斯くして魔女は狂わされた
「グリュク」
自らを呼ぶ声に俺は読みかけの書物から顔を上げる。
「ん、なんだい?」
「んふふ、呼んだだけ」
机を挟んで対面に座る彼女――俺を拾った張本人、セレナが楽しそうに笑う。
彼女に拾われてから6年の月日が流れた。
当初は俺に対して同情の色が見れなかった彼女も、やはり人の温もりに飢えていたのか、態度は段々と軟化していき、今となってはちょっと異常なくらい溺愛されている。
特に3年前――俺が3歳の頃から急にまとわりつくようになった。
俺の憶えている限りだと別に何も特別なことはなかったんだけどなぁ。
まぁ、嫌われるより愛されている方が断然いいし、俺だって彼女のことを家族だと思っている。
「そういえば、決まった?」
「何が?」
質問に質問で返すと、彼女は拗ねたような顔になった。
「もう、今朝も聞いたじゃない。来週のあなたの誕生日プレゼントよ」
「あー……」
当然ながら捨て子である俺の正確な誕生日は不明だ。
よって、暫定としてセレナに拾われた日を誕生日とした。
――プレゼント、ねぇ……
俺は反芻するように内心で呟く。
欲しいものと言われても困る。
何しろ衣食住どころか暇つぶしの本や玩具など、こっちが言わずともセレナがしょっちゅう買ってきてくれる。
今更ほしいものと言われても思いつかなかった。
かと言って、正直に無いと言っても引き下がらないだろうし、下手したら独断でとんでもなく高価なものを買ってきそうだ。
「セレナと一緒に静かに暮らせればそれで満足だよ」
少し照れ臭いが、こう言っておけば下手なことはしないだろう。
リップサービス込みだが、別に嘘を言っているわけではないし。
セレナは俯いてプルプルと震えだした。かと思えば急にガバッと顔を上げて抱き着いてきた。
「あ゛だじも゛ぉ~~!! あ゛だじも゛グリュクさえいればいいぃ~!」
大人の号泣である。
家族でも、いや家族だからこそ見ていられない。
というか、全く変わらない見た目とは裏腹に、セレナの内面はどんどん幼くなっている気がする。
そう、全く変わっていないのだ、彼女は。
6年まえから、いやそれよりはるかに以前から。
彼女は老いず、死なず、変わらずにいる。
俺の育ての親は――不老不死の魔女だったのだ。
◇◇◇
日付が変わり2時間ほど経過した深夜。
私は自分自身に気配遮断魔法をかけ、彼の――グリュクの寝顔を見ていた。
勿論、起こしてしまわないように細心の注意を払いながら。
場所はグリュクの私室。
去年までは一緒寝ていたんだが、自分の部屋が欲しいといわれてしまった。
すごく――死ぬほど死ぬほど死ぬほど死ぬほど死ぬほど寂しかったが、彼の願いだ、叶えてあげた。
その日から、この深夜の日課は始まった。
私は6年前まで――グリュクと出会うまでずっと孤独だった。
ずっと孤独にこの山奥の広い屋敷で暮らしていた。
千年程前までは私も普通の魔法使いとして宮廷魔導士を務めていた。
最年少で宮廷魔導士に選抜された私は、天才としてもてはやされていた。
私自身も魔法の研究は楽しかったし、ちやほやされるのも満更ではなかった。
順風満帆といって差し支えない、そんな日々だった。
ある日、忘れ去られた古代魔法を解き明かし、不老不死になるまでは。
何時もの様に研究成果を発表した私に向けられたのは、怪物を見るような目と、実験動物に向けるような視線だった。
身柄拘束の命令に逆らい、差し向けられた兵士たちを返り討ちにした私へ下されたのは、無期限特級危険指名手配魔導士、通称『魔女』の烙印だった。
私は逃げた。時に魔法で性別を偽り、時に周囲の認識を歪め、時に追手を退けながら。
逃げて逃げて、遂に追手も途絶えたとき。
ふと気付くと私は孤独だった。
身分を偽り人に近づいても、時間が経てば私が不老不死だとばれてしまう。
