痴漢の話
「この人、痴漢です!」
女は男の手首を掴むとそう言った。
男は少し困ったような顔をしながらも、反論した。
「やってませんよ。私があなたの体を触ったと?」
女は間髪入れずに答えた。
「ええそうよ、お尻を撫でられたわ。次の駅で降りましょう」
「しかし、私はこのとおり、左手は吊革を、右手は鞄を持っていたのですが」
掴まれた手首の先には鞄がぶら下がっていた。
「手の甲でも触れるわ」
「まあ、確かにそうですね。ところで、そろそろ手を離してくれませんか。お互い疲れるでしょう」
女は男を睨みつけた。
「逃げる気じゃないでしょうね」
「満員電車から逃げ出すのはなかなか難しいですね。あ、次の駅が近づいたらまた掴んでくださっても結構です」
「なんか変な敬語ね」
女は手を離すと、今度は訝しげな表情になり、
「妙に落ち着いてるわね。痴漢、認めるわけ?」
と言った。
「認めるわけないでしょう。やってないものはやってないんです。今、無罪の証明ができないか考えているところです」
男はわざとらしく悩むような仕草をした。
「揺れたときに偶然当たったとかじゃないんですか」
「考えて出てくるのがそんな質問なの?あれは明らかに意図的に撫でていたわ。揺れたのでも人に押されて押しつけられたのでもない」
女は自信満々に言う。
「私以外の人が触った可能性は?」
「左右どちらからも手が伸びてきてないのは確認したわ。触れたのは真後ろにいたあんただけよ」
女はやはりはっきりと言い切った。しかし、今度は少し不安そうに見えなくもない。おそらく、しっかり確認していなかったのだろう。
男は諦めたように溜息をつくと、言った。
「仕方がないですね。無罪は証明できないようです」
「罪は認めませんが、罰は受けましょう」
女は、意味がわからないというような顔をしていた。
次の停車駅が近づいても、まだ会話は続いていた。
「えーと、あくまであんたは何もやってないと言い張るわけ?」
「ええ、もちろんです」
「けれど、犯人として捕まってくれるわけ?」
「ええ、そうなりますね」
「なによそれ。やってないなら徹底的に戦えばいいじゃない」
「裁判で戦っても認めても、たぶん結果は同じですがね。それに、あなたにとっては簡単に賠償金払ってもらえるんだからいいじゃないですか」
「それはそうだけどね。なんか釈然としないのよ。あんたがやったってほぼ確信してるけど……冤罪だったら後味悪いしね」
「では、なぜ罰を受けるつもりなのかを説明しましょう」
男は考えをまとめようとしているようだった。悩む仕草はやはりわざとらしく見えた。
駅に着いたが二人が降りる気配はなかった。
「私は、疑わしきは罰するべきだと思うのです」
男は話し始めた。女は真剣に聞き入っていた。
「証拠がなければ罰せられないというのでは、裁けない犯罪が多すぎます。痴漢など、証拠が出にくい犯罪の代表でしょう。周囲の人間に見られていなければ、真実を知るのはたった二人です」
「けど、痴漢は告発された時点で負けとまで言われてるわよね」
「そうですね。司法が疑わしきを罰している数少ない例だと思います。ほかの犯罪でもこうなるべきなのです」
「冤罪がめちゃくちゃ増えるじゃない」
「そのとおりです。それでいいのですよ。それが当たり前になれば、みんな、疑わしい行動をしなくなるでしょう。店の中を歩くときは監視カメラにはっきり映るように歩き、電車に乗るときには両手で吊革をつかむ。GPSで自分がどこにいたのか情報を残しておく人なんかも現れるかもしれませんね。そんな社会、『疑わしい行動をする者が悪い』というような社会になったら、犯罪なんてできないと思いませんか?」
一息にそこまで言うと、男は「なぜ今日に限って片手で吊革をつかんだのか……」などとつぶやき、女の反応を待った。
気づけばもう一つ駅を通りすぎていた。
女は、溜息をつき、しかしなぜか機嫌よさそうに言う。
「確かに犯罪は減りそうね。でも、私は嫌よ。そんな面倒な社会」
「そうですか。けれど、私が罪を認めず罰を受けると言った理由、納得いただけましたか?納得いただけたなら、いい加減に電車を降りましょう。二駅ほど通りすぎてますよ」
「なんかもう、どうでもいいわ。話を聞いてたらあんたみたいな人が痴漢するなんて思えなくなっちゃったし」
「触れたのは真後ろにいた私だけだったのでは?」
「きっと死角でもあって横からの手が見えなかったのよ。でも、犯人があんたじゃないとしたら、真犯人はとっくに電車を降りちゃってるわよね。くやしいけど、面白い話を聞けたからいいわ」
あんなのが面白い話だったらしい。
「それに、面白い人とも会えたし」
「面白い人?私、友人からは変人と言われてますがね」
なんだか仲良さげに話している。ムカつくので、僕は名乗り出ることにした。
彼らに近づいて声をかけた。
「あの、この人がお尻を触ったの、見てたんですが……」
「……」
「……」
沈黙。
「本当ですよ。この人の話が面白そうだったんでこれまで黙ってましたが」
「……本当?」
女は男に訊いた。いや、そいつに訊いても意味ないでしょう。
「いやあバレちゃしょうがないですね。適当な話をして逃げようと思っていましたが、途中から話のほうに夢中になってしまいました」
正直だ。というよりただ馬鹿なだけか?
女を見ると、拳を握りしめ震えている。僕は念のため、背中の客を押して彼女から距離を取った。
「しかし、いまさら目撃者がでっぐあああ…あぁぁ!」
女が無言で男を殴った。グーだ。体重の乗った見事なストレート。
それから女は一言も話さず、次の駅で男を引きずるようにして降りていった。
彼らがその後どうなったかは知らない。