マシッソス砦の陥落
「敵軍、砦から兵士を引き上げているようです!」
ヴェロニカはヴェステンラント軍が撤退を開始したことを素早く察知した。
「降伏はしないが、ここで戦う気もないらしい。どうする、師団長殿?」
「敵が勝手に消えてくれるのなら、僕達は何もしない」
「敵が敗走を始めたとなれば、追撃するのが定石だと思うが?」
古今東西、戦いで最も犠牲が出るのは追撃戦である。逃げる敵など叩いておくに限るというのが、万人の認める戦の定石だ。
「ここにいる敵は、敵全体のほんの一部に過ぎない。例え壊滅させたところで戦況に大した影響は与えないだろう。それに、僕達も傷付き過ぎた。休息が必要だ」
「師団長殿がそう言うのなら、そうしよう」
オーレンドルフ幕僚長も反対することはなかった。カエサレア攻略軍は既に疲弊しており、また大きな損害を被っていた。ヴェステンラント軍は崩壊した訳ではなく自発的に撤退しており、追撃は無傷で済むまい。シグルズはこれ以上の戦闘は避けたかった。
「戦闘はもう終わりだ。こちらから手を出さなければ、奴らも手を出してこないだろう。それとヴェロニカ、味方の被害を集計しておいてくれ」
「了解です!」
ヴェステンラント軍が撤退するのを傍観しながら、損害を把握する。
「概ねの集計が終わりました。今回の戦い、死傷者はおよそ2万です。被害は全て、先鋒の師団に集中しています」
「そうか。ありがとう」
丸々1個師団以上の人員が失われ、これは軍団の5パーセントに相当する。小規模な砦を相手にした損害としては大き過ぎるものだ。但し、損害は一部の師団のみに集中しており、これを後方に下げれば無傷の師団のみで進軍することも可能である。
「軍団の損害は、まだまだ十分に戦闘可能なものだ。進軍を続行する以外の選択肢はあるまい」
「まあ、な。だが、この砦だけでこんな犠牲を出したんだ。カエサレアを落とせるとは思えない」
「弱気ではないか、師団長殿」
「普通に考えたら無理だろう。アンキューラの時も、思いがけない弱点が見つかったから落とせたようなもので、正攻法では無理だったんだ」
「そうだな。確かに、カエサレアの城壁は旧時代の高さを重視したもので、乗り越えるのは困難だ」
ガラティア帝国のアンキューラより東は外敵から攻撃されることを想定されておらず、旧式の高く薄い城壁ばかりである。しかし今はその方が、近代的な要塞よりも厄介であった。本来は砲撃の前に無力である筈の城壁も、魔法の力があれば決して崩れはしない。
「計算上も、僕の体感上も、カエサレアを落とすのは恐らく不可能だ。近くまで軍を進めて牽制しておくくらいはするが」
ゲルマニア軍は、連合軍のエスペラニウムが極度に不足していることを知らなかった。このまま攻勢をかけ続ければ確実に勝てるということは、知り得ないのである。
「なれば、ザイス=インクヴァルト大将にその旨を伝えなければな」
「ああ、分かってる。それくらいは、言い出しっぺの僕がやるよ」
命令を遂行するのは不可能ですと泣き言を上申しなければならない。実にやりたくない仕事だが、最高司令官であるシグルズ以外にそれが出来る人間はいない。
「――一先ず、客観的な事実は以上の通りです」
『なるほど。君が作戦を諦めるとは、余程のことなのだろうな』
「それは……。しかし、僕は現有の全力で作戦を遂行することは不可能だと確信します」
『今や君は帝国軍でも最も経験のある将軍の一人だ。その判断を疑いはしない。で、それを私に告げて、何を望んでいるのだね?』
「……お分かりでしょう。次のご命令を頂きたい」
『すまんすまん。君ならば既に思い付いているとは思うが、敵の主力部隊が展開するカエサレアの近辺に布陣し、その動きを封じよ。その間に他の部隊でガラティア君侯国辺縁を制圧し、追い詰める』
「了解しました。カエサレアまで軍を進めます」
『引き続き、現場のことは君に一任する』
「はっ。お任せ下さい」
シグルズもザイス=インクヴァルト大将も考えることは同じであった。
「これより、カエサレアに軍を進める。但しカエサレアの攻略はせず、程近くに陣を敷き、守りを固める」
マシッソス砦の敵兵が全て消え去ったのを確認すると、軍団はいよいよカエサレアに向けて進軍を始めた。道中にいくつかの砦はあったが、ほんの数十人しか入れないような街道警備の砦であり、すぐに降伏するか、榴弾によって粉微塵にされた。
そうして大した障害もなく、ゲルマニア軍はカエサレアの手前で進軍を停止し、簡易的な陣地の構築を始めた。
○
「ふむ。ゲルマニアは攻めてこないのか。意外だな」
アリスカンダルはゲルマニア軍の行動に疑問を持った。
「我が軍のエスペラニウムが尽きかけていることを、彼らは知りません。ここに直接攻めかかるを恐れるは、当然のことかと」
オーギュスタンは応えた。彼はおおよそシグルズの思考を読むことに成功している。
「戦闘がなければエスペラニウムも消費しない。少しばかり光明が見えたな」
「喜ばしいことです」
ここで即座に攻め込まないというゲルマニア軍の判断は、結果的には大きな間違いであった。