中には、心優しい人たちもいた。
気まぐれで、貧困に喘いでいた地方の村の人たちを助けた時。
「魔女だろうと関係ない、魔導士様はこの村の恩人です!」
彼らはそう言ってくれた。
長い逃亡生活で色々な人を見てきた私は、それが本心からの言葉だと分かった。
嬉しかった。私はやっと居場所が見つかったと思った。
けど、直ぐにそれが間違いだと気づいた。
彼らの中には悪意はない。
けど、違うのだ。
私を見る目に恐怖や嫌悪は無くても、そこにはありありと崇拝や信仰が浮かんでいた。
結局のところ、等身大の私を――ただのセレナの居場所はこの世界のどこにもない。
それに気が付いたとき、私はまた逃げ出した。
逃げて逃げて、今の住処――危険な魔獣が住み着く不帰の山の奥地に屋敷を立てた。
それからの記憶は酷く曖昧だ。
死んだように生きていた。
きっと、不老不死の魔法がなかったら、自ら終わりを選択していただろう。
自分を繋ぎとめるために魔法の研究だけは続けていた。
そしてそれすらも捨てかけていた時。
グリュクに出会った。
忘れもしない運命の日。
研究用具や消耗品の仕入れ帰り。
何故か引き付けられるように、私はいつもと違う道を歩いていた。
その道端に無造作に、まるでゴミのように――私の幸福が捨てられていた。
なぜ連れ帰ったのかわからない。
どうせ、私の正体を知られたら離れていくのに。
けど彼の夜空のような瞳を見つめていたら――離れることが出来なかった。
気が付いたら彼を抱えて帰路についていた。
それからの一年間――いや、その中の一日、一秒、一瞬が、それまでの千年をはるかに凌駕する幸せに満ちた時間だった。
慣れない子育ては大変だったが、苦だと思ったことなど一度もない。
逆にそのすべてが暖かくて幸せで、グリュクが私の名を初めて呼んだときは涙が止まらなかった。
グリュク――古代言語で幸福を意味するその名を着けるのに、一切の迷いはなかった。
彼と暮らしだして3年経ったある日、事件は起こった。
グリュクの為に覚えた料理も慣れてきていて。
きっと緩んでいたんだろう。天国のような幸せな日々に漬かりすぎて、慣れないミスを犯した。
「つっ……!」
「どうしたの?」
包丁で自らの指を傷つける初歩的なミス。そして、私の緩んだ精神は小さな痛みで声を出してしまう愚行を許した。
私の腰ほどしかないグリュクが、心配そうに近づいてくる。
「な、何でもないわ、平気よ」
慌てて取り繕うが、物心ついた時から大人びていて聡明な彼には無意味だった。
彼は覗き込むように、私が背に隠した手を見た。
「ケガしてるんでしょ……あれ?」
「……あ……あぁ……!!」
自動的に復元していく傷を見て、グリュクが怪訝そうな声を出す。
私は瞬間的に真っ青になった。
――見られた見られた見られた見られた見られた見られた!!
私は久しく思い出していたなかった逃亡中に見た人達の視線と、グリュクとの幸せな日々の記憶を走馬灯のように思い浮かべていた。
死刑執行を待つ囚人のように、ただただ俯いたグリュクの旋毛を見つめていた。
「すごいな! セレナはこんな魔法も使えるのか」
「……え?」
私は驚いた。
絶望して壊れた自分の精神が、都合のいい妄想を見せているのかとすら思った。
彼の言葉もそうだが、その瞳――おそらく彼が捨てられた原因であろう、伝承に残る傾国の悪魔と同じ黒い瞳に、変化がなかったからだ。
そこには恐怖も崇拝もなく、ただただ家族に向けるような親愛と、夜空のように底知れない慈愛だけが浮かんでいた。
その瞬間に私は壊れた。
いいえ、定まったともいえる。
千年の迫害と孤独の中で壊れた精神が、ジグソーパズルのように一つの形になった。
そして、もう変わることはない。
私のすべてはグリュクのために。