忘れなさい
「あのね、これね、おかーさんがね」
お母さんからもらったぬいぐるみを前につきだし、自慢する。
「ひかるくーん、お母さんがお迎えにきたわよー」
「はーい。ばいばい」
ぬいぐるみの手でバイバイと振り、幼稚園の先生とお母さんのもとに向かう。
幼稚園の先生は訝しげな顔を一瞬覗かせはしたが、いつもの子供たちに向ける顔に戻し、「また明日ね」と手を振り見送ってくれた。
お母さんと手を繋いで歩いた帰り道。
「おかあさん、ぼくってへんなのかな……」
幼稚園にいる人たちを見ていて思ったことを口に出す。
「こんなにたくさん……」
「あなたは視え過ぎているのですね」
立ち止まったお母さんを見上げれた。
珍しく目が合い、驚いているとお母さんは続けて言った。
「その目はあなたを傷つけることもあるでしょう。
もし、その目が嫌になったら願いなさい。
そして、忘れなさい」
きっと、それが救いとなってくれるから、とお母さんは話し終えると再び歩き出した。
お母さんは不思議な人だった。
人形のように無口で無表情で、怒ったり笑ったり感情を露にしない。
でも、唐突に口を開き話したと思えば、何とも言えない顔で見つめてくるんだ。
そんな人形みたいなお母さんから向けられる表情にいつもどう応えたらいいのか、分からなかった。
その時は、ただぎゅっとお母さんの手を握り直したのだ。
あぁ……どうして、あの時、手を離してしまったんだろう。
「待って……」
僕は必死で手を伸ばす。
「待って……お母さん!」
桜が咲き乱れた夕焼けの空。
石段を上るお母さんの背中が小さくなっていく姿を眺めるしかなかった。
階段を上った先にいる人影に向けて叫ぶ。
「お願いだから、連れていかないで」
僕を置いていかないで。
僕を一人にしないで。
僕を…………。
――無駄だよ。
――アレは『人間』の云うことなんて訊かないよ。
残酷な声が頭の中で響いた。
お母さんのもとに向かおうとした僕を遮り、制止させた。
その中で僕の声が届いたのか、振り返った。
「お母さ……」
今まで見たことがないお母さんの顔に目を見張る。
とても、とても、穏やかな微笑みを称えてこっちを見つめて唇を開き、動かした。
僕にはその声は届かない。
だけど、何をいわんとしているのか分かってしまった。
『忘れなさい』
そして、再び石段を一つ一つ上っていく。
もう僕の呼び掛けに応えてくれなかった。
階段の上で待つ人影が笑い、ぐにゃりと歪んで別の姿へと変化する。
階段を下るように大きな影が地面を這い、お母さんとその路を包み込んで消えてしまった。
僕はお母さんに捨てられたのだ。