姿になってしまったってことに変わりはなく、受け入れるしかないにも関わらず。
色々な考えが堂々巡りする中、後ろ歩きで湖から離れ、足を伸ばして緑の絨毯に座り込む。
風が流れ、鳥が湖を泳ぐ小魚をつつき、水面が生まれる。
そんなあまりにも美しく、ノスタルジックに包まれた空間で、暫く考え込むが――ここは何処なのか、という一番最初に生まれた疑問が一切解決していなかった。
しかし、移動の仕方から察するに、数十分前に出会った小動物は、地球では到底みられないだろう。
噂をすれば影。
木々の陰から、先程の小動物が仲間を引き連れて、俺の方へとやってくる。
「あ、さっきの……き――お前、なんか持ってきてるじゃん」
頭上には、赤い木の実が小動物の動きに合わせて、リズミカルに宙を舞っていた。
そして、そのまま俺の左横に木の実を置いていく。
全員が木の実を置き終えた後、一番前にいた小動物が、身体を前後に動かし始める。
「くれるの……か?」
その言葉に反応して今度は、全員の目が上下に動き始め――それと同時に、俺の腹の虫が世界に飛び立った。
全身が熱くなるのを感じながら、俺は一個の木の実を左手で掴み取り、右手に放って持ち替える。
「ありがとうな」
「はやくはやく」と急かしてくる小動物を横目に、木の実を口に含もうと口元に近づける。
「その木の実は食べない方がいいですよ。……毒を含んでいるので」
「!? 誰!?」
声が聞こえた驚きで咄嗟に木の実を落とし、声が聞こえた背後へと振り返る。
そこにいたのは――一人の女の子であった。
澄んだ蒼い目を持つその少女は、薄紅色の髪が胸元まで伸ばし、穏やかな風になすがままにされていた。
身長は百六十程度だろうか――年齢は俺と同じで十八歳くらいに見える。
白と黒を基調とした、少し瀟洒なケルト調のような服が、スタイルの良い身体をこれでもかと強調していた。
美しいとも可愛いともとれる容姿をしており――この空間に唯一存在することが認められた人物とさえ思えた。
彼女は、ゆっくりと小動物に向かって、足を進めながら、話を続ける。
「その生物は、毒のある木の実を人間に与えて気絶させた後、金物を奪っていきます」
「えっ!?」
「――それだけではありませんよ。その後、この生物の親に近い魔物の住まう場所に連れていかれ、その生物が気絶した人間の骨の髄まで喰らいます」
「お前、そういうやつなの!?」
俺が瞠目して、小動物――いや、白い化け物の方へ視線を向けると、その生物達は口もないのに舌打ちをするそぶりを見せる。
そして、木の実を放置したまま森の中に、今度こそ本当の意味で逃げていった。
「……ありがとうご――。ごほんっ、ありがとう、助けてくれて」
「どういたしまして。……ですが、あまり気にしないでくださいね」
座したままなのは失礼に当たるとおもい、俺は時の流れに任せるように起き上がった。
何処から来たのか――右肩に乗っかていた一枚の葉が、風に飛ばされ湖で揺蕩う。
初めて出会った人物とかわす挨拶というのは決まっており、流れ作業のように口を開こうとするが――先を越すように目の前で佇む彼女が言葉を紡いだ。
「私の名前はティシアっていいます」
「初めまして、俺の名前は……ハルキ」
「――存じておりますよ。あなたのことは」
「…………え?」
悪戯か、歓迎か、挨拶か――ティシアと名乗る少女は、葉々が宙に舞っている空間に一輪の花を添えるように楚々として笑った。
「こんにちは、はじめまして、そして――ようこそ、転生者さん」
ああ、そういうタイプかぁ、と俺は思った。