Sweet pain(朋子Side)
ずっと昔、私が小学校低学年の頃、冬さんから聞いた話。
優しく明るいこの人達の中で、あの人だけが違ってて。あれはなんて言うんだろう、『陰り』みたいな雰囲気を纏っていて(今でも彼はそれを持っているけど、あの頃は今とは比べ物にならないくらい凄かった)。あの頃の私にはその異質さがものすごく怖くて、(きっとアレが、私が彼に対して感じる最初の恐怖だったのだと思う)それをどうにかして欲しくて、彼女に「裕紀兄さんが怖い」と打ち明けた時の事だ。
彼の母親であり、そして私にとって『万能』みたいな彼女なら。必死に頼み込めば何とかしてくれるんじゃないかって、あの頃の幼い私はそう思っていた。
「私達は今も昔も、あの子にどう接すればいいのかわからなかったから。だから裕紀は私達を親とは思ってないの。……ほら、美央美や高志は私達を『お父さん』『お母さん』って呼んでくれるけど、裕紀だけは私達の名前を呼び捨てでしょ?」
けれど冬さんはそう言って、ちょっと悲しそうに微笑んで。
「私達はあの子にどうしても引け目を感じてしまうから。だから私じゃ、あの子をどうする事も出来ないの。ゴメンね」
それを今思い返して。先日肉親を追い出せと言った私に、こんなことを思う資格はないかもしれないけど。でも実の子供でもない私や美咲を、高志と分け隔てなく家族として、時には優しく時には厳しく育ててくれた冬さん達すら、彼にとっては肉親ではあっても家族ではなくて。それを寂しいとも、悲しいとも思う。
そして冬さんの話を聞いた時、子供ながらに思った事。気付いた事。
『あの人は私と一緒なんだ』
拒絶する側とされる側(実際のところは裕紀兄さんも拒絶される側だったのだけど、幼かった私は、そこまでは考えが及ばなかった)。立場は逆だけど、根っこはたぶん同じだ。
『諦めた』と『寂しい』。根本にあるのはこの二つ。
怖いって? それはあの人の表情や態度も、もちろんあるけど。こうなってしまった今、改めて考えれば当たり前の事。誰だって、ドロドロとした自分の暗い部分なんて、見るのは怖いんだから。
でもだからこそ彼を好きになるのは、『両親からすら愛してもらえない私は、誰からも愛される資格なんてないんだ』そんなふうに、今まで好きになる事の出来なかった私自身をも好きになれるって事なのかもしれない。
そして多分、冬さんからあの話を聞いた時から私の中でこうなる事は、きっと決まっていたんじゃないかと思う。
昼休みの教室って、秘密の相談にはうってつけの場所だと思う。
朝や授業の合間の短い休み時間、放課後なんかと違って、人口密度は高くも低くもないし。教室に残ってる子達も自分達のお喋りに夢中だから、誰も他で交わされている話になんていちいち興味を持ったりしない。
人気のないところでコソコソするより、私にとってはよっぽど良い場所だ。
「ああ、あれですね。お医者様でも草津の湯でも治らないって。……馬鹿につける薬はないも同義語になるんでしょうか」
「美咲。それはちょっと言いすぎ」
私の問いに対しての、あんまりと言えばあんまりな友人の言葉に力なく笑って。でも彼女の後半の言葉に異論があるかといえば、そうではない。
ホント、馬鹿だ。
先日。裕紀兄さんから呼ばれたあの時から、怖がっているくせに、あの不慣れな優しさが気になって、事あるごとに目は彼を追っていて。気づけば彼の事を考えていて。
最初、これは何だって疑問に思って。だけどそんなもの、何度考えたって答えは一つしか思い浮かばない。それに気付けば余計に彼を意識しだして。
そしてそんな時間が増えれば増えるほど、沙夜子姉さんの存在が大きな壁になっていく。
好きなのに、尊敬してるのに、その存在を疎ましく思ってる自分がいて。
それが私の中の「女の部分」だと思うと、たまらなく嫌だった。
「あなたは恋愛なんて、そんなものに興味を示さないと思っていました。しかも朋子様は、裕紀様の事をこれまで避けてましたよね?」
なのに、なぜですか?
私に向けられる友人のその目は雄弁で。
それに対する答えは持ってるんだけど、それを口にするのはなかなか難しい、と言うか恥ずかしい。
「怖さ余って愛しさ百倍」とか。もちろんそんな言葉は元々無くて、私の造語なんだけど(そんな造語を思いついたということ自体、私にとっては恥ずかしいのだ)、なにより私が兄さんに対して『愛しい』なんて思っているその事を、言葉として再認識すると、無性に恥ずかしくなる。
だけど確かに恥ずかしいし怖いけど。でも最近兄さんを目で追うようになって、彼の人と接する時の不器用さや、その表情と態度から気付き難い優しさ。
そういったものに気付けば、愛しさは募っていく。
動悸が激しくなる。息が、胸が、苦しくなる。
「『これが恋だと思う?』ですか。まぁ、そうなんじゃないでしょうか? あなたは恋に恋するタイプでもないですし、傷の舐め合いでもなさそうですし。……あまり前向きではないかもしれませんが……そうですね、今のあなたには必要なのかもしれません」
うん。そうだよね、美咲。私も自分でもそう思う。確かにこの気持ちは前向きな気持ちでもないけど、傷の舐め合いなんて、そこまで後ろ向きな気持ちでもない。
だけど。
『駄目だ。絶対駄目だ』
この気持ちを打ち明けた時の、高志の言葉が頭をよぎる。
『傷の舐め合いみたいなそんな気持ち。そんなの、絶対駄目だ』
ねぇ、そんなに否定するのなら、あんたはこの気持ちとどう折り合いを付けたらいいと思うの?
