番外編――これまでの振り返り
やはり戦記物ですので地図がないと分かりにくいということで、ここまでの流れの総ざらいを兼ねて、急遽地図を何枚か作ってみました。地図が雑なのは時間がなかったのとパソコンが壊れて各国の国旗データがすっ飛んだからです。申し訳ない。
ACU2308年8月6日にゲルマニアに宣戦を布告したヴェステンラント。その侵攻は激烈であり、ブリタンニアは2週間と持たずに降伏し、ルシタニアも国土の半分を失った。唯一国土が無事であるゲルマニアは、ルシタニアとの国境地帯で懸命な抵抗を演じる。
両軍は一進一退の攻防を繰り広げるも、やがては塹壕が国境を埋め尽くしたことで防御側に圧倒的に状況が生まれ、前線は停滞した。
上の地図は2310年12月のエウロパである。青がヴェステンラントの占領地、黄がゲルマニア、白がルシタニアだ。北ルシタニアの南東のあたりにルシタニアの領土が残されているのは、ガラティア帝国と国境を接しない為ヴェステンラント軍があえて放置しているものである。
戦争が転機を迎えたのは、2310年12月20日のメレン蜂起である。ヴェステンラントの支援を受けたダキア大公国はゲルマニア占領軍を放逐し、再独立を宣言した。彼らはゲルマニアに一撃を加えるべくポドラスへと侵攻したが、その試みは失敗した。
ゲルマニアは反撃として、北方スカディナウィア半島からダキアへ反撃を開始。ダキアの戦時首都メレンを含む、突起のような形状をした地域に占領地を広げた。だがダキアの広大な土地、寒さによって、ゲルマニア軍の快進撃も停止した。
一方で、ルシタニア方面にも動きがあった。2311年7月11日、黒い鎧を着たヴェステンラント兵の侵攻により、南北ルシタニアを貫く大山脈の防衛線が突破され、ルシタニアは南ルシタニアへの侵攻を許した。
その後の世界地図はこのようになっている。赤がダキアである。ダキアの北西に不自然な形で伸びる黄がゲルマニア軍の突出部である。
戦線は暫く膠着したが、2312年4月2日の世界初の空襲から少しずつ動き始める。主要都市を次々と焼け野原にされたダキアには、少しずつひずみが溜まっていった。
そして2312年9月23日、ゲルマニア軍のイジャスラヴリ侵攻と傀儡政権キーイ大公国を使った懐柔政策により、ダキアは一気に瓦解する。諸侯は次々とゲルマニアになびき、同10月26日、ついにダキアは降伏した。
ゲルマニア軍はそのほぼ全戦力を西部戦線に振り分けられるようになったものの、依然として警戒を怠るべきではない。