一度気付いてしまったこの気持ちは、もう無かったことには出来ないんだよ?
ねぇ、どうしたらいいか教えてよ。高志。
本当に偶々だった。
偶々バイトから帰った私が二人に気付いて。
偶々バイトから帰った私に二人が気付かなくて。
いつもなら、ただそれだけの事だ。
だけどあの二人の関係に、自分の想いをもう諦めていても、その光景に激しく心を揺さぶられて。きっと私の表情はもの凄い事になっていたんだと思う。
庭の片隅で抱き合って、時折彼の目元を指で拭ったり、背中を軽く叩いている彼女の姿をなるべく視界に入れないように、急いで離れの中に飛び込んだ私を出迎えてくれた美咲の表情が、それを物語っていた。
だっていつもなら、そんな私の表情を見たら軽口の一つでも叩いてくれる美咲が、心配そうな表情を浮かべて無言で私の側にいるなんて、そんな事よほどの事がない限りありえないことで。要するに今、その『よほどの事』な表情を私が浮かべているんだと思う。
「……ハハ」
思わず漏れた乾いた笑い声。それが自分の口から漏れたって一瞬気が付かなくて。そしてそれに気付いたら、なんだかますます惨めになって俯く。
「朋子様?」
「可笑しいよね。見慣れてる筈なのに。わかってる筈なのに。何でこんなに悲しいのかな」
そう、二人のあんな姿はとっくの昔に見慣れていた。
あの二人は普段お互いを男女のそういう感情で見ていないから、生々しさがない分膝枕だの何だの、見ているこっちが結構恥ずかしい事だって人前で平気でするのだ。
そしてそんな姿、今まで何度も何度も見ているのに。
「朋子様」
「今更、驚くような事も悲しむような事もないのにね。なのに……」
そう、今更だ。あの二人の間に私の入り込む余地がない事なんて、わかりきっていた筈だ。
そう、最初からわかっていた事だ。私のこの想いが実らないなんて。
それなのに、何がこれだけ私を落ち込ませているのかと言えば、それは……。
兄さんが、嗚咽を押し殺して泣いている姿を見てしまったから。
確かにあの人は、これ以上傷が拡がれば壊れてしまうって、沙夜子姉さんを初めとするあの人の過去を知っている皆が心配するような、そんな傷をいくつか抱えているのだけど。
だからその傷がパックリと口を開いた時、あの人が人知れず涙を流していたとしても、それは不思議でもなんでもないのだけど。
だけど私は兄さんの泣いている姿なんて、これまで一度だって見た事がなかった。
あの人が泣くなんてそんな事を想像したこと「すら」なかった。
そして沙夜子姉さんは兄さんのそんな姿を、もう何度も見てきたかのようにごく自然に受け入れていて、まるで泣きじゃくる子供を優しくあやす様に、ゆっくりと一定のテンポで裕紀兄さんの背を軽く叩いていた。
その姿が私と彼女との違いだと、まるで私に見せ付けるかのように。
あの姿を見て、私はやっと理解できたのだ。
私では沙夜子姉さんに敵わないって、兄さんの側に私の居場所はないって、頭では理解してた。だけど心ではまだ納得出来てなかった。
その事を。
そして今までとは比べ物にならないくらい、私は沙夜子姉さんに嫉妬しているのだと言う事も。私は初めて自覚した。
好キナノニ、嫌イ。
尊敬シテイルノニ、憎イ。
憧レテイルノニ、疎マシイ。
そんな嫉妬から来るこの胸の痛みは、グルグルグルグルと黒く渦巻いて私の心を蝕んでいく。それを外に出さないように、胸元をギュッと握りこんだ時だった。
「逃げますか? 朋子様」
突然の美咲の言葉。
その声に顔を上げると、そこには彼女にしては珍しく眉間にしわを寄せて、まるで怒っているかのような真剣な表情がそこにあった。
言葉の意味がわからず首を傾げると、私や彼女が瑞香ちゃんに対してよくそうするように、美咲は突然両の腕でフワリと私の頭を抱き包む。
「今から高志様の所へ逃げますか? 私はそのほうが良いと思いますが」
「なんで?」
普段から真意を測りづらい娘だけど、今回はさらに訳がわからない。
「もうどうしようもない時に逃げるのは、恥ずかしい事ではありませんよ? あなたにとってその場は高志様の所でしょ? だから、です」
確かに高志なら優しく抱きしめてくれるかもしれない。落ち込んでる私を慰めてくれるかもしれない。
だけど高志が優しければ優しい程、それに甘えてはいけないのではないかと思ってしまう。
あいつと抱き合った次の朝は、いつも後悔と罪悪感でいっぱいになる。
裕紀兄さんから見てもらえない寂しさを癒すためだけに、私は高志を利用しているだけなんじゃないかって。
だから。……今、こんな状態だからこそ、美咲の言葉には素直に頷けなかった。
「朋子様が渋ってらっしゃる理由は、高志様が裕紀様とそっくりだから、ですか? でも普段は高志様を逃げ場所にして、こういう時に躊躇うのは、逆にあの方を利用しているだけだってお思いになりませんか? 朋子様」
「美咲?」
「『逃げ場所』と言うのは『もっとも安全な場所』の事です。『いるべき場所』の事です。今のあなたにとってそれは、ここや私の所ではなく、高志様の所です。違いますか?」
『ああ、そっか。私にもまだ居場所ってあるんだ』
美咲の言葉に、腕から伝わる優しさに、脈絡もなくただそう思った。




